2009年03月01日 (日)

今日のお題:求法の道――河口慧海と「日本仏教」(小川原正道編『近代日本の仏教者における中国体験・インド体験』DTP出版2009年03月、61?72頁)

はじめに

二度のチベット旅行で知られる河口慧海(一八六六?一九四五)を「明治の精神の凝った美しい花のひとつである」と称えたのは、川喜田二郎氏である。氏は次のように、慧海および彼によって表現された「明治という時代」を表現している。

「河口慧海は、あの偉大な明治という時代の生みおとした精華である。その明治の近代化というものは、じつに世界史的な大事件であったのだ。西欧に始まった近代化という一大変革は人類の歴史に永久に記念されるべきできごとであった。このできごとの波はやがて全地球上を覆っていったのであるが、はじめのうちは欧米人にしかできないことと思われていたのである。ところが、その西欧から海山万里をへだてた極東の世界で、突如として近代化の刺戟に積極的に反応しはじめたものがある。それが日本だったのである。」

ここからは、近代化に対する惜しみない賛辞と、ヨーロッパにはじまったそれを実現しえた明治日本への自負を見ることが出来よう。チベットという未踏の地を「探検」した慧海を文明日本の象徴的存在と見敵す氏は、慧海のうちに、同様にこの地域を「探坐遷する人類学者としての自分自身を重ね写しているようにも見える。

慧海に対する評価は久しく探検者としてのものであった。とくに戦後日本においては、文化人類学および地理学の偉大な先駆者としてその学問的系譜のうちに位置づけられてきたのである。もとよりこのような「探検家」としての慧海評価は彼の帰国直後から存在しており、哲学館(現在の東洋大学)以来師事していた井上円了二八五八?一九一九)によっても「西蔵探検僧河口慧海」と表現されている。

しかし本来、仏教者として求法のために入蔵した慧海であったが、一方で仏教者としての評価は必ずしも高いものではない。もちろん日本における梵蔵仏典学の先駆的人物としての評価は揺るぐ}」とがないものの、近代日本仏教の系譜において彼が語られることは少ないのである。それは、慧海における「仏教原理主義」(奥山直司氏)とも言われる宗教的実践の姿が、「日本仏教」のうちにみずからが取り込まれることをもはや拒否してしまっているからでもある。

明治初年の廃仏毅釈によりそれまでの政治的特権性を剥奪され、また神道との親和性を宗教的にも否定され、多方面で大きな打撃をうけた仏教界は自己改革に迫られた。その結果成立した仏教が、いわゆる「日本仏教」とよばれるあらたな仏教のあり方である。それは近代以前の護法護国論に系譜しつつも、国民国家としての日本の存在を前提とした一国史的語りの一つのバリエーションでもあった。

井上円了『仏教活論序論』(一八八七年)に代表されるこの言説は、その強い政治性の一方で宗教的信仰の側面における後退をもたらした。それは宗教一般が国民道徳論においてその役割を期待されなかったことも一因をなしているのだが、近代の仏教者は、須弥山や阿弥陀といった超越的存在への信仰を積極的に語らず、むしろ念仏や禅などを通した自己修養にもとづく個人主義的な教説として自己規定していったことは見逃せない事実である。しばしば近代日本仏教史における一つの頂点として叙述される「精神主義」の提唱者・清沢満之(一八六三?一九○三)や仏教徒における社会運動の象徴的事例として挙げられる新興仏教青年同盟(一九三一)の妹尾義郎(一八八九?一九六一)などは、まさにこのような系譜の上に位置する。

このように考えたとき、みずからをあくまで「求法僧」として規定し、宗教としての仏教への信仰そのものによって「一切衆生を済度」することを目指していた慧海が、「日本仏教」の言説からどうしてもはずれざるを得なかったのはいわれのないことではない。もとより彼もその初期には、師円了のような「日本仏教」的言説に誘引されて入蔵したのであるが、やがてそれは「日本仏教」といった一国的語りから逸脱していく。この意味で彼の「入蔵」とは、たんなる文明人のチベット探検とみるべきではなく、「日本仏教」なるものとの関係の中から仏教者としての彼自身の意図を見出して行く必要がある。本稿は、彼における二度の入蔵を通して、その特異な仏教観を明らかにすることを目的とするものである。そしてこのことは、いわゆる「日本仏教」的な言説の認識枠から解放されたあらたな視座を、近代日本の仏教史に提供することになろう。

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