2016年11月09日 (水)

今日のお題:お詫びと訂正

先日、「一時的に在庫切れ; 入荷時期は未定です。」となっている――と申し上げました下記の本ですが、

Amazon.co.jp: 戦後歴史学と日本仏教: オリオン クラウタウ: 本

ただいま現在、「この本は現在お取り扱いできません。」となっております。

なんでしょうか、アマゾンではもはや対応が追いつかないと言うことで、もう取り扱うのをあきらめたのでしょうか。

と言うわけで、版元へのリンクを張っておきましょう。

戦後歴史学と日本仏教 - 法藏館書店
http://www.hozokanshop.com/?ISBN=978-4-8318-5544-2

せっかくなので、惹句と目次も転載です。

敗戦により「日本仏教」像はどのように再構築されたのか。戦争を経験し、戦後の歴史研究をリードした、家永三郎、服部之総、井上光貞など15人の研究者の営みから考察する。

目次:
タイトル執筆者
戦後歴史学と日本仏教――序文オリオン・クラウタウ
家永三郎――戦後仏教史学の出発点としての否定の論理末木文美士
服部之総――「生得の因縁」と戦後親鸞論の出発点桐原健真
井上光貞――焼け跡闇市世代の歴史学平雅行
圭室諦成――社会経済史の日本宗教研究林淳
古田紹欽――大拙に近侍した禅学者大澤広嗣
中村元―――東方人文主義の日本思想史西村玲
笠原一男――戦後歴史学と総合的宗教史叙述のはざま菊地大樹
森龍吉―――仏教近代化論と真宗思想史研究岩田真美
柏原祐泉――自律的信仰の系譜をたどって引野亨輔
五来重―――仏教民俗学と庶民信仰の探究碧海寿広
吉田久一――近代仏教史研究の開拓と方法繁田真爾
石田瑞麿――日本仏教研究における戒律への視角前川健一
二葉憲香――仏教の立場に立つ歴史学近藤俊太郎
田村芳朗――思想史学と本覚思想研究花野充道
黒田俊雄――マルクス主義史学におけるカミの発見佐藤弘夫

著者紹介:
1980年ブラジル生まれ。
東北大学大学院国際文化研究科准教授。
専門は宗教史学(近代日本仏教)。東北大学大学院国際文化研究科准教授。著書・論文に『近代日本思想としての仏教史学』(法藏館、2012)、「宗教概念と日本」(島薗進他編『神・儒・仏の時代――シリーズ日本人と宗教第二巻』春秋社、2014)、「近代日本の仏教学における”仏教 Buddhism”の語り方」(末木文美士ほか編『ブッダの変貌――交錯する近代仏教』法藏館、2014)ほか。

2016年11月08日 (火)

今日のお題:桐原健真「モノとしての書籍」、パネルセッション「近世日本における出版文化の諸相」、日本思想史学会2016年度大会、2016年10月30日、吹田市・関西大学

本パネルセッションは、大会委員が組織したシンポジウム連動企画である。近代に接続する近世の出版文化について三人のパネリストとともに議論していきたい(司会・伊藤聡〈茨城大学〉)。

パネリスト
・引野亨輔(千葉大学)「経蔵のなかの正統と異端」(要旨略)
・吉川裕(東北大学専門研究員)「徂徠学派における詩文集刊行とその意義」(要旨略)
・桐原健真(金城学院大学)「モノとしての書籍」
要旨「後期水戸学の大成者」(植手通有)とされる会沢正志斎に文集や全集等が『会沢正志斎文稿』(2002)以外に見られないことを意外と感じた者は少なくないだろう。幽谷・東湖父子に全集があることを考えれば、その念は更に強くなる。だが会沢の文業を遺す試みが皆無だったわけではなく、その全容を世に問う動きは彼の存命中からあったが、その主著を『新論』に求める理解は今なお強い。しかし『新論』は始めから「尊攘」や「国体」と結びつけて受容されたのではない。本発表は『新論』を手がかりに幕末におけるモノとしての書物の社会的存在を問うものである。

とまぁ、ぶち上げたのですが、少々不完全燃焼でございます。

一番の引っかかりは、会沢正志斎の『退食間話』を誰が出したのかという問題でして、こちらの扉には「御蔵板」と書いてありますので、瀬谷義彦先生などは、「その版本は弘道館蔵版の一冊だけである」(瀬谷義彦「退食間話解説」、日本思想大系53『水戸学』岩波書店、1973年)と仰っているのですが、どうもそれにしても変な版だなぁと想い続けていたわけですが、やっぱりよく分かりません。

さらに、見返しには、こんな印が押されてございます。で、これが何と書いてあるのかが分かりません。とりあえず二文字目以降が「條殿御藏板」というのは確定して宜しいのですが、これが何條なのかが分かりません。

篆刻の専門の方に伺いましても、

「日本の篆刻はいい加減だからねぇ」

と、なんとも恐縮なことを仰るので、非常に困って、発表当日に至り、恥を忍んで、

「お分かりになる方、是非ご教示を賜りたく」

と申しましたが、結局、どなたにもご教示戴けず終わってしまった次第。

いろいろ検討はしてみたのですが、おそらくは「五條殿御藏板」だろうというのが、現在の結論でございます。

五条家と申しますのは、摂家でも何でもございませんで、菅原氏の庶流でございまして、所謂半家であります。おそらくここら辺の公家あたりからなんらかのルートで版行されたのだろうと思うのですが、正直、江戸のことばかり目が行っており、京都での出版事情というものに理解がなく、どういうことなんじゃろ、と謎が謎を呼んで、次回に続くという次第でございます。

御蔵板だと検閲とかそこら辺、どういう扱いになったんでしょうねぇ。まったくもってそういう実社会の次元のことは不案内でございます。昔も今もですが。

2016年11月07日 (月)

今日のお題:桐原健真「服部之総――「生得の因縁」と戦後親鸞論の出発点」、オリオン・クラウタウ編『戦後歴史学と日本仏教』法藏館、2016年、49〜75頁

ついに出ました!

戦後歴史学と日本仏教

いや、ホントにこれは立派な本ですよ。お疲れさま! 編者! 

Amazon.co.jp: 戦後歴史学と日本仏教: オリオン クラウタウ: 本

アマゾンではうっかりと「一時的に在庫切れ; 入荷時期は未定です。」となっていますが、もはや洛陽の紙価を貴からしめんがごとき事態となっております――などと、異常な盛り上がりで恐縮です。

なんにしても、カバーを見ても分かりますように、これだけの人間を一気に出したことの意義はすばらしいモノがございます。

なぜ当方が服部之総を書いているのかということについては、単純に好きだからとしか申せませんが、とても書いていて楽しかったです。なんとも小学生のような感想でございますが、まぁ、ホントに服部君は面白い人なぁと改めて思った次第。

2016年11月05日 (土)

今日のお題:桐原健真「吉田松陰の視点:攘夷とは何か」、間部詮勝シンポジウム『安政の大獄の真実:幕末史における再評価』鯖江市、2016年、2-14頁

随分前のモノだったのに、書き込むのを忘れていたというヤツでございます。

以前、鯖江にお邪魔して一席打ったモノ

思海 | 桐原健真「吉田松陰の視点―攘夷とは何か―」(間部詮勝シンポジウム、鯖江市・鯖江市文化の館多目的ホール、2015年05月23日〜2015年05月24日)

の活字化というところでして、そんなにエラク変わったものでもございません。ただ、「尊王攘夷」って変なことばだよね〜と言うことに関して、少々説明を加えた次第。

だれでも「尊王攘夷」できる時代になったことが、幕末の混乱を加速させたんだ、ことばってことほど斯様に怖いものなのですよ――というお話しをして、後は松陰のお話しに流れ込むという算段でございます。

2016年11月04日 (金)

今日のお題:桐原健真「The Birth of a Myth: Civil War and Sacrifice in Early Meiji Japan」"Anthropoetics" 22巻1号、2016年

1."Sacrifice" and "Gisei"
In Japanese, the English word "sacrifice" is also expressed with a classical Chinese word "gisei (犠牲)." These words are a perfect match. It is because "犠 gi" which is composed "牛 (cow) + 羊 (sheep as the most common offering) + 我(jagged spear to kill the offering)" means "a cow killed with a jagged spear as an offering to the Divine", and then "牲 sei" which is composed "牛 (cow) +生 (live)" means "a living cow for offering to the Divine." It can be said that "gisei" is truly an appropriate word to translate"sacrifice."

However, in contemporary Japanese, "gisei" means not only "sacrifice" but also "victim." This usage, which differs from the original meaning, appeared at the end of the nineteenth century. For example, when a Japanese newspaper reported that the Chinese emperor sent a personal telegraph to the German emperor to grieve over the death of a German minster who had fallen a victim to the daggers of the Boxers (義和団) the year before, the article used "gisei" for "victim."*

It is clear that this "gisei" was not an offering dedicated to a divinity. In this way, its primary meaning in modern Japanese, which is different from the original meaning as "a sacred offering" to something great, is "the unfortunate death" of the blameless.

*"We are deeply grieved at the death of your Majesty’s Minister who fell a victim to a sudden uprising in China which our officers had not been able to suppress.(陛下の公使が突然清国に勃起し、朕が官寮〔ママ〕の鎮圧する能はざりし暴動の犠牲となりしは、朕の深く哀悼に禁へざる所なり)" ("Exchanges of personal telegrams between Germany and Chinese Emperors" the morning edition of Asahi-shinbun. October 24, 1900. p. 2.)



というわけで、初めてのweb雑誌論文でございます。

Kirihara - Civil War and Sacrifice
PDF版 http://www.anthropoetics.ucla.edu/ap2201/2201Kirihara.pdf
HTML版 http://www.anthropoetics.ucla.edu/ap2201/2201Kirihara.htm

内容としては、ルネ・ジラールのミメーシスですとか、犠牲の論理を日本で考えてみたときにどうなるのか――というテーマで夏頃にやったパネルセッションの文字化となります。

とは言え、毎度のことながらまっとうにやるのではございませんで、
そもそも、Sacrificeの訳語が犠牲ってなってるけど、現代日本語的にそれっておかしくない? 今の日本で「犠牲」って言ったとき、〈尊い命が犠牲になりました〉とか〈地震で××名が犠牲に〉とか使うのが普通だよね。献げる対象を喪失した犠牲の存在形態に、近代日本の宗教忌避的傾向がみえるのではないでしょうか〜!?

とかいう、いつもの意気込みで始めたのですが、やはり、あれよあれよと別な方向に行ってしまったというのが今回のお話しでございます。

当日のパネルセッションでは、日本のとある文化人類学の大家先生が、「日本にはscapegoatというものはないんだ」と言ったけど、オマエどう思う? みたいな質問が出てきて、正直文脈が分からなくて、可能性としては、

1 よくある〈日本文化〉論
2 文化人類学的に正確な意味で定義されたscapegoatを踏まえた議論


の二択で迷ったのですが、とりあえず

「あの先生は、たくさん本を書いているから、全部読んだことがない。なので、どこに書いてあるか分からないので、よく分からない」

ととりあえず、言ってみたら、そこそこ笑われたので、すかさず、

「しかしながら、日本にscapegoatがないというのは、おそらく正しい。なぜならば、日本にgoat(山羊)はいないからです

と言ったら、ちゃんと受けてました。よかった、よかった。日本でのお土産を渡せたね。

ただし、あとで確認したら、日本にもごく一部分西南地方にいるらしいということを知りまして、う〜ん、ちょっと言い過ぎたなぁと思った次第。でも、まぁ、そんなにウソは言ってないと思うよ。少なくとも、あそこら辺にいる山羊は生贄にはなってないと思いますし。

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