2007年05月26日 (土)

今日のお題:「帝国」日本と東アジア――幕末維新期における国際秩序認識(明治維新史学会例会、2007年05月26日、明治大学・駿河台キャンパス)

久しぶりにパワーポイントのない発表をしましたですよ。 

2007年03月16日 (金)

今日のお題:「帝国」の誕生――19世紀日本における国際社会認識(台湾中央研究院・人文社会科学研究中心・亜太区域研究専題中心主催「東亜世界中日本社会的特徴国際研討会」、2007年03月15?16日、中華民国・台北市中央研究院)

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2007年03月03日 (土)

今日のお題:世界史的視座から見たる大津港(片山洋之介先生を囲む会「春期合宿」、2007年03月03?04日、北茨城市・大津港)

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2006年12月01日 (金)

今日のお題:東方君子国の落日――『新論』的世界観とその終焉(明治維新史学会『明治維新史研究』第3号、2006年12月)

   はじめに(脚注省略)

 戦前において刊行された「国体」の名を冠する思想史研究書・道徳書は枚挙にいとまがない。もとよりそのうちには、今日に至るもなおその学問的光彩を失わないものもあるが、多くの「国体」思想史家の筆法においては、「国体」は問題史的に日本歴史の上に投企され、たちまち天皇の「万世一系」と軌を一にした「国体」思想史が叙述されていったのである。

 しかし、幕末志士・吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?一八五九〈安政六〉)といわゆる「国体論争」(橋川文三)を展開した老朱子学者・山県太華(一七八一〈天明元〉?一八六六〈慶応二〉)が、「国体と云ふこと、宋時の書などに往々之れあり、我が邦の書には未だ見当らず。水府に於て始めて云ひ出せしことか」と断じたように、幕末において「国体」ということばは、出自の不確かな「新語」さらには「流行語」とすら認識されており、何ら近世日本思想を――いわんや日本思想全体を――代表しうる観念ではなかった。この意味で、「国体」ということばが思想的に生起する以前の日本思想を、この「国体」という観念をもって系譜論的に語ること自体、時間と空間とを超越した論理矛盾であったと言うべきであろう。まさに、L・アルチュセールが、「イデオロギーにはそれ自身の歴史はない」と指摘したゆえんである。

 この「国体」ということばに対し、思想的な生命力を与え、幕末の「流行語」たらしめた幕末の思想家として会沢正志斎(一七八二〈天明二〉?一八六三〈文久三〉)を挙げることが出来るであろう。会沢が『新論』(一八二五〈文政八〉年成稿)において、日本の尊厳性を高らかに謳い上げた際に用いた「国体」ということばが、幕末の志たちを魅了し、さらには近代日本においても「魔術的な力」(丸山真男)をふるったことは周知の事実である。

 しかし、近代天皇制国家が「国体というみずからのイデオロギーに与えることのできた根拠は、ただ「万世一系ノ天皇」(『大日本帝国憲法』一八八九年、第一条)だけであった。このことは、一八九○年に渙発された教育勅語においても同じであり、天皇統治の正統性を「万世一系」に求め、さらには五倫五常を中心とした徳目を「国体の精華」として示すにとどまっていたのである。

 しかしながら「万世一系」というあくまで天皇制国家においてのみ妥当する価値を、「万邦無比」という形で誇称することは、特殊なるものを、「特殊なるがゆえに普遍的価値を有する」と主張する論理的誤謬を犯していたと言わざるを得ない。およそ或る王統における持続性は、その主権に服していない者にとっては、ほとんど価値あるものと認められないのであり、それは、一九七四年の革命により終焉したエチオピア王朝が、(その間の消長はありながらも)実に三千年の長きに及ぶものであったという事実に対し、われわれが抱く感覚を想起すれば容易に理解できることであろう。

 なるほど「宝祚の長久」は「大八島国」においては、いわば「自然的」な事実(津田左右吉)であり、その限りで妥当性を有するものであったであろうが、それは「東の方は陸奥(みちのく)、西の方は遠つ値嘉(ちか)、南の方は土佐、北の方は佐渡の彼方(をち)の処」(祝詞「儺の祭の詞」)には及ぶものではなかった。それゆえ、近代に入り帝国主義国家として得た新領土で、この「宝祚の長久」にもとづく「御稜威」が無条件に瞻仰されるものとして迎えられる保証はなかったのであり、事実植民地の「新国民」に対し、いかに国民道徳を涵養するかということが、現実の課題ともなったのであった。いわんや、みずからの祖国を亡ぼされた民にとって、その原因たる征服者の「忠良ナル臣民」(『大日本帝国憲法』「告文」)たらんとすることは、実際のところ「忠臣孝子」の挙ではなく、むしろ「乱臣賊子」の行となる可能性を常にはらんでいた。また逆に、亡ぼされた祖国に「忠良」たらんとすれば、彼はまず「非国民」となる必要があったのである(一九一九年、大韓民国臨時政府成立)。このようにみれば、「万世一系」がいかに特殊日本的な価値であり、また普遍性を欠くものであったかは明らかであろう。

 特殊なものを普遍的なるものとして主張することに起因するこの理論的脆弱性は、日本帝国の敗戦まで続く近代国体論のアポリアであり、あの『国体の本義』(一九三七)ですら、その「本義」を「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」と定義する以上のことができず、その残余の紙幅のほとんどを、やはり「国体の精華」という現象面の叙述に終始せざるをえなかったという原因ここに淵源していた。

 このように「国体」――すなわち日本の尊厳性――を、天皇制国家においてのみ妥当する「万世一系」という事実に根拠させたことは、ほかならず自己の支配の正当性を客観的に証明する方途をみずから閉ざすこととなった。天皇制国家における真善美のすべての価値が「国体の精華」という恣意的な判断に基礎づけられ、「遊ぶ間、眠る間と雖も国を離れた私はなく……私生活の間にも天皇に帰一し国家に奉仕する」ことが求められるような私的領域に対する公的領域の無制限の侵犯は、まさにこの客観性の喪失に由来していたといえるであろう。

 しかし、近代国体論の持つこのような理論的脆弱性は、その誕生のときから運命づけられていたのであろうか。本稿は、会沢の国体論の構造を明らかにすることをもって、この問いへの一つの答えとし、ついでその国体論が幕末においていかに受容・変容せられたかにまで言及しようとするものである。このことは同時に、近世独自の国体論――換言すれば近世特有の自民族中心主義の存在形態の探究に資するものであり、さらには、天皇制国家のイデオロギーとしての近代国体論の性質を、それに直接的に系譜するのではない「他者」としての近世思想の側から照射するものともなろう。

2006年11月26日 (日)

今日のお題:The Miniature of a New World As a Model of Modernization(張謇研究センター主催「第4回 張謇国際学術研討会」、2006年11月25?28日、中華人民共和国・南通市文峰飯店)

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2006年11月18日 (土)

今日のお題:水戸学の時代精神――あらたな会沢正志斎像の模索(茨城大学人文学部主催「地域連携シンポジウム 茨城の時代精神」、2006年11月18日、水戸市・茨城大学)

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2006年09月18日 (月)

今日のお題:「魂を留める――吉田松陰の場合」(日本宗教学会2006年度大会「パネル:どう死ぬか――現場から考える「宗教」研究」、仙台・東北大学、2006年09月18日)

安政の大獄の渦中の一八五九(安政六)年五月(以下断りのない限り日付は同年を指す)、吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?一八五九〈安政六〉)は江戸への召還命令を受けた。この報を伝え聞いた弟子の入江子遠は、「先生の死所を知ざるなり」(「入江杉蔵より」同月一四・五日頃)と書き送り、師に死すべきことを勧めたが、松陰は「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」の語をもって拒絶したことはよく知られている事実である。

たびかさなる過激な言動により投獄され、また行動方針の齟齬からその友人や弟子達と「絶交」していた当時の松陰にとって、この入江子遠はその弟とともに最後まで彼に付き従い、彼同様投獄されるに至った「知己」にほかならなかった。その「知己」が、幕府の法庭におもむこうとする松陰に死を求めるというのは異常な状況であると言ってよい。

もとより入江のこのことばは、自分たち兄弟をこの悲惨な状況に追い込んだ師にその責任を求めるものではない。いかなる結末に終わるやも知れぬ江戸行の前に、師がその生をみずから終えることでその身を潔(いさぎよ)くすべきだ、という「有終の美」的立場から発せられたものであった。ここからは松陰が生を偸(ぬす)まず有終の美を飾ることで、残された同志たちに起こる悲憤慷慨の情が、その尊攘運動に新展開をもたらすであろうという「先覚後起の思想」(高橋文博『吉田松陰』清水書院一九九八)を見ることができる。

この「先覚後起」の立場は、松陰がかねてよりの主張であり(『講孟余話』一八五七〈安政四〉年成立参照)、入江が行方の見えぬ江戸召還をひかえた松陰に死を求めたことは、師の従来の主張に沿ったものでもあった。事実松陰自身も、投獄直後には、「吾が輩皆に先駆て死んで見せたら観感して起るものあらん」(「某宛」一月一一日)と書き送り、「吾が知己なれば死を賜ふ事の周旋をして下され度し」(「岡部富太郎宛カ」四月九日)と、あくまでみずからの死を契機とした「後起」を切望していた。しかし、「賜死周旋」を請うたわずか三日後、彼は突然として死を拒否するに至る。

すなわち「吾が放囚し去らるるを待つて、大事乃ち籌(はか)るべし。丈夫は身なきを患(うれ)ふ、命を惜しむも君尤(とが)むることなかれ。」(「同囚の歌の後にして和作に示す」四月一二日)と詠った松陰は、生きながらえることにこそその希望を見出したのであった。松陰が入江の求めた死を拒絶した背景には、このような彼の死生観における転回があった。

 本発表はこの松陰における劇的な転回の軌跡を、彼の「天壌無窮の神勅」理解および中国明代の思想家である李卓吾との出会いから論じることを目的とするものである。

 松陰にとって「神勅」は、「日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずある」(「堀江克之助宛」一〇月一一日)ことを保証する「神聖な約束」であった。したがってこれを真実と信じることは、同時にみずからの尊攘運動の成就を信じることであり、ひいてはみずからの志が永遠に継承されることを意味した。この志の永遠性が、みずからの生をその手で終らせることで「後起」をうながすといったそれまでの「死に急いだ」態度を転換させた一つの理由であった。

また、李卓吾との出会いは、死を生の対立概念としてではなく、あくまで生の一様態あるいは結果の一つととらえ、死を目的として生きるのではなく、「四時〔四季〕の順環」(『留魂録』一〇月二六日)のような全体としての生を生きる生のありかたを松陰に模索させることとなったのである。

2006年09月15日 (金)

今日のお題:「帝国」の成立――幕末維新期における華夷意識の転回(国際高等研究所主催「第2回 19世紀東アジアの国際秩序観の比較研究」・共通テーマ:「華夷意識・華夷秩序」、2006年9月15日?16日、京都府木津川市・国際高等研究所)

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2006年09月09日 (土)

今日のお題:Calm and Storm in the Pacific: International Aid and Trans-Pacific Relations 1900-1931(Trans-Pacific Relations: East Asia and the United States in the 19th and Early 20th Centuries, A Conference to be held at Princeton on September 8th, 9th, and 10th 2006)

要旨:太平洋の嵐と凪――国際援助と太平洋両岸関係:1900?1931年

19世紀中葉以前の太平洋は、いまだ世界市場のうちに取り込まれていなかった。地球規模の世界市場を最後につないだ存在としての太平洋は、ときに波高く、ときに凪ぎ、ときに戦場であった。この論文は、太平洋両岸におけるサンフランシスコ大地震(1906年)と関東大震災(1923年)に対する国際人道援助の歴史を通した太平洋を越えた非政府外交の研究である。

サンフランシスコ大地震に対する人道援助は渋沢栄一(1840?1931年)によって提唱された「国民外交」(非政府外交)の最初のケースでもあった。彼は金子堅太郎(1853?1942年)とともに義捐金の募集を呼びかけ、最終的に日本の義捐金は日本以外の国々から送られたそれの全体を上回る額となった。彼らがこの義捐金を通した国民外交を展開した背景には、人道的動機とともに良好な日米関係の形成のためには米国の世論を親日的にする必要があると理解したからであった。

この日露戦争の莫大な戦費で疲弊した極東の島国からの多大な義捐金に対して、多くの米国民は賞賛の声を挙げたが、しかし地震の半年後に、まさにそのサンフランシスコの教育委員会が、日本人学童隔離問題を引き起こした。日本の実業界はこの排日運動の原因を労働問題と日本人に対する文化的「誤解」にあると考えていたが、その背景には抜き差しがたい人種的偏見――「黄禍論」――が存在していたことは否定しがたい事実であった。

この「黄禍論」に対する処方箋として、渋沢は「国民外交」を通した経済的・文化的交流による相互理解によってこの「誤解」を解消しようとしたのである。その一つの成果が、日米実業団の相互訪問(1908/1909年)であり、その後も日米同志会(1913年)、日米関係委員会(1916年)、日米有志協議会(1920年)の設立・運営に関与したのである。そしてこの彼の努力は、また別の巨大地震において結実することとなる。すなわち関東大震災(1923年)である。

大震災直後から、多くの国が国際援助を被災者に与えた。最大の義捐金は米国から来たもので、全体の三分の二を占めた。米国人の多くがサンフランシスコの返礼として募金したのである。そして巨大だっただけではなく、素早かった米国の義捐金は、多くの日本の人々によって賞賛された。米国の行動は多くの日本人に好感を与えるものであり、それは国民外交の効果にほかならなかった。

この悲惨な災害に直面した人々によって口にされたことばが、「禍転じて福となせ」であり、国民外交の提唱者によっても唱えられた。金子堅太郎はこの地震を、「第二の維新」を実施する機会でもあると述べ、この機会に、日本と米国のより強固な関係を作ることを渋沢栄一にあてた書簡において主張している。金子は、この帝都復興事業を米国経済の市場として提供することを厭わなかったのである。金子の計画に賛同した渋沢は、活発に米国の企業家にむけて義捐金と対日投資を呼びかけた。米国との友好は彼らにとっての「転じた福」の一つであった。

しかしながら、彼らの努力の成果としてのこの友好的な国際精神は、再び踏みにじられた。すなわち翌1924年に米国連邦議会が、日本からのすべての移民を完全に禁止する移民制限法を通過させたのである。

米国での反日感情の嵐に対して、渋沢はもはや「策無し」と言わざるを得なくなった。しかし彼は、落胆はしたものの、多くの日本人のように激しい怒りを維持し続けることはなかった。彼は自分がなし得ることを模索し、そしてそれを実行した。それは、日本の激昂した大衆感情を落ち着けさせることであった。その後もこの理不尽な嵐に対し、渋沢はあくまで理性的に抵抗した。彼は太平洋問題調査会会長に就任し(1925年)、静岡県下田にT・ハリスの記念碑を建て、人形外交を行い(1927年)、日米交換教授の歓送迎会をしばしば主催した。彼はその最期まで、おのれの全精力を日本と米国の友好のために捧げたのである。

2006年04月22日 (土)

今日のお題:九段の母――近代における魂のゆくえ(タナトロジー研究会、2006年04月22日、仙台市・岡部医院)

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