2009年03月17日 (火)

今日のお題:尊王と攘夷――「水府の学」としての後期水戸学(東北大学・奈良女子大学合同研究会シンポジウム「日本の政治の形(かたち)――王権と政治権力をめぐって」2009年03月16?17日・於奈良女子大学文学部)

水戸藩校弘道館に祀られるのは、なぜ祖先神ではなく鹿島神なのか? 尊王と攘夷という位相を異にする政治イデオロギーを体現する存在として鹿島神を捉えたとき、「常陸国領主」としての水戸藩の歴史的・地政的自己認識が見えてくる。後期水戸学は、まさに水戸においてこそ成立する政治神学の体系だったのである。

――というような話をしました。それはそれとして、奈良女に行っての一つの収穫がこれです。

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奉安殿

まだ存在するんだね、奉安殿。ある意味歴史遺産です。

そのほか、奈良というものを実に堪能できたシンポでございました。日々感謝の心です。

2009年03月07日 (土)

今日のお題:陶徳民・姜克實・見城悌治・桐原健真編著『近代東アジアの経済倫理とその実践 渋沢栄一と張謇を中心に』・『東アジアにおける公益思想の変容 近世から近代へ』日本経済評論社、2009年

陶徳民・姜克實・見城悌治・桐原健真編『近代東アジアの経済倫理とその実践 渋沢栄一と張謇を中心に』日本経済評論社、2009年(定価3,800円+税)

$FILE1_l 第01部 倫理と思想
第01章 東アジア的価値観を有する近代産業の指導者(馬敏)
第02章 近代日中両国の「経営ナショナリズム」についての一考察(于臣)
第03章 渋沢栄一と張謇の実業思想についての比較(周見)
第04章 近代日中両国の企業家と官・商関係(中井英基)
第05章 渋沢栄一の経済倫理構想と徳育問題(沖田行司)
 第02部 社会と公益
第06章 張謇の社会事業と日本(呉偉明)
第07章 環境保護に対する張謇の功績について(張廷栖)
第08章 「中国女学堂」の設立から見る経元善の社会公益事業(石暁軍)
第09章 中日両国の近代文化事業における張謇と渋沢栄一の意義(銭健)
 第3部 文化と公益
第10章 渋沢栄一と『論語』(松川健二)
第11章 渋沢栄一による歴史人物評伝出版とその思想(見城悌治)
第12章 張謇と翰墨林印書局の翻訳・出版事業(鄒振環)

陶徳民・姜克實・見城悌治・桐原健真編『東アジアにおける公益思想の変容 近世から近代へ』日本経済評論社、2009年(定価3,800円+税)
$FILE2_l 第1部 歴史における公益思想の諸相
第01章 近世中国における儒教倫理と商人精神(余英時)
第02章 東アジアの救済施設としての社倉(陶徳民)
第03章 近世における経済道徳と慈善事業との関係(L・ロバーツ)
第04章 近世イギリスの社会公益事業(坂下史)
 第2部 近代日本における公益思想の変遷
第05章 近代日本社会の形成と儒学思想(姜克實)
第06章 「病院」の思想:幕末維新期における西洋社会事業観念の展開(桐原健真)
第07章 渋沢栄一にみる公益という名の慈善(山名敦子)
第08章 留岡幸助の慈善事業思想(室田保夫)
 第3部 近代中国の公益思想 
第09章 中国社会福祉史上における近代の始まり(夫馬進)
第10章 近代中国実業家の社会奉仕(朱英)
第11章 近代南通における社会保障システムの構築と張謇の役割について(趙明遠)
第12章 張謇・熊希齡にみる近代社会公益思想の展開(陳瑋芬)

当方の論文「「病院」の思想――幕末維新期における西洋社会事業観念の展開」は、2冊目に入っております(117?136頁)。1冊目は編集後記だけです。

2004年ごろから営々と続けてきた研究会がようやく実を結びました。近代日本を東アジアという枠組みの中に据えて検討したいという方にはおススメです。とくに、経済思想というか近代化論的には結構面白いです。

中国近代化において、仏教を中心とする宗教思想に期待する傾向がかなり存在したというのは、興味深い指摘です。

日本では西村茂樹が『日本道徳論』なんかで「世外教」(宗教)ではなく「世教」(哲学)でもって国民道徳をうち立てようとする近代化論を主張していたことを考えると、近代化における宗教の役割に関する日中比較とかやってみたくなりました。>やるんかい

まぁ、アタシの論文「病院の思想」も「どうして日本人は近代において宗教思想を軽視するようになったのか」というところから始まっているわけですから、そう遠くもないかと。

ちなみに、研究会のこれまでの軌跡はコチラ
  ↓
渋沢国際儒教研究チームHP
http://www.sal.tohoku.ac.jp/shibusawa/

いやホント、かなり喜びがございます。中国の方と遣り取りしなければならないというのに、中国語ができないという絶望的な状況にも関わらず、辞書を引き引き例文をコピペし続けたのも懐かしい思い出です。っていうか、大丈夫だったんだろうかあの文章。

日本経済評論社の方々には随分とご面倒をおかけいたしました。御礼申し上げます。>こんなところで言ってどうする

2009年03月01日 (日)

今日のお題:求法の道――河口慧海と「日本仏教」(小川原正道編『近代日本の仏教者における中国体験・インド体験』DTP出版2009年03月、61?72頁)

はじめに

二度のチベット旅行で知られる河口慧海(一八六六?一九四五)を「明治の精神の凝った美しい花のひとつである」と称えたのは、川喜田二郎氏である。氏は次のように、慧海および彼によって表現された「明治という時代」を表現している。

「河口慧海は、あの偉大な明治という時代の生みおとした精華である。その明治の近代化というものは、じつに世界史的な大事件であったのだ。西欧に始まった近代化という一大変革は人類の歴史に永久に記念されるべきできごとであった。このできごとの波はやがて全地球上を覆っていったのであるが、はじめのうちは欧米人にしかできないことと思われていたのである。ところが、その西欧から海山万里をへだてた極東の世界で、突如として近代化の刺戟に積極的に反応しはじめたものがある。それが日本だったのである。」

ここからは、近代化に対する惜しみない賛辞と、ヨーロッパにはじまったそれを実現しえた明治日本への自負を見ることが出来よう。チベットという未踏の地を「探検」した慧海を文明日本の象徴的存在と見敵す氏は、慧海のうちに、同様にこの地域を「探坐遷する人類学者としての自分自身を重ね写しているようにも見える。

慧海に対する評価は久しく探検者としてのものであった。とくに戦後日本においては、文化人類学および地理学の偉大な先駆者としてその学問的系譜のうちに位置づけられてきたのである。もとよりこのような「探検家」としての慧海評価は彼の帰国直後から存在しており、哲学館(現在の東洋大学)以来師事していた井上円了二八五八?一九一九)によっても「西蔵探検僧河口慧海」と表現されている。

しかし本来、仏教者として求法のために入蔵した慧海であったが、一方で仏教者としての評価は必ずしも高いものではない。もちろん日本における梵蔵仏典学の先駆的人物としての評価は揺るぐ}」とがないものの、近代日本仏教の系譜において彼が語られることは少ないのである。それは、慧海における「仏教原理主義」(奥山直司氏)とも言われる宗教的実践の姿が、「日本仏教」のうちにみずからが取り込まれることをもはや拒否してしまっているからでもある。

明治初年の廃仏毅釈によりそれまでの政治的特権性を剥奪され、また神道との親和性を宗教的にも否定され、多方面で大きな打撃をうけた仏教界は自己改革に迫られた。その結果成立した仏教が、いわゆる「日本仏教」とよばれるあらたな仏教のあり方である。それは近代以前の護法護国論に系譜しつつも、国民国家としての日本の存在を前提とした一国史的語りの一つのバリエーションでもあった。

井上円了『仏教活論序論』(一八八七年)に代表されるこの言説は、その強い政治性の一方で宗教的信仰の側面における後退をもたらした。それは宗教一般が国民道徳論においてその役割を期待されなかったことも一因をなしているのだが、近代の仏教者は、須弥山や阿弥陀といった超越的存在への信仰を積極的に語らず、むしろ念仏や禅などを通した自己修養にもとづく個人主義的な教説として自己規定していったことは見逃せない事実である。しばしば近代日本仏教史における一つの頂点として叙述される「精神主義」の提唱者・清沢満之(一八六三?一九○三)や仏教徒における社会運動の象徴的事例として挙げられる新興仏教青年同盟(一九三一)の妹尾義郎(一八八九?一九六一)などは、まさにこのような系譜の上に位置する。

このように考えたとき、みずからをあくまで「求法僧」として規定し、宗教としての仏教への信仰そのものによって「一切衆生を済度」することを目指していた慧海が、「日本仏教」の言説からどうしてもはずれざるを得なかったのはいわれのないことではない。もとより彼もその初期には、師円了のような「日本仏教」的言説に誘引されて入蔵したのであるが、やがてそれは「日本仏教」といった一国的語りから逸脱していく。この意味で彼の「入蔵」とは、たんなる文明人のチベット探検とみるべきではなく、「日本仏教」なるものとの関係の中から仏教者としての彼自身の意図を見出して行く必要がある。本稿は、彼における二度の入蔵を通して、その特異な仏教観を明らかにすることを目的とするものである。そしてこのことは、いわゆる「日本仏教」的な言説の認識枠から解放されたあらたな視座を、近代日本の仏教史に提供することになろう。

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