2007年10月21日 (日)

今日のお題:「帝国」日本の誕生――あらたな「帝国」研究の構築を目指して(日本思想史学会、2007年10月21日、於長崎大学)

 明治という時代がはじまって間もない一八六九年から翌年にかけて、明治国家は一つの外交問題に直面していた。すなわち各国君主の敬称をいかに表記すべきかという問題である。もとよりそれは日本の独立そのものが危機に瀕している中においては、数ある諸問題のうちの一つに過ぎなかったとも言えるが、これによって外交文書の往来に渋滞を来したことを考えれば、決して過少視しうるものではないであろう。

ことは一八六九年二月三〇日(陰暦)に各国君主の辰誕(生年月日)を照会する外国官(外務省の前身)よりの和文書簡において、イタリア国王を「国王殿下」と呼称したことから始まる。そもそも君主の呼称にはhis/her Majesty(陛下)を用いることが一般であるにもかかわらず、あえて「陛下」に一等降る「殿下」(his/her Highness)を用いたことは、外交的礼義からはずれたものであり、イタリア公使がこの書簡を「差返」したというのも軽々に非難することは出来ない。しかしながら、外国官においてはこのイタリア公使の異議申し立てに対し、「国王と相認候上は、殿下の文字相加候は先至当の儀」であると「殿下」号の使用を譲ろうとはせず、かくてイタリア公使との間の外交文書の往来に渋滞が生じるに至ったのである。

この問題はたんなる敬称問題ではなく、日本が「天皇陛下」を戴く「帝国」であり、「国王」を戴く「王国」とは質的にも異なっているという自己認識がその背景にあった。それは、近世東アジアにおける華夷秩序と近代西洋国家間関係という異質な国際秩序認識の混在がもたらしたものでもあった。本発表はこのような「帝国」日本認識の思想史的背景をふまえ、それが近代においていかに変容したのかということを明らかにすることを目指すものである。

2007年10月13日 (土)

今日のお題:直線と円環――吉田松陰の死生(日本倫理学会大会発表資料、2007年10月13日、於新潟大学)

吉田松陰(一八三〇?一八五九)は晩年――とは言うものの、わずか満二九歳なのだが――において、その言動の過激さを憂慮した長州藩政府により、かつて一年余を過ごした野山獄に再投獄された。しかし獄中にあってもなおその激烈さを増していった松陰を見た彼の朋友・弟子たちは時勢論の立場から彼と距離を置いたため、松陰はその日和見主義的態度を批判し、つぎつぎと彼らを「絶交」してしまう。「吾れ諸友の棄つる所となる、吾が道非なり。吾れ已に諸友と絶つ」(「無咎に与ふ」一八五九年一月二三日、以下すべて同年)という松陰の叫びは、みずからと志を同じうするもの(「同志の士」)の不在から来るものにほかならなかった。そしてこれ以降、松陰はみずからの死を渇望するようになる。

投獄直後に、「吾が輩皆に先駆て死んで見せたら観感して起るものあらん」(「某宛」一月一一日)と書き送った松陰は、やがて「国家天下の事、懣鬱不平、吾れ一日も此の世に居る事を欲せず。早々一死を賜り候様御周旋下され度く候」(「来島・小田村・桂・久保宛」三月二六日)と「賜死周旋」を周囲に依頼するまでになる。そこには死罪となった自分自身を周囲の目に焼き付けさせることによって、「観感して起るものあらん」ことを期待するという「先覚後起の思想」(高橋文博『吉田松陰』清水書院一九九八)を見ることができる。

「吾が知己なれば死を賜ふ事の周旋をして下され度し」(「岡部富太郎宛カ」四月九日)と、あくまでみずからの死を契機とした「後起」を切望していた松陰は、しかし、この「賜死周旋」を請うたわずか三日後に、突如として死を拒否するに至る。すなわち「吾が放囚し去らるるを待つて、大事乃ち籌(はか)るべし。丈夫は身なきを患(うれ)ふ、命を惜しむも君尤(とが)むることなかれ。」(「同囚の歌の後にして和作に示す」四月一二日)と詠った松陰は、生きながらえることにこそその希望を見出したのである。本発表は、松陰におけるこの劇的な死生観の転回を主題とするものである。

かつて松陰にとって死とは生に対立し、これを否定するものとして理解されていた。その否定性ゆえに、みずからの死が残されたものの生を揺さぶり、その「後起」をうながす力を持つと彼は考えていたのである。それはいわば死を手段としつつ、また同時に目的とするような、死に向かって直線的に生を終えようとする在り方であった。しかし、「転回」後の松陰は、死を生の対立概念としてではなく、あくまで生(生老病死)の一様態あるいは結果の一つととらえるようになる。すなわち死を目的として生きるのではなく、「四時〔四季〕の順環」(『留魂録』一〇月二六日)のように、円環をなす全体としての生を生きる在り方を松陰は模索するようになったのである。

2007年10月01日 (月)

今日のお題:桐原健真(葛睿訳)「作為近代化的模式――新新世界之雛形」、第四届張謇国際学術研討会組委会編『張謇与近代中国社会』南京大学出版会、2007.10、173?179頁)

前の年の秋にやった発表を中文化してもらいました。

Abstract
「国際社会」が所与のものとして存在していた時代に生れた張謇(1853?1926)は、「天下は一家、中国はその一員」と主張して、自らを近代化し、「国際社会」の一構成員となることを欲した。本稿は彼の近代化思想を、その範型の模索という側面から、日本の明治維新における近代化と比較しつつ論ずることを目的とするものであり、このことは東アジアにおける近代化の諸相を考察することに資するものともなろう。
Key words
近代化・範型・明治維新・実業・立国自強

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