2015年06月04日 (木)

今日のお題:桐原健真「吉田松陰の視点―攘夷とは何か―」(間部詮勝シンポジウム、鯖江市・鯖江市文化の館多目的ホール、2015年05月23日〜2015年05月24日)

福井県鯖江市の間部詮勝シンポジウムに登壇して参りました。

福井県鯖江市>間部詮勝シンポジウム
http://www.city.sabae.fukui.jp/pageview.html?id=16275

間部詮勝の暗殺計画を立てた人間についてやってる当方を、よくもまぁお呼び下さったということで、恐縮の至り。

とはもうせ、実際に暗殺された井伊直弼とはちがって、未遂も未遂、計画を立てただけですので、まだ良いのかも知れません。

でも、あの人、
クーボール三門、百目玉筒五門、三貫目鉄空弾二十、百目鉄玉百、合薬五貫目貸下げの手段の事。
(「前田孫右衛門宛」1858(安政5)年11月06日)

なんて言っておりますんで、もはやこれは暗殺とかいう以前の武装蜂起と言っても宜しいかと。

そもそも薩摩の島津斉彬が、2,000人だか3,000人で卒兵上京しようとか言っていたのに比べると、随分と可愛い規模ではありますが、これが瀬戸内周りか日本海周りか分かりませんが、往き往きて進軍していたら、それはそれで面白かったかと。

どうも、松陰の所には、薩摩藩の上洛計画やら、伊井大老暗殺やら虚実入り交じった情報が来ていたようでして、彼自身、この流れに乗り遅れてはいけないと思っていたようでございます
御当家に於ては他藩の誘ふ迄も之れなく、勤王の御志確然たる御事に候へば、此の度〔上京〕の一挙に付き、下より御願申出づるには及ばず、謹んで御指揮待ち然るべき事に御座候へども、私共時事憤慨黙止し難く候間、連名の人数早々上京仕り、間部下総守・内藤豊後守打果し、御当家勤王の魁仕り、天下の諸藩に後れず、江家の義名末代に輝かし候様仕り度く存じ奉り候。此の段御許容を遂げられ下され候様願ひ上げ奉り候。以上。
(「周布政之助宛」1858(安政5)年11月06日)

「鶏口となるも牛後となるなかれ」という矜持なんでしょうか、ある種のセクト主義とも申せます。

などと書いては見ましたが、実際の発表ではそんなことはまったくお話ししておりませんで、そもそも求められたお題が「攘夷概念についての考察」なわけでして、これまたなかなか抽象度の高いお話しでございます。

とはいえ、鯖江にまで行きながら、間部の話がまるで出てこないとなると、少々申し訳ないので、一寸だけ話をしましたですよ。

とりあえず、改めて考えてみると「尊王攘夷」って変なことばだなぁということをお話しいたしました。そもそも「尊王攘夷」って、主語を考えると文法的に問題があるんじゃないかと。「尊王」は臣下の必須行為であるにしても、「攘夷」というのは明らかに主君の専権事項なわけで、臣下一般が手を出すべきことではないのです。「尊王」という道徳的信条が、「攘夷」という軍事的主張と結び付いたとき、政治的運動に転化していくというのが、「尊王攘夷」ということばの不思議というか大跳躍なところなのでございます。

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