2004年10月09日 (土)

今日のお題:幕末における普遍と固有――吉田松陰を中心に(日本倫理学会大会、2004年10月9日)

幕末における普遍と固有――吉田松陰を中心に(日本倫理学会大会、2004年10月9日)

幕末の志士である吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?一八五九〈安政六〉)は、その最晩年――と言っても数えで三〇歳であったが――に次のように書き残している。

「天照の神勅に「日嗣の隆えまさんこと、天壌と窮りなかるべし」と之れあり候所、神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずあるなり。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり。」(「堀江克之助宛」一八五九(安政六)年一〇月一一日)

松陰にとって、「天壌無窮の神勅」は、日本の独立とみずからの尊攘運動の成就を保証する「神聖な約束」であった。しかし松陰は、それがあくまでも「万国皆同じ」な「鴻荒の怪異」であることを忘れることはなかった。すなわち、「神勅」は「皇国」固有の「神聖な約束」であって、「万国」における普遍的な「約束」ではなかったのである。松陰にとってこの日本の固有性が、いかに位置づけられていたのかを、本発表では松陰と老朱子学者・山県太華(一七八一〈天明元〉?一八六六〈慶応二〉)との論争を中心に明らかにするものである。

松陰は、日本の固有性(「皇国の体」)を主張するのと同時に、世界における普遍(「五大州公共の道」)の存在を認める点で、矛盾した思考様式を成している。この矛盾を含んだ松陰の固有主義に比べれば、確かに日本の固有性を特殊性に解消する太華の徹底した普遍主義(「天地間一理」)は、合理的な妥当性を有していたといえよう。しかし、はたして太華の普遍主義は、現前する諸国家の相違を乗り越えうるものであったかについては、疑問を呈せざるを得ない。太華の「天地間一理」とは、あくまで形而上学的な「理」に基づく抽象的普遍であって、「天下」における具体的問題に対応しうるものではなかったのではないだろうか。

松陰は、日本の固有性(「皇国の体」)を主張する一方で、その固有性を単に日本のみだけではなく、世界万国相互に認め、その相互承認にもとづいて、世界における普遍(「五大州公共の道」)がかたちづくられると考えていたのであり、この点にこそ明治国家において喧伝された「金甌無欠・万邦無比」の「国体」とは異なった、松陰における日本の固有性の模索の意義があったのだと言えよう。また本発表が明らかにした幕末における普遍と固有の思惟様式は、地球的規模の普遍としての「万国公法」における固有としての諸国家の関係を論ずることに資することとなろう。

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