2004年12月11日 (土)

今日のお題:幽囚期吉田松陰の思想形成(日本思想史研究会月例会、2004年12月11日、仙台市・東北大学)

幕末志士の中でもとくにその発言の激しさによって知られる吉田松陰(1830〈天保1〉?1859〈安政6〉)は、その一方で、米ペリー艦隊密航(1854年〈安政1〉)の罪による投獄以後の後半生を幽囚の裏に送った人物でもある。本発表は、この幽囚期松陰の尊攘主義における思想転回を、彼の読書傾向や著作などを通して論ずることを目的とする。発表者はすでに幽囚期以前の遊学期における松陰の思想形成について論じており(*)、本発表はこれに継ぐものである。

(*)拙稿「幕末維新期における自他認識の転回――吉田松陰を中心に」(日本思想史研究会『年報日本思想史』創刊号2002年)

2004年10月30日 (土)

今日のお題:吉田松陰とアジア――「雄略」論の転回(日本思想史学会大会、2004年10月30日)

本発表は、日本という「自己」を包摂すると同時に、また一箇の「他者」でもあった、いわば矛盾した存在としてのアジアに対する松陰の認識の転回を論じるものである。 松陰におけるアジア認識おいて必ず主題となることが「侵略主義」であろう。松陰が「雄略」と呼ぶ海外への領土拡張の主張が、日本帝国主義によるアジア侵略が国策であった敗戦前に、高い評価を受けていた事実は改めて繰り返すまでもない。

「四夷を懾服」する「雄略」を「皇国の皇国たる所以」と見做していた松陰は、アジアに対する軍事的侵略(「懾服雄略」)を積極的に肯定していた。その意味で、松陰を侵略主義者であると指摘することは正しい。だが、このような軍事的膨張論は、一八五八(安政五)年以降、より平和的な交易を中心とした「航海雄略」へと転回していく。そもそも松陰の「懾服雄略」という「皇国の皇国たる所以」とは「日本が日本として独立するである方法」であった(方法と理由という意味が「所以」にはある)。それゆえ、松陰はみずからの軍事的プレゼンスを積極的に確立する必要があったのだが、一八五六(安政三)年八月の「転回」により、天皇の存在そのものを「皇国の皇国たる所以」すなわち「日本が日本として独立している理由」と考えるに至って、そのような積極的軍事力を行使する傾向は消えていったのであった。

2004年10月09日 (土)

今日のお題:幕末における普遍と固有――吉田松陰を中心に(日本倫理学会大会、2004年10月9日)

幕末における普遍と固有――吉田松陰を中心に(日本倫理学会大会、2004年10月9日)

幕末の志士である吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?一八五九〈安政六〉)は、その最晩年――と言っても数えで三〇歳であったが――に次のように書き残している。

「天照の神勅に「日嗣の隆えまさんこと、天壌と窮りなかるべし」と之れあり候所、神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずあるなり。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり。」(「堀江克之助宛」一八五九(安政六)年一〇月一一日)

松陰にとって、「天壌無窮の神勅」は、日本の独立とみずからの尊攘運動の成就を保証する「神聖な約束」であった。しかし松陰は、それがあくまでも「万国皆同じ」な「鴻荒の怪異」であることを忘れることはなかった。すなわち、「神勅」は「皇国」固有の「神聖な約束」であって、「万国」における普遍的な「約束」ではなかったのである。松陰にとってこの日本の固有性が、いかに位置づけられていたのかを、本発表では松陰と老朱子学者・山県太華(一七八一〈天明元〉?一八六六〈慶応二〉)との論争を中心に明らかにするものである。

松陰は、日本の固有性(「皇国の体」)を主張するのと同時に、世界における普遍(「五大州公共の道」)の存在を認める点で、矛盾した思考様式を成している。この矛盾を含んだ松陰の固有主義に比べれば、確かに日本の固有性を特殊性に解消する太華の徹底した普遍主義(「天地間一理」)は、合理的な妥当性を有していたといえよう。しかし、はたして太華の普遍主義は、現前する諸国家の相違を乗り越えうるものであったかについては、疑問を呈せざるを得ない。太華の「天地間一理」とは、あくまで形而上学的な「理」に基づく抽象的普遍であって、「天下」における具体的問題に対応しうるものではなかったのではないだろうか。

松陰は、日本の固有性(「皇国の体」)を主張する一方で、その固有性を単に日本のみだけではなく、世界万国相互に認め、その相互承認にもとづいて、世界における普遍(「五大州公共の道」)がかたちづくられると考えていたのであり、この点にこそ明治国家において喧伝された「金甌無欠・万邦無比」の「国体」とは異なった、松陰における日本の固有性の模索の意義があったのだと言えよう。また本発表が明らかにした幕末における普遍と固有の思惟様式は、地球的規模の普遍としての「万国公法」における固有としての諸国家の関係を論ずることに資することとなろう。

2004年10月08日 (金)

今日のお題:水戸学における会沢正志斎の位相――国体論を中心に(明治維新史学会2004年秋季大会、2004年10月8日)

後期水戸学(以下水戸学)における尊攘論を首唱した師弟のラインとして、藤田幽谷―会沢正志斎―藤田東湖があることは周知の事実である。しかし、これら三者についての研究には少なからぬ偏りがあった。それをひとことでまとめてしまえば、「戦前の東湖・戦後の会沢」ということになろう。
戦前における会沢評価は、意外なほどに低い。たとえば幽谷・東湖には全集が存在していたのに対し、会沢に全集が編まれなかったという事実は、戦前における会沢評価の一半を示している。もとよりそれは会沢の著作の多さに起因することも否定できないが、やはり、晩年の彼が尊攘激派ではなく、鎮派を支持したという事情が、明治以後の会沢の評価を低からしめていたのであろう。

戦前におけるこのような会沢評価に対し、戦後は皇国史観や国体論への批判とともに、水戸学における国体論の理論的思想家(イデオローグ)として会沢がクローズアップされることとなり、

だが、近代国体論の持つこのような理論的脆弱性は、その誕生のときから運命づけられていたのではない。会沢正志斎にとって、国体の尊厳性は、万世一系にではなく、儒学経典という客観的規準にもとづいた「東方君子国」説に根拠するものにほかならなかった。本稿は、会沢における国体論の理論的基盤を明らかにし、ついで幕末において、その国体論がいかに変容したかを論ずることを目的とするものであり、このことは同時に、近世国体論が天皇制国家のイデオロギーとしての近代国体論に転化した際に起きた思想的転回の考察に資するものとなろう。

2004年09月24日 (金)

今日のお題:幕末維新期における西洋社会事業思想の受容(近世の西洋と日本における社会事業思想:「2004年渋沢国際儒教研究セミナー 比較視野のなかの社会公益事業」、2004年9月24?25日)

【はじめに】本報告は、西洋における社会事業活動やその思想を、幕末維新期の日本人がいかに認識したかを検討することで、近代日本における社会事業の前提にあったものを明らかにすることを目的とする。もとより近世日本にも社会事業が存在しなかったわけではないが、本報告では西洋における社会事業に接したことがいかなる思想的変容をもたらしたかを中心に論ずるものである。ただし本要旨では、まず幕末維新期の理解に資するべく、これに先行する時代をも概観しておきたい。

【西洋社会事業との邂逅】日本人がはじめて接した西洋人による社会事業の活動は、16世紀後半、イエズス会士が宗教施設とともに設けた病院などの慈善施設であった。これらの施設はキリシタン禁制の過程で近世初期に消滅したが、宗教者による体系的な慈善活動という記憶は、日本人に強い印象を残すものであった。ただしその評価は、民衆を誘引し侵略する手段として理解されたように必ずしも肯定的なものではなかった。このような理解は、宗教的慈善精神に基づく社会事業に対する一つの典型例として、19世紀初頭に成立した後期水戸学者たちにも引き継がれていくこととなる。

一方で、18世紀後半に西洋の文物が流入するに従い、政策としての社会事業に関する知識がもたらされるようになった。大黒屋光太夫のロシア漂流記である『北槎聞略』(1794)には、病院や幼院(孤児院)の記述がある。編者の蘭学者桂川甫周は「明人の説」を引き、病院の設備を「是欧羅巴洲、人を愛する風俗の然らしむる処なり」と紹介しており、これらが慈善精神に基づいて設立されているという理解を示していた。だが、西洋における社会事業の根幹にある慈善精神に関心が持たれるようになるには、アヘン戦争後に成立する清国人魏源の著した『海国図志』(1842年50巻本・1847年60巻本・1852年100巻本)の将来を俟たねばならなかった。

【西洋社会事業への肯定的評価】『海国図志』(とくに60巻本)が幕末維新期の日本人に大きな影響を与えたことは周知の通りである。とくに貧院・病院・幼院などの詳細な叙述は、「病院・幼院・唖聾院等を設け、政教悉く倫理によつて生民の為にするに急ならざるはなし、殆三代の治教に符合す」(横井小楠「国是三論」1860年)というような西洋社会事業の精神に対する高い評価を与える根拠ともなったのである。そしてこのような書物における知識は、やがて幕府による遣外使節団に随行した人々によって再確認され、近代日本における社会事業の精神を形作ることとなる。

【西洋社会事業思想の受容】福沢諭吉は、三次にわたる西洋行の実体験から著した『西洋事情』(初編1866年)において、「扶助の法」をはじめとした西洋社会のシステムを描き出すことで、近代化過程を歩み始めた日本人に「文明」のありようを示し、また同時期に渡仏した渋沢栄一も、西洋における人命を尊重し、事業を公共のために興す点に、その繁栄の源を見ていた(『航西日記』1870年)。かれらのような帰国者の西洋経験こそが、近代日本における社会事業の一つの出発点であり、事実かれらの多くは、そののち積極的に社会に関わっていったのである。

2004年04月01日 (木)

今日のお題:『新論』受容の一形態――吉田松陰を中心に(佐々木寬司編『国民国家形成期の地域社会――近代茨城地域史の諸相』岩田書院2004年4月)

 松陰と水戸学の極めて密接な関係はすでに指摘されており、通説では、彼の平戸遊学(1850(嘉永3)年)における『新論』との接触をもって水戸学の感化、さらには日本という自己意識の形成と見做してきた。だが松陰へのその感化は、水戸遊学における会沢正志斎らとの面談(計7回・内1回は不在)の結果であり、それ以前の松陰は『新論』に触れながらも、そこから顕著な感化を受けることはなかった。我々は、松陰が水戸学にたどり着くまでの意外に長い道のりを見るであろう。

 『新論』は松陰の思想形成――とりわけ日本という自己意識の形成――に大きな役割を果たしたが、それは水戸学、とくに個人的に影響を受けた会沢本来の思想とは、微妙なズレをはらむものであった。そしてそのズレは、やがて松陰を水戸学的尊王論から距離を置かせ、彼に国学という新たな思想上の転回をもたらしたのである。

 『新論』は単に水戸学という学派の一著作に留まらず、日本を語るための〈言説〉を用意した点で、幕末志士たちの出発点の一つとなった。そして彼らは、それをさらに〈読み替える〉ことで、新たな日本の姿を模索していったのであり、このことをわれわれは、松陰の『新論』の受容と変容の過程から明瞭に見て取ることができるのである。

2004年03月24日 (水)

今日のお題:【要旨】吉田松陰研究序説――幕末維新期における自他認識の転回(東北大学大学院文学研究科提出2004年3月博士号取得)

   目 次
  本稿執筆の目的
  第一部 幕末維新期における「国際社会」認識の転回
   第一章 はじめに
   第二章 「西洋」と「日本」の発見
   第三章 松陰と白旗
   第四章 「国際社会」への編入・参加と「華夷秩序」の読み替え
   第五章 吉田松陰とアジア――「雄略」論の展開
  第二部 吉田松陰における思想形成とその構造
   第一章 はじめに
   第二章 『新論』受容の諸相――その公刊以前を中心に
   第三章 吉田松陰における思想上の「転回」――水戸学から国学へ
   第四章 論争の書としての『講孟余話』――吉田松陰と山県太華、論争の一年有半
   第五章 吉田松陰の神勅観――「教」から「理」へ、そして「信」へ
   第六章 幕末における普遍と固有
  結 論
  補論 吉田松陰における「忠誠」の転回――幕末維新期における「家国」秩序の超克


   本稿執筆の目的

 本稿は、幕末維新期という近世から近代への転形期において、吉田松陰(一八三〇(天保元)?一八五九(安政六)年)が、この時代状況をいかに認識し、さらにはいかに思考したかを明らかにすることを目的としている。本稿が松陰を主題として選んだ理由は、後の明治維新を主導した長州藩における理論的先駆者であったからではない。彼の思想や行動が、この転形期を、彼自身の意図を越えて、極めて鮮明に表現しているからにほかならない。

 しばしば幕末維新は「復古」と「開化」の相克として描かれる。しかし、松陰が「自我作古」(我れより古を作す)を標榜したように、幕末における「復古」は、一面では決して過去の焼き直しではなかった。山鹿流兵学師範吉田家を封襲した松陰が、その家学の伝統の重圧を感じつつも、洋式兵学と和式兵学との間にある絶対的な較差を前にして、「旧に率はんと欲せば則ち時に随はざる能はず」(「漫筆一則」)と伝統兵学からの離脱を模索し始めるに至ったように、むしろみずからの持つ「伝統」や「古典」を最大限読み替え抜くことで、新しい時代を切り開こうとしたのである。一九世紀中葉における新たな世界史的状況に臨み、松陰がこれをいかに把握し、かつその中にみずからをいかに位置づけたかを明らかにすることが本稿の最終的な目標である。


   第一部 幕末維新期における「国際社会」認識の転回

   第一章 はじめに
第一部では、一九世紀中葉の世界史的状況の中で、吉田松陰における「国際社会」認識の転回を明らかにすることを目的とする。本来、この問題は「対外観」ないしは「対外認識」の問題として論ぜられるものであるが、本稿では一貫して「自他認識」ということばで表現する。第一部を始めるにあたり、この「対外観」の問題を、あえて耳慣れぬ「自他認識」ということばで分析する意味を述べたのが本章である。
 すなわち、それまで単に「夷狄」あるいは「異人」としか認識されなかったものが、みずからに対峙する具体的な「他者」として認識されるに至るとき、そこには対象としての「夷狄」の変化ではなく、むしろそれを認識する主体の意識の変質こそがある。本稿では、幕末維新期におけるこの自他双方に対する認識の転回を、同時に考察するために、他者認識の意味合いが強い「対外観」の語を避け、自他認識の語をもって考察するのである。

 第一部ではまず西洋という新たな他者の認識がいかに転回したかを、松陰の思想形成の展開とともに考察し(第二?三章)、つぎにアジアについて、松陰の「雄略論」に関わる個別問題として論じる(第五章)。


   第二章 「西洋」と「日本」の発見
本章では、安政期以前の吉田松陰における三つの側面での転回を、その思想展開とあわせて明らかにすることを目的とする。この三つの転回とは、

1 松陰の他者認識(「国際社会」認識)の転回
2 自己認識の転回(ネイションの自覚)
3 兵学における転回

である。前二者は松陰における自他認識に関する基本的な視座として位置づけられる。一方、第三は兵学者たる松陰自身の自己意識――自分がなにを・どのように守らねばならぬのか――に深くかかわるものであり、これこそが松陰における自己および他者に対する認識を架橋させるものにほかならなかった。以下、時系列的にこの転回を略説する。

一 長州藩兵学師範期 この時期の松陰は、アヘン戦争以後の「異賊共取囲」む「我が神州」という国際的状況を知識としては知りながらも、日本全体を防衛する意識を有することはなかった。松陰の意識はあくまで防長二国という部分を出ることはなく、「我が国砲術の精確なる事遠く西洋夷に勝り候」(「水陸戦略」)と言うように自らの兵学に絶大な信頼を寄せていた。だがこの信頼は崩壊の時を迎える。彼は「西夷銃砲」の威力を知るのである。

二 西遊期(平戸・長崎留学) この西遊行で松陰は、蘭船に乗ることでその大きさを知り、また多くの海外事情書を読んだ。その中で最も彼に影響を与えたのがアヘン戦争の実態――清国の徹底的な敗北――を赤裸々に描いた魏源『聖武記附録』であった。

 松陰は『聖武記附録』中の「徒に中華を侈張するを知り、未だ寰瀛の大なるを観ず」を「佳語」とし、「夫れ外夷を制馭する者は、必ず先ず夷情を洞ふ」べきだとする意見に賛同している。そこには、もはや「外夷」を単なる異物としてではなく、一箇の脅威として――自らに対峙する他者として――見做す態度が生まれていたのである。

 平戸において松陰は、明確な脅威としての「西洋」という他者を認識し始めたものの、脅かされる自己(=守るべき自己)について認識するには――ネイションとしての「日本」を自覚するには――まだ時間が必要であった。

三 水戸遊学期 水戸で会沢正志斎と交わった松陰は「身皇国に生まれて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地に立たん」(「来原良三に復する書」)という強い自負を得た。この「皇国の皇国たる所以」という観念こそ松陰に「ネイションとしての自己意識」(=「日本」の自覚)を与えたものである。そして「日本歴史」を耽読した松陰は、兵学者としての自らの存在意義を「長州藩」を越えた「皇国」を守る点に求めるに至ったのである。ここに封建的分邦に生まれ育った長州藩兵学師範吉田大次郎個人の自己意識の拡大(藩国家から日本国家へ)を見出すことが出来よう。

四 ペリー艦隊来航以後 ペリー艦隊の来航という現実の脅威に臨み、松陰は藩主に「将及私言」を上書している。そこでは西洋兵学の全面的な導入と挙国一致による国防体制の確立が高らかに謳われており、封建的分邦の意識はもはや姿を消している。松陰にとって西洋諸国家は、もはや排除されるべき異物ではなく、自らに対峙する他者として、対等に認識される存在となっていた。この諸国家との対等の観念こそ、松陰を当時の攘夷論の大勢から大きく異ならしめているものであった。松陰は、まず平戸において他者(=西洋)の存在を認識し、そして水戸において「ネイションとしての自己意識」をもたらす観念に触れた。この自己と他者とに対する認識が二つながら相俟って諸国家間の対等という観念へと松陰を導いたのであり、そこには「彼を知り己を知る」兵学的思考が、西洋に対する知識と日本に対する意識とを架橋するものとして強く作用していたと結論するものである。

   第三章 松陰と白旗
 前章では、松陰における「西洋」と「日本」の発見の過程を、彼の思想形成に沿って時系列的に明らかにした。本章は、松陰における国際社会認識の具体像を、非交戦の意志を表明する信号旗である「白旗」という「西洋の法」を松陰がどのように認識していたかを明らかにすることで、描き出そうとするものである。

 兵学師範時代には、白旗は「外夷の法」であり、これを「遵守する」ことを「人に致さるるに近」いと断じていた松陰は、この「外夷の法」をそれゆえに拒否するのではなく、むしろそれを「国際社会」において必要な限りで承認するに至ったのである。このような松陰の思想的転回は、貿易すらも許容する態度へとつながっていったのであった。

   第四章 「国際社会」への編入・参加と「華夷秩序」の読み替え
 本章は、「国際社会」の法を必要な限りで承認するに至った松陰における「国際社会」認識の論理について明らかにすることを目的とする。具体的には「万国公法」受容以前の幕末日本において、華夷意識に基づく自民族中心的な自他認識をいかに乗り越え、「国際社会」に対してみずからを開き、また同時にみずからの全体性を形成しようとする試みがなされたかを、安政期の松陰を中心として考察する。近藤重蔵編の外交文書集である『外蕃通書』を詳細に検討し、外交文書の正しい書式にを追究した松陰は、国際秩序を「帝国―王国―辺境」というヒエラルヒーでとらえるに至った。しかし、このヒエラルヒーにおける帝国は、かつての「中華」のように、唯一の存在ではなく、日本と同様に独立国である諸国家に対して与えられるステイタスにほかならなかった。

 松陰は、みずから有する既存の思想体系の中にあった「帝国―王国―辺境」という国際関係概念に加え、「敵体」・「敵国」(対等国)という儒学的概念を〈諸〉帝国間の「敵体」という形に読み替えることで、現前する「国際社会」を理解したのである。かくして日本型華夷意識は、このような「読み替え」を経ることによって変容せられ「国際社会」への編入に対する準備となった。また松陰の「帝国」概念は、対外的な独立を確保する論理であったのと同時に、天皇(=皇帝)を元首とした日本の新しい国家像を形成する出発点となったのである。


   第五章 吉田松陰とアジア――「雄略」論の展開
 本章は、日本という「自己」を包摂すると同時に、また一箇の「他者」でもあった、いわば矛盾した存在としてのアジアに対する認識が、松陰にとっていかなるものであったのかを論じるものである。

 松陰におけるアジア認識を論じるとき、必ず主題となる一つのことばが「侵略主義」であろう。松陰が「雄略」と呼ぶ、海外への領土拡張の主張が、日本帝国主義によるアジア侵略が国策であった敗戦前に、高い評価を受けていた事実は改めて繰り返すまでもない。戦前において、松陰の「雄略論」を排外的膨張主義と規定し、日本帝国主義に対する批判に代えた人物が、H・ノーマンであった。

 「四夷を懾服」する「雄略」を「皇国の皇国たる所以」と見做していた松陰は、アジアに対する軍事的侵略(「懾服雄略」)を積極的に肯定していた。その意味で、松陰を侵略主義者であると指摘することは正しい。しかし、その「侵略」の対象は、カムチャッカやオーストラリアのような、いまだ「無主の地」である「辺境」だったのであり、それは「承認されることのない主権」(Peter J. Taylor)を犯している限りで、みずからの主権の領域を画定する近代国家の当然の権利でもあった(ただしこのような解釈にはずれるのが朝鮮「王国」の問題であった)。

 だが、このような軍事的膨張論は、一八五八(安政五)年以降、より平和的な交易を中心とした「航海雄略」へと転回していく。そもそも松陰の「懾服雄略」という「皇国の皇国たる所以」とは「日本が日本として独立するである方法」であった。それゆえ、松陰はみずからの軍事的プレゼンスを積極的に確立する必要があったのだが、一八五六(安政三)年八月の「転回」(第二部第三章)により、天皇の存在そのものを「皇国の皇国たる所以」すなわち「日本が日本として独立している理由」と考えるに至って、そのような積極的軍事力の行使の傾向は消えていったのであった。ここにおいて、アジアは、貪欲に境界を画定すべき辺境としてではなく、諸国家が互いに関係し合うべき交易の場として認識されるようになったのである。

   第二部 吉田松陰における思想形成とその構造

   第一章 はじめに
 その最初期においては、「我が国砲術の精確なる事遠く西洋夷に勝り候」(「水陸戦略」)と、無批判にみずからの優越性を認める自民族中心主義的思考を示していた松陰が、自己―他者に対する認識の転回により、世界の中の日本というあらたな自己像を確立するに至ったことを、第一部で明らかにした。引き続き第二部では、このような松陰の自他認識を支えた思想的背景について、松陰の著作を、作品論的にではなく、その瞬間その瞬間における彼の思想的表明として把握し、彼の思想的転回の軌跡を追うことで明らかにしていくことを目的とするものである。

   第二章 『新論』受容の諸相――その公刊以前を中心に
 本章においては、幕末維新期における思想状況を、「志士のバイブル」ともいわれていた会沢正志斎の『新論』受容の諸相を通して確認していく。

 今日、われわれは、『新論』を、後期水戸学を代表する国体論の著作として理解しているが、その公刊以前においては、必ずしも国体論の書として受容されていたのではなかった。長州藩の天保改革を主導した村田清風が筆写した「国体篇」「長計篇」を含まない写本の存在は、『新論』が国体論としてではなく兵学書として受容されていたことを意味するものである。

 また『新論』の国体論を受容するものたちも、それを全面的に受容したわけではなかった。とりわけ、公刊以前の版本の一つである『雄飛論』(書下し)では、「神州」という儒学的な日本の自称を「本編に神州と有を、今改て皇国と為す」と、国学的なそれに改めているのである。このことからも、『新論』が全的に受容されたのではなかったことがわかる。

 また『新論』の古い地理認識は、『新論』支持者にとっても不満とするところであった。しかし会沢にとって、新興国アメリカの存在を認めることは、『新論』的世界観の破綻を意味するものであった。なぜなら、会沢が「神州は東方に位し、朝陽に向ふ」と日本の尊貴性を主張したのは、儒学経典である『易経』に基づくその東方性(「帝出乎震」)と、極西たるアメリカの未開性に求めていたからである。地球が丸い以上、本来的には極東・極西の区別はないはずであるが、会沢は文不文という事実を推して日本の東方性=「東方君子国」性を主張できたのであって、新興国アメリカの存在はその前提を否定するものであった。

 しかしこのことは一方で、万邦無比たる日本国体の理論的根拠を、万世一系や君臣一体といったみずからの論理にのみ求めざるを得なくなり、近世儒学とりわけ近世国体論においてなされていた原理としての儒学経典による自己検証という反省的契機すらも喪失させていくこととなった。しばしば指摘される近代国体論の「魔術的な力」(丸山真男氏)は、まさにこのみずからの論理によってみずからを、そして世界までも語るという自家撞着的な独善性に由来していたのであり、まさに『新論』の国体論は、その儒学性を喪失させることによって、近代国体論のイデオロギーとなりえたのである。

   第三章 吉田松陰における思想上の「転回」――水戸学から国学へ
 松陰は水戸で会沢正志斎に会い、統一国家(皇国)としての日本の観念を教えられたが、松陰がいつまで水戸学の影響下にあったについては、いまだ論議のあるところである。本章は、彼の思想が一八五六(安政三)年八月の「転回」を経たのち、水戸学から国学へ大きくシフトしたことを明らかにしたものである。これは次の二つの点から論証することができた。
松陰の読書ノートである『野山獄読書記』の分析から、松陰の読書傾向が水戸学の著作から国学の著作へ移行した点。

 「転回」後、松陰は会沢の下で学ぶために水戸に留学していた友人赤川淡水に宛てて、水戸学的な尊王敬幕を主張する淡水を真の尊王家ではないとして糾弾していた点。

 水戸学は日本の存在理由を儒学(とりわけ「君臣父子の大倫の正しき」こと)に基づいていた。しかしそれでは、より「大倫の正しき」国が現れたときは、日本の存在理由は相対化されてしまう。それゆえ「転回」を経た松陰は、日本固有の天皇の存在自体に基づいていた国学の主張を受け入れてみずからの活動を展開させていったのである。

   第四章 論争の書としての『講孟余話』――吉田松陰と山県太華、論争の一年有半
 前章では、松陰の尊王論の基盤が、水戸学から国学へとシフトしたことを明らかにした。日本独立の根拠をその固有性としての天皇に求めた松陰は、みずからの尊攘論を転回させ、あらたな日本の自己意識を獲得するに至った。松陰にとってこの自己は、「国際社会」における諸国家と対等な独立存在であり、天皇は内外における日本の主体性を表現する「元首」にほかならなかった。この「転回」以前にも見ることのできた固有性への傾向を、松陰はいかにして発見したのであろうか。それは、『講孟余話』をめぐる朱子学者山県太華との一年有半にわたる論争の過程において見出されたものであった。本章は、この『講孟余話』をめぐる論争の基礎的考察である。

 奈良本辰也氏を始めとした先行研究において、この太華の「講孟箚記評語」は、『講孟余話』完成後に著されたと考えられてきた。しかし、本章で明らかにしたように、松陰はまず『余話』の「滕文公篇」までを送り、それに対し太華が評語を返したことから、松陰と太華の論争が始まったのである。そしてその後の数次にわたる『余話』と「評語」の往復の結果、『余話』は完成したのであり、その意味で『余話』を完結した体系的著作と見做すことは適当ではない。

 『余話』を論争の過程として見たとき、松陰の思想の深化が、実に太華の評語による反駁の結果もたらされたことがわかる。たとえば、「天日の嗣永く天上と無窮なるもの」(「梁恵王下八」)などという、松陰の極めて水戸学的な天皇観の表明に対し、「天日とは太陽をいへるにや…極めて大怪事なり」と太華が論難したことで、松陰は「天子は誠の雲上人にて、人間の種にはあらぬ如く心得るは、古道曾て然るに非ず」(「万章篇下二」)というように、かつてみずから主張していた、現人神天皇観をみずから否定したのであった。このような太華の影響を考慮に入れなかったからこそ、先行研究は矛盾した『講孟余話』の叙述を解釈できなかったのである(ただしこのような天皇観は再び転回する。次章参照)。本稿が提示した視座は『余話』および松陰研究の新たな指標となろう。

   第五章 吉田松陰の神勅観――「教」から「理」へ、そして「信」へ
 松陰は、「皇国の道悉く神代に原づく。則ち此の巻〔『日本書紀』神代巻〕は臣子の宜しく信奉すべき所なり」(「講孟箚記評語の反評」)というように、日本神話――とりわけ「天壌無窮の神勅」への「信」を強く主張していた。しかし、このような「神勅」への「信」は、生来のものではなかった。むしろ、兵学師範時代の松陰は、宗教を人心掌握の手段=「教」としてとらえていた。そこには、治者意識から来る抜きがたい愚民観があった。この「教」としての宗教観は、「祭は以て政となり、政は以て教となる」ことを主張する水戸学と交わることで、一層強くなっていった。

 だが、脱藩・密航を経て萩野山獄に投ぜられるに至って、みずから「世の棄物」と呼ぶような存在になったとき、松陰の愚民観は後退していった。それは、ペリー艦隊密航の罪で江戸に送致された際の駕籠を舁く被差別民の青年たちとの実際の交わりなども影響していたであろう。かくして、「教」としての宗教は退き、代わりに宗教をきわめて合理的に理解する態度のみが松陰に残ることとなった。

 かくして「天壌無窮の神勅」を「異端怪誕」と見做し、超越的な存在を不可知なるものととらえることによって、合理的な神観念を主張するに至った松陰は、宗教をもはや「教」としてではなく、ただ「理」のうちにとらえるようになったのである。しかし、このような合理的態度とりわけ「神勅」に対する態度は、やがて本章冒頭で見たように、「論ずるは則ち可ならず。疑ふは尤も可ならず」という絶対的な「信」へと大きく転回していくのである。この、「転回」を導いたのが本居宣長の『直昆霊』であった。

 『直昆霊』は、「皇国」の存在理由を普遍的な「道」や「徳」に基づくことを拒否する。なぜならば、このような普遍的規準で「皇国」の存在理由を説いた場合、日本天皇が「不徳」な場合、あるいはそれよりも「有徳」な人間が登場した場合、「皇国」は「皇国」である根拠を失う可能性を有している。その意味で「万世一系」は、単にこれまでそうであったという単なる事実であって、これ以後もそうであることを何ら保証するものではなかった。まさに宣長はこの事態に危機感を抱いていたのであり、それゆえ「有徳者為君」説を否定し、絶対的でそれ以上因果を遡及できない「神勅」に、「皇国の皇国たる所以」を見出したのである。一八五六(安政三)年八月の「転回」により、みずからの尊王論の基盤を水戸学から国学へと大きく転回させた松陰が宣長に強く共感した点はここにあった。
 松陰にとって、「日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずある」(「堀江克之助宛」一八五九(安政六)年一〇月一一日)ことを保証する「神勅」が真実であると信じることは、みずからの尊攘運動の成就を信じることであった。すなわち「天壌無窮の神勅」は「皇国」たる日本が、未来永劫独立不羈でありつづける「神聖な約束」にほかならないと、松陰には考えられたのである。

 松陰にとって「皇国の皇国たる所以」の模索は、その生涯のテーマであった。かつてそれは「聖天子」による「四夷懾服」であり、さらには万世一系・君臣一体に求められていた。しかし「転回」を経た松陰は、「君臣の義、講ぜざること六百余年、近時に至りて、華夷の弁を合せて又之れを失ふ」(「松下村塾記」)と主張するに至った。それは松陰に、武家のレジーム(君臣の義)および西洋列強の存在(華夷の弁)という国内外の現実を強く認識させ、新たなる「皇国の皇国たる所以」を模索することを求めたのであった。そして、その彷徨の末に見出されたのが、「天壌無窮の神勅」への「信」だったのである。主体的な尊王主義者――それが、松陰が最終的にたどり着いた立場であった。

   第六章 幕末における普遍と固有
 松陰にとって、「天壌無窮の神勅」は、日本の独立とみずからの尊攘運動の成就を保証する「神聖な約束」であった。しかし松陰は、それがあくまでも「万国皆同じ」な「鴻荒の怪異」であることを忘れることはなかった。すなわち、「神勅」は「皇国」固有の「神聖な約束」であって、「万国」における普遍的な「約束」ではなかった。松陰にとってこの日本の固有性が、いかに位置づけられていたのかを、本章では松陰と太華との論争を中心に明らかにした。

 松陰は、日本の固有性(「皇国の体」)を主張するのと同時に、世界における普遍(「五大州公共の道」)の存在を認める点で、矛盾した思考様式を成している。この矛盾を含んだ松陰の固有主義に比べれば、確かに日本の固有性を特殊性に解消する太華の徹底した普遍主義(「天地間一理」)は、合理的な妥当性を有していたといえよう。しかし、はたして太華の普遍主義は、現前する諸国家の相違を乗り越えうるものであったかについては、疑問を呈せざるを得ない。太華の「天地間一理」とは、あくまで形而上学的な「理」に基づく抽象的普遍であって、「天下」における具体的問題に対応しうるものではなかったのではないだろうか。

 松陰は、日本の固有性(「皇国の体」)を主張する一方で、その固有性を単に日本のみだけではなく、世界万国相互に認め、その相互承認にもとづいて、世界における普遍(「五大州公共の道」)がかたちづくられると考えていたのであり、この点にこそ明治国家において喧伝された「金甌無欠」の「国体」とは異なった、松陰における日本の固有性の模索の意義があったのだと言えよう。

   結 論
 幕末維新期は、一九世紀中葉の世界の地球規模化という世界史的状況に臨んだ人々が、現前する西洋を他者として認識し、またそれとは位相の異なる他者としてアジアを認識し、さらには自己として日本を認識する自他認識の転回過程であった。この点で、吉田松陰のペリー艦隊密航とその投獄とは、当時の人々に「寸板海に下す」ことを知らしめた、「鎖国」の終焉を象徴する事件であった。

 「航海雄略」のような主張自体は、当時の知識人において必ずしもめずらしいものではない。しかし松陰においては、その「雄略」の主体が、天皇に求められたというところに特筆すべき点があった。松陰は、「皇国の皇国たる所以」を天皇の存在、さらには「天壌無窮の神勅」という固有性に求めることによって、日本が日本として独立することを根拠づけたのであり、また「敵体」・「敵国」という儒学的概念を読み替えることで、天皇を対内・対外双方の主権が収斂する「元首」と位置づけ、国内外における政治主体の問題を解消し、日本を名実ともに「帝国」=独立国たらしむることを目指したのだと結論するものである。

   補論 吉田松陰における「忠誠」の転回――幕末維新期における「家国」秩序の超克
 本稿は、藩主から天皇への「忠誠」の移行、あるいは封建的分邦としての藩国家から近代的統一態としての日本国家への「忠誠」の移行の軌跡が、直線的に近代的思考によって導かれたのではなく、まず藩と家臣団によって歴史的に構成されている「家国」秩序を、主君へに対する「忠誠」によってうち崩すことによる近世封建倫理の乗り越えによって初めてなされたことを、松陰の「忠誠」運動の転回から明らかにした。長州藩兵学師範であった松陰は、脱藩や投獄により社会外存在となり、「世の棄物」と自称するに至る。しかしその中にあって、主君へのひたすらな「忠」をもって、既存の社会関係を越えた新たな関係を構築したのであり、「藩主の上意の下における「有司」グループ」(井上勝生氏)の形成は、まさしく松陰の主張する藩主の絶対化路線の上にあったと言えよう。

2004年01月01日 (木)

今日のお題:論争の書としての『講孟余話』――吉田松陰と山県太華、論争の一年有半(歴史科学協議会『歴史評論』645号2004年)

論争の書としての『講孟余話』――吉田松陰と山県太華、論争の一年有半(歴史科学協議会『歴史評論』645号2004年)

 世界市場の樹立が、環太平洋諸地域の植民地化と中国と日本の開国とによって完了するようにみえた19世紀中葉における象徴的事件の一つが、ペリー・プチャーチン両艦隊の日本来航であったことは誰しも認めるところであろう。この世界史的状況に臨み、「五大州を周遊せんと欲」し、1854(安政元)年に再来航したペリー艦隊への密航計画を企てたのが吉田松陰(1830(天保元)?1859(安政6)年)である。周知の通りこの企ては失敗に終わり、海外渡航の咎をもって罪せられた松陰は、永い幽囚生活に入った。

 長州藩野山獄に投ぜられた松陰は、荒廃した獄風の改善の一環として翌年4月12日より『孟子』講義を、さらに6月13日より同輪読会を催した。『講孟余話』(以下『余話』)は、その際の所感・批評をまとめたものである。

 松陰論において『余話』が重要視されるのは、それが松陰の主著であるのみならず、松陰の「国体論」を最もよく表現する著作であるからである。『余話』は「道」の普遍性に対する「国体」の固有性の優越を、次のように強く説く。

「羊棗と膾炙、姓と名、一は同じく、一は独りなり。同じきを食して独りを食せず。同じきを諱まずして独りを諱む。…道は天下公共の道にして所謂同なり。国体は一国の体にして所謂独なり。」(『講孟余話』「尽心下三六」1856(安政3)年6月10日)

 これは、亡父を偲び、その個人的嗜好であった羊棗を嗜まないことは、父の名(「独」)を諱み、姓(「同」)を諱まないことと同様であるという『孟子』の一節を、松陰一流の読み替えをもって敷衍したものである。この文にはさらに、道の絶対的な普遍性を説くものへの激烈な批判が続く。

「然るに一老先生の説の如く、道は天地の間一理にして、其の大原は天より出づ、我れと人との差なく、我が国と他の国との別なしと云ひて、皇国の君臣を漢土の君臣と同一に論ずるは、余が万々服せざる所なり。」(同前)

 これこそ、「その後明治・大正・昭和とつづいたさまざまな形の国体論争の中でも、もっとも生彩あり、情熱のこもったものとして私には敬重すべきものに見える」と橋川文三氏によって評された一文である。この論争の敵手である「一老先生」が、当時長州藩藩校の明倫館前学頭であった山県太華(1781(天明元)?1866(慶応2)年)であることは論を俟たない。

 それでは、松陰がここに引く「一老先生の説」とは、いったいどこに典拠を置いているのであろうか。

 それは、『余話』に対する評として著された太華の『講孟箚記評語』(上)の冒頭部にある、「道は天地の間一理にして、其の大原は天より出づ。我れと人との差なく、我が国と他の国の別なし」という一文に他ならない。しかしこのように考えたとき、『余話』に関する通説的理解との矛盾が現れてくる。

 通説では、『余話』に対する論駁書としての太華の『講孟箚記評語』(以下『評語』)は、『余話』完成後に著されたとされる。例えば、奈良本辰也氏は、『余話』を抄録した編著『吉田松陰集』(一九六九年)で、「太華が論駁した『講孟余話』の本文を各章毎に分けて掲げ、次に太華の文、そして松陰の更なる反評、という順序に」再構成することで、「論争の書」としての『余話』の理解に大きく寄与したが、この順序の立て方は明らかに、『余話』(松陰)―『評語』(太華)―「反評」(松陰)という直線的(リニアー)な順序を前提としている。それを裏付けるように氏は、この『余話』の解説文において、『余話』の成立事情と完成の叙述の後に、「彼はこれを藩の大儒山県太華にみて貰って批判を仰いだ。ところが太華は、これを散々にやっつけた」と続けているのである。

 だが、『余話』完成後に執筆されたとされる『評語』の文が『余話』に引かれ、かつ論駁されることは、奈良本氏をはじめとした通説的理解と明らかに矛盾する。この事実を整合的に理解するには、通説をひとたび抛棄し、『余話』完成以前に松陰が『評語』を読んだと考える必要がある。本稿はこの仮説を論証する作業を通じ、歴史上極めて著名な松陰―太華論争の実際の過程を再現するものである。

 本稿が『余話』の成立過程を考察するのは、単にそれが松陰の「主著」であるからではない。かつて藤田省三氏は、松陰を体系思想家ではなく「状況的」な存在としてとらえ、「講孟余話の思想構造の分析」といった作品論的方法での松陰論を拒否した。本稿もまた氏の見解を支持するものであって、『余話』を一箇の体系的著作としてではなく、論争により成立する過程として把握することで、つねに変化する「状況的」存在としての松陰の思想的展開の過程を明らかにすることを目指す。思想家は初めからみずからの思想を樹立した状態でこの世に生を稟けるのではない。思想は人間の歴史的・社会的営為の上に形成されるものであり、その意味で本稿は、「松陰の思想構造の分析」ではなく、「思想形成の分析」の試金石となるものなのである。

2003年10月19日 (日)

今日のお題:「松陰と白旗――『国際社会』認識の転回」(2003年度日本思想史学会パネルセッション「吉田松陰研究の現在――開国前後の対外観を中心に」、2003年10月19日)

日本にとって幕末維新期は、「国際社会」という名の西洋国家間システムを受容すると同時に、みずからを一箇の統一態として自覚する過程でもあった。本報告は、戦闘停止の意志表明である「白旗」に代表される「外夷の法」を、兵学者たる松陰がいかに認識し、受容していったかを明らかにすることで、松陰における「国際社会」理解を論ずるものである。

ペリー艦隊が来航した際に、白旗に添えられたとされる降伏勧告とも言うべき内容の「白旗書簡」の真偽について、近年論議が起きており、この白旗書簡をふまえ、アメリカの砲艦外交を厳しく指弾した人物に佐久間象山がいることはしばしば指摘されている(「ハリスとの折衝案に関する幕府宛上書稿」一八五八(安政五)年、日本思想大系『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小楠・橋本左内』岩波書店一九七一年)。その一方で象山を終生「吾が師」と呼び師事し続けた吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?一八五九〈安政六〉)が、この「白旗書簡」について、「此書翰寅遂不レ能レ信」(『対灯私記』松陰頭註、一八五四〈安政元〉)と指摘していた事実はこれまでほとんど注目されてこなかった。

松本健一氏は、「〔ペリー来航の〕一八五三年の時点で、日本人はまだ、白旗が降伏のメッセージであるという国際法的な取り決めを知らなかった」(『白旗伝説』講談社一九九八年)と指摘したが、一八一九(文政二)年に、オランダ船が水を求め白旗を掲げた記述があるように(「ヤン・コック・ブロムホフの日記」一八一九年一一月一三日条、日蘭学会編『長崎オランダ商館日記』八巻、雄松堂出版一九九七年)、白旗の存在とその機能について、日本人のすべてが無知であったとは言えない。兵学師範時代の松陰も、一八四〇?四二年分の『和蘭別段風説書』を読み、「戦敗れて降を乞ふ時は、白旗を船上に引き揚ぐ」(「問条」一八五〇〈嘉永三〉)というその機能を認知していた。しかし松陰は、白旗という「外夷の法」を「我れに在りて必ずしも知らず」と断じ、これを「一々遵守する」ことは「人に致さるる」ことであると考え、その承認を拒否していた。

このような独善的・自民族中心的な態度は、みずからの講ずる伝統兵学へのいわば根拠のない信頼に基づいていたが、一八五〇(嘉永三)年秋の平戸・長崎遊学において乗船したオランダ商船の巨大さを実感し、また清国人魏源の『聖武記』をはじめとした海外知識を摂取した結果、それは次第に変容していった。そして、「今誠に旧に率はんと欲せば則ち時に随はざる能はず」(「漫筆一則」一八五〇〈嘉永三〉)と書き残したように、松陰の意識は、たんに防長二国を守る兵学から、日本全体を西洋に対し独立たらしめる経世論へと大きく転回していき、ついに西洋諸国と日本とを対等の存在として承認するに至ったのである。

このような自他認識の転回こそが、ペリー・プチャーチンを「近世海外」の「三傑」(『幽囚録』一八五四〈安政元〉)の二人と評した江戸の人士に強い批判を加え、これら艦隊の背後にある国家こそが問題であるという冷静な認識を松陰にもたらしたのであった。松陰が白旗書簡を「遂に信ずる」ことができなかった背景には、「国際社会」を国家間の対等という秩序のうちにとらえようとする、このような認識があったのだと言えよう。

ペリー艦隊密航による投獄後の松陰は、羅森(ペリー艦隊漢文通訳)が著わした太平天国の乱の記録(通称『満清紀事』)を翻訳した『清国咸豊乱記』(一八五五〈安政二〉)において、白旗の意味をその原文よりもくわしく叙述している。またそれを「和平の信」と表現していたことは、白旗自体を屈辱的な降伏の象徴と見做していなかったことを示している。この『清国咸豊乱記』は、たんなる漢文の書下しではなく、和文で著された日本人に向けた書物であり、ここで松陰があえて白旗の叙述を増補した背景には、将来西洋列強との交戦の際、平和状態の恢復の意志表明であるこの白旗の存在を日本人に対して明示しておく必要があると判断したからではなかったろうか。

兵学師範時代、白旗を「外夷の法」として拒否していた松陰は、この「外夷の法」をそれゆえに拒否するのではなく、むしろそれを「国際社会」において必要な限りで承認するに至ったのである。このような松陰の思想的転回は、「国力強勢にて外夷を駕馭するに余りあらば、居交易も亦可なり、況や出交易をや」(「墨使申立の趣論駁条件」一八五八〈安政五〉)というように、貿易すらも許容する態度へとつながっていったのであった。

みずからの主体性が確保されていれば、たとえ開港・交易を行っても、清国のような無秩序は生じないという松陰のこのような認識は、白旗に代表される「外夷の法」をも主体的に受け入れようとする態度の一つの現れであったと言えよう。

レジュメ(誤字等があります)
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2003年10月01日 (水)

今日のお題:吉田松陰『野山獄読書記』の基礎的考察(東北大学文学会『文化』67号2003年)

 幕末志士の中でもとくにその激烈な言動によって知られる吉田松陰(1830(天保元)?59(安政6))は、一方でペリー艦隊密航(1854(安政元)年)の罪による投獄後の後半生を幽囚の内に過ごした人物でもある。
 一年有余の獄中における松陰は、多くの革命家が行ったような革命理論の構築や政治宣言の起草などといったこととは無縁であった。むしろ彼は、自らが罪人であることを自覚し、その罪人である自分が生きていられることは、「君父の余恩」「日月の余光」「人生の余命」という「三余」の賜物と考え、その感謝の念を「三余読書」ということばに託し、日々を読書に費やしたのである。

 この獄中(およびその後の幽囚)での足掛け四年にわたる読書記録を詳細に収めたものが、『野山獄読書記』(以下『読書記』)である。『読書記』は、『吉田松陰全集』に収められ、また精巧な写真版(貴重図書影本刊行会刊1931年)も、全集編纂に先立って刊行されており、改めて「発掘」されるべき文献ではない。しかし今回あえて『読書記』を取り上げたのは、この松陰の思想変遷の軌跡を如実に表現しているこの書を、先行研究がほとんど注目してこなかったからである。

 むろん、『読書記』がまったく無視されてきた無名の書であったわけではないことは、写真版の刊行という事実からも容易に理解できる。戦前における松陰研究の「古典」とも言うべき広瀬豊『吉田松陰の研究』(1943年)も、「松陰の修養の糧を知り、又出獄後は門人に教へた書名をも知ることができる」と高い評価を与えていた。しかし、『読書記』自体を対象とした考察は皆無に近く、『吉田松陰の研究』が松陰の読了書籍をかなり詳細に列挙している中に『読書記』の記載を用いている他は、敗戦後に発表された初めての体系的松陰論である奈良本辰也氏の『吉田松陰』(1951年)を挙げるに留まる。

 このような先行研究の状況を鑑み、筆者は『読書記』における松陰の読了書籍を分類・データベース化し、人文科学におけるテキストデータベースの利用の課題と問題点を検討し、また拙稿「吉田松陰における『転回』――水戸学から国学へ」で、その成果の一部を用いた。

 同拙稿は、松陰における1856(安政3)年8月の「転回」が、海防論から水戸学的尊王論への「転回」であったという通説に対し、『読書記』に現れた松陰の読書傾向が、これを界として、水戸学から国学へと劇的に変化したことをとらえ、それがむしろ国学的尊王論への「転回」であったことを、松陰の同時期の著作における主張の変化と併せて明らかにしたものである。

 しかし同稿は、その問題設定上、「尊王」という枠組みにおける計量的分析に留まるものであった。本稿は『読書記』全体を通して、安政期の松陰における思想構造を「読書」という新たな側面から再検討するための基礎作業にあたるものである。したがって本稿では具体的分析にまで至らないことを付言しておきたい。


『野山獄読書記』における読了冊数の推移
    年 冊数
   1854 106
   1855 493
   1856 505
   1857 356
   総計 1460

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