2003年10月01日 (水)

今日のお題:吉田松陰『野山獄読書記』の基礎的考察(東北大学文学会『文化』67号2003年)

 幕末志士の中でもとくにその激烈な言動によって知られる吉田松陰(1830(天保元)?59(安政6))は、一方でペリー艦隊密航(1854(安政元)年)の罪による投獄後の後半生を幽囚の内に過ごした人物でもある。
 一年有余の獄中における松陰は、多くの革命家が行ったような革命理論の構築や政治宣言の起草などといったこととは無縁であった。むしろ彼は、自らが罪人であることを自覚し、その罪人である自分が生きていられることは、「君父の余恩」「日月の余光」「人生の余命」という「三余」の賜物と考え、その感謝の念を「三余読書」ということばに託し、日々を読書に費やしたのである。

 この獄中(およびその後の幽囚)での足掛け四年にわたる読書記録を詳細に収めたものが、『野山獄読書記』(以下『読書記』)である。『読書記』は、『吉田松陰全集』に収められ、また精巧な写真版(貴重図書影本刊行会刊1931年)も、全集編纂に先立って刊行されており、改めて「発掘」されるべき文献ではない。しかし今回あえて『読書記』を取り上げたのは、この松陰の思想変遷の軌跡を如実に表現しているこの書を、先行研究がほとんど注目してこなかったからである。

 むろん、『読書記』がまったく無視されてきた無名の書であったわけではないことは、写真版の刊行という事実からも容易に理解できる。戦前における松陰研究の「古典」とも言うべき広瀬豊『吉田松陰の研究』(1943年)も、「松陰の修養の糧を知り、又出獄後は門人に教へた書名をも知ることができる」と高い評価を与えていた。しかし、『読書記』自体を対象とした考察は皆無に近く、『吉田松陰の研究』が松陰の読了書籍をかなり詳細に列挙している中に『読書記』の記載を用いている他は、敗戦後に発表された初めての体系的松陰論である奈良本辰也氏の『吉田松陰』(1951年)を挙げるに留まる。

 このような先行研究の状況を鑑み、筆者は『読書記』における松陰の読了書籍を分類・データベース化し、人文科学におけるテキストデータベースの利用の課題と問題点を検討し、また拙稿「吉田松陰における『転回』――水戸学から国学へ」で、その成果の一部を用いた。

 同拙稿は、松陰における1856(安政3)年8月の「転回」が、海防論から水戸学的尊王論への「転回」であったという通説に対し、『読書記』に現れた松陰の読書傾向が、これを界として、水戸学から国学へと劇的に変化したことをとらえ、それがむしろ国学的尊王論への「転回」であったことを、松陰の同時期の著作における主張の変化と併せて明らかにしたものである。

 しかし同稿は、その問題設定上、「尊王」という枠組みにおける計量的分析に留まるものであった。本稿は『読書記』全体を通して、安政期の松陰における思想構造を「読書」という新たな側面から再検討するための基礎作業にあたるものである。したがって本稿では具体的分析にまで至らないことを付言しておきたい。


『野山獄読書記』における読了冊数の推移
    年 冊数
   1854 106
   1855 493
   1856 505
   1857 356
   総計 1460

<< 口頭発表(1999?2003年) | main | 「松陰と白旗――『国際社会』認識の転回」(2003年度日本思想史学会パネルセッション「吉田松陰研究の現在――開国前後の対外観を中心に」、2003年10月19日) >>