2007年10月13日 (土)

今日のお題:直線と円環――吉田松陰の死生(日本倫理学会大会発表資料、2007年10月13日、於新潟大学)

吉田松陰(一八三〇?一八五九)は晩年――とは言うものの、わずか満二九歳なのだが――において、その言動の過激さを憂慮した長州藩政府により、かつて一年余を過ごした野山獄に再投獄された。しかし獄中にあってもなおその激烈さを増していった松陰を見た彼の朋友・弟子たちは時勢論の立場から彼と距離を置いたため、松陰はその日和見主義的態度を批判し、つぎつぎと彼らを「絶交」してしまう。「吾れ諸友の棄つる所となる、吾が道非なり。吾れ已に諸友と絶つ」(「無咎に与ふ」一八五九年一月二三日、以下すべて同年)という松陰の叫びは、みずからと志を同じうするもの(「同志の士」)の不在から来るものにほかならなかった。そしてこれ以降、松陰はみずからの死を渇望するようになる。

投獄直後に、「吾が輩皆に先駆て死んで見せたら観感して起るものあらん」(「某宛」一月一一日)と書き送った松陰は、やがて「国家天下の事、懣鬱不平、吾れ一日も此の世に居る事を欲せず。早々一死を賜り候様御周旋下され度く候」(「来島・小田村・桂・久保宛」三月二六日)と「賜死周旋」を周囲に依頼するまでになる。そこには死罪となった自分自身を周囲の目に焼き付けさせることによって、「観感して起るものあらん」ことを期待するという「先覚後起の思想」(高橋文博『吉田松陰』清水書院一九九八)を見ることができる。

「吾が知己なれば死を賜ふ事の周旋をして下され度し」(「岡部富太郎宛カ」四月九日)と、あくまでみずからの死を契機とした「後起」を切望していた松陰は、しかし、この「賜死周旋」を請うたわずか三日後に、突如として死を拒否するに至る。すなわち「吾が放囚し去らるるを待つて、大事乃ち籌(はか)るべし。丈夫は身なきを患(うれ)ふ、命を惜しむも君尤(とが)むることなかれ。」(「同囚の歌の後にして和作に示す」四月一二日)と詠った松陰は、生きながらえることにこそその希望を見出したのである。本発表は、松陰におけるこの劇的な死生観の転回を主題とするものである。

かつて松陰にとって死とは生に対立し、これを否定するものとして理解されていた。その否定性ゆえに、みずからの死が残されたものの生を揺さぶり、その「後起」をうながす力を持つと彼は考えていたのである。それはいわば死を手段としつつ、また同時に目的とするような、死に向かって直線的に生を終えようとする在り方であった。しかし、「転回」後の松陰は、死を生の対立概念としてではなく、あくまで生(生老病死)の一様態あるいは結果の一つととらえるようになる。すなわち死を目的として生きるのではなく、「四時〔四季〕の順環」(『留魂録』一〇月二六日)のように、円環をなす全体としての生を生きる在り方を松陰は模索するようになったのである。

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