2006年03月01日 (水)

今日のお題:吉田松陰『野山獄読書記』の基礎的考察(学術文献刊行会編『2003 年度 日本史学年次別論文集・近現代3』朋文出版、2006年03月)

再録。寂しいので載せてみます。

2006年02月04日 (土)

今日のお題:東方君子国の落日(改訂版)(近代茨城地域史研究会、2006年02月04日)

東方君子国の落日――『新論』的世界観とその終焉(明治維新史学会『明治維新史年報』第3号、2006年12月)
http://shikai.sub.jp/diary.cgi?no=2

になりました。

2005年12月10日 (土)

今日のお題:東方君子国の落日(日本思想史研究会月例会、2005年12月10日)

 戦前における会沢評価は、意外なほどに低い。それは、晩年の彼が尊攘激派ではなく、鎮派を支持したという事情が、明治以後の会沢の評価を低からしめていたのであろう。これに対し、戦後は皇国史観や国体論への批判とともに、水戸学における国体論の理論的思想家(イデオローグ)として会沢がクローズアップされた。本発表は、幕末において、会沢の国体論がいかに変容したかを論ずるために、会沢における国体論の理論的基盤を明らかにすることを目的とするものである。

2005年12月01日 (木)

今日のお題:日韓比較尊攘思想研究 ――尊華攘夷と尊王攘夷のあいだ(慶尚大学校慶南文化研究院・南冥学研究所『南冥学研究』第20号、2005年12月)

KIRIHARA Kenshin: A comparative study of Korean and Japanese Zong-yong (尊攘) thought

In the middle of the nineteenth century (especially after the Opium War), there was a surging chauvinism movements in East Asia. Korean and Japanese chauvinists often shouted similar slogans; Zongfa-yangi (尊華攘夷; Revere the China and expel the foreigners) and Zongwang-yangi (尊王攘夷; Revere the Emperor and expel the foreigners). The activists called these slogans Zong-yang (尊攘; Revere and Expel) for short. Zong-yang thought was not only chauvinism but also nationalism (of course, It was a pre-modern form). The purpose of this paper is to make a comparative study of Zong-yang thought in Korea (Confucian Husan, Heo-Yu (后山・許愈) : 1833-1904) and Japan (Loyalist YOSHIDA Shōin (吉田松陰) : 1830-1859).

Heo-Yu was a famous the scholar of Hanju school (寒洲学派) established by his Master Li Hanju (李寒洲) in the end of the Chosun dynasty. At that time Korea faced imperialist invasions from the West and Japan. It was in a very turbulent age that he lived. In such an age, many Confucians raised the loyal armies, while he devoted all his energy to educating disciples, to proofreading “the Nammyong-zip”(『南冥集』) and “the Lihaku-zongyo” (『理学綜要』), and to publishing the selected works of his Master (“the Hanju-zip”; 『寒洲集』). This is not to say that he lived in the Hermit Nation. All his academic activities were battles against the overall crisis. He insisted on chu-li theory (主理説), because he thought that in order to revive State (社稷) and Moralities (人倫) the tradition of the learning of Chu-Li (朱李; Chuhsi朱子and Li Toege李退渓) had to be only clarified.

On the other hand, the Japanese Loyalist Shōin never insisted on metaphysical Li (理). If anything, it is better to say that he strongly adhered to the school of chu-ki (主気派). His theory and practice were based on the phenomenal world; the fact that Japan exists in inter-national society. He sought after the characteristic property of Japan in this world.

Although both Heo-Yu and Shōin argued for Zong-yong, their bases were different each other; chu-li and chu-ki. This fact mirrors the difference between Korean and Japanese Confucianism.

Key Words; Zongfa-yangi (尊華攘夷; Revere the China and expel the foreigners) and Zongwang-yangi (尊王攘夷; Revere the Emperor and expel the foreigners). The activists called these slogans Zong-yang (尊攘; Revere and Expel), Husan Heo-Yu (后山・許愈), YOSHIDA Shōin (吉田松陰), YAMAGATA Taika (山県太華), the Hanju school (寒洲学派), chu-li (主理), chu-ki (主気)


19世紀中葉、とりわけアヘン戦争以降、排外主義運動がアジアを席巻した。韓国と日本の排外主義者はしばしば似たようなスローガンを叫んだ。すなわち、「尊華攘夷」と「尊王攘夷」である。この活動家たちはこれらのスローガンを「尊攘」と略称した。「尊攘」思想は、排外主義のみならずナショナリズムでもあった(むろん、それは前近代的形態であるが)。本稿の目的は、韓国(后山・許愈: 1833-1904)と日本(吉田松陰): 1830-1859)における尊攘思想の比較研究である。

許愈は、彼の師である李寒洲によって樹立された寒洲学派の著名な韓末の学者である。当時韓国は、西洋や日本からの帝国主義的侵略に直面していた。まさに彼は激動の時代に生きていたのである。このような時代に、多くの儒学者が義兵を挙げていた一方で、彼はみずからの全精力を弟子の教戒と、『南冥集』や『理学綜要』の校正、そして師の選集である『寒洲集』の出版に捧げていたのである。このことは彼が「隠者の国」に生きていたことを意味するものではない。彼のすべての学術活動は、この全面的な危機に抗する「戦い」であった。彼は主理説を主張したが、それは彼が社稷と人倫を回復する手段には、ただ朱李(朱子と李退渓)の学統を明らかにすることだけであると考えたからである。

これに反して、日本の尊王家である松陰は形而上的な理を決して主張しなかった。むしろ彼は強硬な主気派と言っても良い。彼の理論と実践は現象世界――すなわち日本が「国際社会」の内に存しているという事実――に根拠していた。彼は、この世界における日本の固有性を模索し続けていたのである。

許愈と松陰とはともに尊攘を説いていたが、それらの根拠するところは相違していた。すなわち、主理と主気である。この事実は、韓国と日本の儒学における相違を映し出している。

2005年08月01日 (月)

今日のお題:幕末志士における読書――吉田松陰をめぐる同志的ネットワーク構築の一例として(明治維新史学会『明治維新史研究8・明治維新と文化』吉川弘文館、2005年8月)

   はじめに

近年、近世における読書に関する研究が盛んである。しかしこれらの研究の多くは、「なにが読まれたか」という書誌学的な問いから出発しているのではない。むしろ、若尾政希氏の「太平記読み」に関する論攷(『「太平記読み」の時代』平凡社1999年)にも代表されているように、あるテクストが「どのように読まれたか」、あるいは、ある人物が「どのように読書をしたか」を主題としている点で、これまでの文献解釈学的な方法論とは異なった新しい分析視点を思想史の分野に提供している。この意味で、近年の近世読書研究は、読書の存在形態の研究と言うことができるであろう。

幕末志士の一人である吉田松陰(1830(天保1)?1859(安政6))が、みずからの活動の一環として、大量の書籍を読破し、その抄録を作成したことはよく知られた事実である。とくにその読書活動が活発になるのが、1854(安政1)年に際来航したペリー艦隊への密航の罪によって投ぜられた獄中・幽囚中においてであった。それは、まさに松陰が、友人で門人の桂小五郎に宛てて「僕罪を獲て以来、首を図書に埋め、以為へらく天下の至楽、以て是れに尚ふるなし」(「桂小五郎に与ふる書」1857(安政4)年10月29日、『丁巳幽室文稿』、『吉田松陰全集』(大衆版)4巻138頁)と語った通りであって、その詳細な読書記録は、1854(安政1)年10月に始まる足かけ四年の『野山獄読書記』(以下『読書記』)に明らかである。

『読書記』に計上されている全読了冊数1460冊という膨大な書籍のなかには、もとより松陰の実家の蔵書もある程度含まれていたと考えられるが、その多くは実兄の杉梅太郎や松陰の友人たちの借本という形でもたらされたものであり、その記録の一部は『書物目録』や『借本録』に残っている。借本の多くは萩城下やその近郊の友人からのものであるが、中には、諸国遊歴を続ける安芸の一向勤王僧宇都宮黙霖が来萩した際に借りた山県大弐『柳子新論』のような事例もあり、借本を通じた松陰の交友関係の広さを示している。

その他にも松陰は、江戸藩邸大番手勤務の学友である久保清太郎を通じて、書籍の蒐集を依頼している。

「先師の文集之れあるべき事に存ぜられ候。是れ亦長原〔武〕へ御聞合せ下さるべく候。総じて先師赤穂謫後のもの、尤も得難き様に存ぜられ候。」(「久保清太郎宛」1856(安政3)年7月5日、7巻430頁)

先師とは、松陰が修めた山鹿流兵学の学祖・山鹿素行のことである。松陰は1856(安政3)年頃から山鹿素行へ回帰する傾向を見せており、この書籍の蒐集依頼はその一環と言える。さらに、ここで「聞合せ」されている長原武とは、大垣藩の陪臣であり、松陰が江戸留学の際に兵学修行をした山鹿素水塾の同窓であった。このように松陰は、獄中・幽囚中にありながらも、広範な人脈を有しており、それは書籍の入手のためだけではなく、一方でみずからの志を共有する人々とのネットワークとしても機能したのである。

松陰は長州藩内でもかなり遠距離に居住する人物と書籍の貸借を行っており、本稿はまず三田尻(現防府市)の下級官吏で蔵書家の岸御園と松陰との間における書籍貸借の実態から、それがさらに藩という枠組みを越えた人的ネットワークを構築する過程を明かにし、さらに、須佐(現萩市)の育英館学頭小国剛蔵との書籍貸借を通した幕末志士の同志的連帯の形成について論ずることを目的とするものである。このことは幕末志士における公共性の基礎となったその「志」なるものが、「尊王」や「攘夷」といった単なる観念的な言説などではなく、実際の具体的な関係の中で育まれていった事実を示すことになろう。

2005年05月23日 (月)

今日のお題:「環境」へのまなざし――日本における自然観の連続と非連続―(「2005年渋沢国際儒教研究セミナー 中日近代企業家の文化事業と社会事業――渋沢栄一と張謇の比較研究」、2005年5月21?23日、中華人民共和国・南通市・文峰飯店)

1 張廷栖(張謇研究センター幹事会副会長、南通大学教授)
  「張謇と渋沢栄一の環境保護方面の貢献」
2 井上潤(渋沢史料館館長)
  「計画的住宅地開発と環境改善――田園調布を事例として」
3 桐原健真(東北大学助手)
  「「環境」へのまなざし――日本における自然観の連続と非連続」

コメンテータ
 周維宏
 馬敏

司会
 マーティン・コルカット

2005年04月01日 (金)

今日のお題:「第17章 蘭学の成立と内憂外患」(佐藤弘夫編集代表『概説日本思想史』ミネルヴァ書房、2005年04月)

 目 次
1 洋学と蘭学
 蘭学の成立
 『解体新書』の背景と意義
 蘭学の影響と世界観の拡大

2 経世家の登場と文化的ネットワークの形成
 経世家と幕藩体制の動揺
 軍事的経世論
 商業的経世論
 農業的経世論
 経世論の特徴

3 鎖国意識と後期水戸学の成立
 北方の脅威
 『鎖国論』
 対外的緊張の高まり
 水戸学の登場
 水戸学の思想とその影響

 じつに普通のことが書いてあります。教科書ですものね。

2005年03月01日 (火)

今日のお題:幕末における普遍と固有――吉田松陰と山県太華(日本思想史研究会『年報日本思想史』第4号2005年3月)

 東漸する西洋列強を中心とした「国際社会」の確立という世界史的状況を現前にした一九世紀後半の東アジアにおいて、そのいわゆる「国際社会」なるものの認識において、朱子学的普遍主義がはたした役割の大きさについては、しばしば論及されるところである。すなわち、「万国公法」(international law)の受容において、その根幹を支える「自然法」(natural law)の概念に関し、それが「性法」と訳されたことも相俟って、朱子学の「性即理」の観念が大きく貢献した。この点を早い時期から指摘した人物に、丸山真男がいる。

「この〔国家平等観念受容の〕媒介の役を果たしたのがほかならぬ儒教哲学である。とくに旧幕時代に正統的教学として君臨した朱子学の論理構成がこうした役割を果たした、ということは一つの歴史的イロニィに属する。ちょうどヨーロッパにおける国家平等の観念がストア主義とキリスト教に由来する自然法思想の背景の下に形成されたように、わが国において朱子学に内在する一種の自然法的観念が、諸国家の上にあって、諸国家を等しく規律するある規範(ノルム)が存在することを承認する媒介となった。」(1)

 もとよりこれは、丸山が朱子学を近世の正統イデオロギーであると考えていた時期の論攷であるが、その朱子学理解が改められたのちにおいても、朱子学を経由した「万国公法」・「国際社会」の受容という図式は残り、今日に至っている。

 たしかに、東アジアにおける「万国公法」(2)の理解に朱子学が果たした役割は否定できない。しかし、「万国公法」の基礎をなしている自然法が、「個人」における自然法のアナロジーとして構成されているという法思想的史背景を閑却し、ただその「公理」性をのみを受容してしまったことは、「万国公法」を人間が定めた法としてではなく、超越的な真理として理解することともなり、それゆえ、現実の「万国公法」の運用に際して、多くの問題を生じさせることとなったことも否定できない事実である(3)。

 すなわち「万国公法」の運用には「公理」としての普遍性と同時に、その法を実践する主体たる諸国家の固有性が理解されることが不可欠であった以上、その受容の問題は、単に普遍性の承認を照準とするのだけでは十分ではない。むしろ「日本」という自己を、「国際社会」において、他者たる「万国」に対峙させていこうとする自他認識の転回こそが問題とされなければならないのである(4)。

 本稿は、幕末の思想家である吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?五九〈安政六〉)における普遍と固有の問題を、老朱子学者山県太華(一七八一〈天明元〉?一八六六〈慶応二〉)との論争から論ずることを目的とするものであり、このことは、幕末日本が「国際社会」という一箇の普遍に対し、いかに対応しようとしたのかを明らかにすることに資するものとなろう。

   註
(1)丸山真男「近代日本思想史における国家理性の問題」一九四九年、丸山真男『忠誠と反逆』一九九八年ちくま学芸文庫二四九頁。
(2)W・マーティン漢抄訳の『万国公法』(H・ウェートンElements of International Law 6ed.1855.)は一八六四年刊、翌年和刻。
(3)この傾向は、とくに朝鮮において強かった。それは、「万国公法」に裏切られるまでに、比較的時間を要したためでもある。金容九「朝鮮における万国公法の受容と適用」、『東アジア近代史』第二号一九九九年参照。
(4)幕末維新期における自他認識の転回については、拙稿「幕末維新期における自他認識の転回――吉田松陰を中心に」(『年報日本思想史』創刊号二〇〇二年)参照。

2005年03月01日 (火)

今日のお題:吉田松陰の「神勅」観――「教」から「理」へ、そして「信」へ(日本倫理学会『倫理学年報』第54集2005年3月)

   On YOSHIDA Shōin's view of “Shinchoku”(the divine Edict of Amaterasu Ōmikami or the Sun Goddess)

The purpose of this paper is to explicate a formation process of YOSHIDA Shōin's (an activist and royalist in the last days of the Tokugawa-regime 1830-1859) philosophy concerned with Shintō (the way of the gods), especially “Shinchoku”.

"This Reed-plain-1500-autumns-fair-rice-ear Land is the region which my descendants shall be lords of. Do thou, my August Grandchild, proceed thither and govern it. Go! And may prosperity attend thy dynasty, and may it, like Heaven and Earth, endure for ever"(“Nihongi” Trans. W. Aston. 1924. 1:77.) .

This is what is called “Tenjō-mukyū-no-Shinchoku” (the divine Edict of eternity as heaven and earth) promulgated by Amaterasu Ōmikami, who sent her grandson from heaven to earth (Japan) to found a dynasty “to rule eternally”. Shōin believed in “Shinchoku”, asserting that “every way of Kōkoku (the Empire of Tennō) originated in the age of the gods; therefore all Japanese subjects should believe in this myth (‘Kōmō-Sakki-hyōgo-no-hanpyō').” This paper provide an answer to the question as to why he came to believe in it.

In Shōin' s early period, he considered Shintō and “Shinchoku” an ideology to rule people. The reason why he came to believe in “Shinchoku” was that Kokugaku (Japan's “Native Studies”) had exerted a strong influence upon his thought. He read in MOTOORI Norinaga's (a pivotal scholar of Native Studies 1730-1801) “Naobi-no-Mitama” (the Spirit of Renovation) that “Shinchoku” had been the sacred promise which assured eternal independence of Japan. Since then, he came to regard “Shinchoku” not as a mere ideology but as the thesis that everyone has to believe in. It was this belief, that lay in his thought at the foundation of his Sonnō-jōi (Revere the Emperor and Expel the Barbarians) movement. Although it is generally accepted that “Shinchoku” was a political ideology in modern Japan's Emperor system, for Shōin the meaning of “Shinchoku” was completely different from that of modern Japan.


    吉田松陰の「神勅」(天照大神の聖勅)観について

本稿の目的は、吉田松陰(幕末の活動家・尊王家、1830-1859)の思想形成過程を、神道――とくに「神勅」に関して詳論することである。

「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治せ。宝祚の隆まさむこと、当に天壌と窮り無けむ。」(坂本太郎他校注『日本書紀』岩波文庫1994年、1巻132頁)

これが、天照大神によって発せられたいわゆる「天壌無窮の神勅」である。この神は、みずからの孫を、永遠に統治される王朝の樹立のために、高天原から大地(日本)に降したのであった。松陰はこの「神勅」を信じ、それゆえ次のように主張したのである。「皇国の道悉く神代に原づく。則ち此の巻〔『日本書紀』神代巻〕は臣子の宜しく信奉すべき所なり」(「講孟箚記評語の反評」)と。本稿は、彼がなぜ「神勅」を信じるに至ったのかという疑問に解答を与えるものである。

初期松陰において、神道や「神勅」は人民統治のためのイデオロギーと考えられていた。彼が「神勅」を信じるようになった理由は、国学が彼に強い影響を与えたからである。彼は、本居宣長(著名な国学者、1730-1801)の『直昆霊』を読み、「神勅」が日本に永遠の独立を保証する神聖な約束であることを知った。それゆえ彼は、「神勅」をたんなるイデオロギーとしてではなく、すべてのものが信ずべきテーゼとして考えるに至ったのである。この「信」こそが、彼の思想においてその尊王攘夷運動の基礎をなした。周知のように、「神勅」は近代日本天皇制の政治的イデオロギーであった。しかし松陰にとっての「神勅」の意味は、近代日本のそれとは全く異なっていたのである。

2005年02月05日 (土)

今日のお題:幕末志士の読書―吉田松陰の書籍貸借をめぐって(「書物・出版と社会変容」研究会、2005年02月05日、国立市・一橋大学)

以下の論文になりました。

幕末志士における読書――吉田松陰をめぐる同志的ネットワーク構築の一例として(明治維新史学会『明治維新史研究8・明治維新と文化』吉川弘文館、2005年8月)
http://shikai.sub.jp/diary.cgi?no=5

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