2009年11月30日 (月)

今日のお題:「世界的眼孔・松陰と小楠の国際社会認識――近代国家間システムを超越する思想」(『別冊・環(17):横井小楠 1809-1869 「公共」の先駆者』藤原書店、2009年11月、170?174頁)

$FILE1_l 別冊『環』 横井小楠 1809-1869 「公共」の先駆者
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=1099

   はじめに

徳富蘇峰は、三人の幕末思想家を挙げて次のように評している。

「宇内(うだい)の大勢に至りては、横井〔小楠〕は世界的眼孔を以てこれを悟り、佐久間〔象山〕は日本的限孔を以てこれを察し、藤田〔東湖〕に至りては、水戸的眼孔を以て、僅(わず)かにこれを覗(うかが)いたるのみ。」

小楠・象山・東湖の三者は、いずれも強い思想的影響力を有した人物である。小楠が世界規模の視座から時代を捉えていたのに対し、象山は世界における具体的単位としての日本国家の視座から、そして東湖に至ってはさらに細分化された藩のレベルからわずかにこれを捉えることが出来たに過ぎない――蘇峰はこのように喝破する。この評価は、三者の本質を良く衝いており、人物評に卓越した蘇峰の面目躍如と言ってよい。

蘇峰がこのように小楠を高く評価した背景には、彼の父である一敬が小楠の一番弟子であったことも無関係ではないだろう。しかし彼がこの評を書き記した著作は小楠にではなく、幕末の志士である吉田松陰に捧げられたものであった。「第二の維新」を標榜した蘇峰は、松陰に「局面打破」すなわち時代の突破力を見出したのである。

「東湖の手腕用ゆる所なく、佐久間の経綸(けいりん)施す所なく、小楠の活眼行う所なく、智勇交(こもご)も困(くるし)むの極所に際し、かえって暴虎(ぼうこ)馮河(ひょうが)、死して悔(くい)なき破壊的作用のために、天荒を破りて革新の明光を捧げ来るものあり。その人は誰ぞ、踏海(とうかい)の失敗者、野山の囚奴、松下村塾の餽鬼大将、贈正四位、松陰神社、吉田松陰なり。」

尊攘派を形成させた東湖の組織力、東西の学問を修めた象山の学識、そして世界規模の視座を持つ小楠の洞察力――これらが発揮できないような閉塞状況に際してこそ、「蹉(さ)跌(てつ)」や「失敗」を繰り返しつつも、ひたむきに時代にみずからを投げ込んだ松陰のような人物が求められるのだと若き蘇峰は「第二の吉田松陰」が現れるべきことを力強く説いたのである。

この蘇峰が著した『吉田松陰』の巻頭には、松陰から小楠に宛てられた書簡が石摺(いしずり)で掲げられている。蘇峰がその序文において触れているように、この書簡は、一八五三(嘉永六)年、ロシア・プチャーチン艦隊への密航のために長崎に向かったもののこれを果たせなかった松陰が、その帰路において小楠に送ったものである。松陰は、この長崎行において熊本に立ち寄っており、その際、小楠と親しく交流していた。

この書簡で目を引くのは「弊藩」すなわち長州藩における有為の人物の列挙である。松陰は小楠にこれら「有志の士」を紹介することで、藩を越えた全国的なネットワークを模索したのである。そこには、小楠が松陰の構想するネットワークの一つの核(コア)となるであろうという確信を看取することが出来よう。

2009年11月01日 (日)

今日のお題:「倒幕」へと志士達を突き進ませた吉田松陰の「松下村塾」:『商工にっぽん』(2009年10月号、20?23頁):【特集1】ムーブメントと場

$FILE1_l 商工にっぽん(10月号) - 商工にっぽん(20?23頁)
http://www.sho-ko.co.jp/magazine/shoko/shoko_200910.html

「明治維新の核となる人物が輩出したことで知られる「松下村塾」。吉田松陰が主宰するようになった頃に最盛期を迎える。それは兵学者として国際情勢に精通していた松陰の講義が、情報感度の高い萩の若者達を惹き付けたからに他ならない。そのような中で弟子たちは、松陰が発想した斬新な「倒幕」の思想に触れ、幕府に処刑された松陰の亡き像を胸に、一直線に明治維新へと突き進んでいった。」そうです。
(http://www.sho-ko.co.jp/magazine/shoko/pdf/200910_kirihara.pdf)

インタビューを元にして文章化していただいたのは初めてです。

2009年10月31日 (土)

今日のお題:「常州水府の学」としての水戸学――会沢正志斎を中心に(地方史研究協議会編『茨城の歴史的環境と地域形成』雄山閣、2009年10月、91?110頁)

$FILE1_l Amazon.co.jp: 茨城の歴史的環境と地域形成: 地方史研究協議会: 本

   はじめに

近世日本にはいくつかの学派が存在する。これらの学派の多くはその首唱者あるいはその私塾の名をもって記され、特定の地域がその学派の呼称として通行した例は少ない。それは日本における思想の伝達が、思惟様式それ自体ではなく、しばしばある人物の思惟様式の解釈をめぐって展開されてきたことと無縁ではないであろう(日本仏教における始祖崇拝などもこの問題と揆を一にするものと言える)。

近世後期の水戸藩において展開した「水戸学」と呼ばれる学派は、この意味で例外的な存在であり、またその呼称はそれが特定の人物によって創始されたものではないことを示している。しかしこの学派が「水戸学」あるいは「水府の学」とはじめて呼称されたとき、むしろそれは新奇な学説を唱える集団として見做されたのであり、長州藩校明倫館の学頭を務めたこともある朱子学者の山県太華(一七八一?一八六六)は、幕末志士である吉田松陰(一八三〇?五九)との論争の中で次のように述べている。

「近頃世上に水府一流の学者之れあり……本藩にても近来水府の学を信ずる者間々之れあり、近侍の臣又は政府の間にかやうの人もありて、或は君を惑はし奉り、又は政事の間に此の意移らば、其の害勝げて言ふべからず。」

太華は「其の害勝げて言ふべからず」とすら指弾したが、この表現は、その背後に水戸を中心として展開された言説がまぎれもなく体系を有した一箇の学派であるという認識が存在していたことを意味するものでもある。しかしながらこの言説は、研究史的にしばしば太華の指摘する「害」の部分、すなわち政治的主張としての尊王攘夷論がとくに注目されたために、政治思想史の文脈を中心に研究され、それゆえ、その学派としての体系的な思惟様式への言及は必ずしも多くはなかった。

「尊皇」思想としての水戸学それ自体に価値が見出された戦前において、「苟しくも大義を明らかにし人心を正せば、皇道奚(いずくん)ぞ興起せざるを患へん」(「回天詩」)と詠った藤田東湖(文化三〈一八〇六〉?安政二〈一八五五〉)に、政治思想史的研究が集中したことは当然であったと言えよう。これに対し、戦後はいわゆる皇国史観に対する反省から、水戸学を明治国家における政治的イデオロギーの基礎として研究する傾向が強まる。それゆえ幽谷・東湖父子のような実践家ではなく、「祭は以て政となり、政は以て教となり、教と政とは、未だ嘗て分ちて二となさず」(『新論』文政八〈一八二五〉)と主張した理論家(イデオローグ)としての会沢正志斎(天明二〈一七八二〉?文久三〈一八六三〉)が中心的に取り上げられることとなった。日本の敗戦を前後して、水戸学に対する評価は大きく変わったが、そのいずれの場合においても、水戸学を近代天皇制国家との強い連続性のうちに捉えようとする点においては、変わることはなかったのである。

このような、いわば近代という歴史的帰着点から分析しようとする限り、水戸学が成立した近世という思想世界から、それは切り離されて解釈されざるをえなくなる。それゆえ、彼らの主張はしばしば近代的に再解釈され、その理解から逸脱する部分はこれを軽視、あるいは黙殺することすらなされたのである。たとえば、幽谷・東湖の「全集」を編纂した菊池謙二郎(一八六七?一九四五)は次のように述べている。

「新論の冒頭に『神州は太陽の出づる所、元気の始まる所』とあり又神州は世界の首部を占め、西洋諸国は脛足に当り、亜墨利加は背部〔原・背郎〕に当るとあるを見て、事理に通ぜぬ誇大の言辞であると貶(けな)すものもあるが是は蓋し著者の寓意のある所である。……正志斎が対外策を論ずるに際し、先づこの自屈自卑の弊風を打破し、自尊自負の気風を喚起し国土をして自ら恃む所を知らしめんとて殊更にかゝる譬喩を用ひたるものと察せらる。『太陽の出づる所』とあるを、文字通りに解釈する者のあるのは其人の理解力理想力が足らぬのである。百年以前の人であつても、太陽が実際我国より出る出ないは問題にせぬことは明かである」

会沢は『新論』において、大地を身体ととらえ、その東方に位置する日本を陽気のはじまるところであり、それゆえ大地の元首であるという独自の世界像を叙述している。すでに別稿で述べたように、それは会沢独自の易理解に深く根ざした神学体系であり、決して「寓意」などではなかった。

もとより今日のわれわれにとって、地球が丸い以上、日本が極東に存在する「事実」を、「東方君子国」としての尊厳性の根拠とする会沢の論理には疑問を呈せざるをえない。菊池もまた近代人として、これを額面通りに受け取ることが出来なかったであろうことは想像に難くない。そのため彼は会沢の世界像を「寓意」とみなすことで「処理」したのであり、それ自体は科学的で合理的な態度であると言えよう。しかしそれが会沢の思惟そのものを理解したものであるのかという点に関しては疑問が残る。むしろそこには会沢を近代国体論に連続させることで、彼を近代の磁場のうちに取り込もうとする態度こそが見出される。そしてこの態度は、立場を変えながらも戦後の水戸学研究においても承け継がれているのであり、そこにおける会沢は、天皇制国家の先駆的イデオローグとして描かれることとなる。それは歴史の不可遡性をに対する過ちを犯していたと言わざるを得ない。

本稿は、これまでの水戸学研究におけるこのような動向への反省から出発し、あくまで水戸学を近世という思想世界に置くことで、その特質を論ずることを目的とするものである。この作業によって、水戸学がたんに観念的な言説のみに根拠するのではなく、「日域之東首」(会沢正志斎『下学邇言』弘化四年〈一八四七〉起稿)と呼ばれたこの常陸国という空間においてはじめて成立しうる、まさに「常州水府の学」とも言うべき地域的な特殊性を有した思想であったことを明らかにしていきたい。

2009年10月29日 (木)

今日のお題:「あこがれ」としての病院信仰(日本思想史学会2009年度大会「パネルセッション1 在宅ホスピスの現場における日本思想史研究の可能性:「病院死」を選択する日本人」、2009年09月18日、仙台市・東北大学)

病院死率8割を越える日本。それは、けっして医療技術の発展の賜物ではない。他の先進国における病院死率が軒並み4割を切る事実がそのことを示している。

日本における病院依存の歴史的・文化的背景を探ると、そこには、「病院」を渇望する近世以来の日本知識人における病院信仰が存在していた。王道政治の象徴的施設としての病院言説の成立過程を描く。

2009年10月10日 (土)

今日のお題:蘆野吉和・岡部健・竹之内裕文+桐原健真(司会)「鼎談 死を受けとめる」(タナトロジー研究会 in 十和田、2009年10月10日、於十和田市・十和田市立中央病院)

鼎談の司会というものを初めてやりました。大変でした。

2009年10月01日 (木)

今日のお題:桐原健真・オリオン=クラウタウ共訳:リチャード=ジャフィ「戦前日本における仏教的物質文化、〈インド趣味〉、および汎アジア仏教の形成」(東北大学文学部宗教学研究室『東北宗教学』4号、2008年12月31日、157?189頁)

$FILE1_l 去年の末に出たことになっている初冬の翻訳。
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2009年09月26日 (土)

今日のお題:「直線と円環――日本思想における生死」(患者のウェル・リビングを考える会&タナトロジー研究会「リビングウィル シンポジウム:どう生き どう死ぬか―現場から考える死生学―」2009年09月26日・於神戸市・神戸市立総合福祉センター)

神戸に行ってきました。

2009年09月12日 (土)

今日のお題:「弘道館とその祭神―会沢神学の構造―」(日本宗教学会2009年大会、2009年09月12日、於京都市・京都大学、)

京都に行って来ました。

2009年08月31日 (月)

今日のお題:苅部直「書評『吉田松陰の思想と行動―幕末日本における自他認識の転回』」、『朝日新聞』2009年8月30日

苅部先生が、朝日新聞に書評を書いて下さいました。

【レビュー・書評】吉田松陰の思想と行動―幕末日本における自他認識の転回 [著]桐原健真 - 書評 - BOOK:asahi.com(朝日新聞社)

望外のお言葉を賜り、恐懼しております。

2009年08月29日 (土)

今日のお題:東北大学臨床死生学研究会シンポジウムのご案内

※盛会のうちに終了いたしました。

$FILE1

今夏、東北大学臨床死生学研究会は、日本思想史研究会のご協賛のもと下記の通りシンポジウムを開催いたしますのでご案内申し上げます。

 弊会は、2007年度東北大学若手研究者萌芽研究育成プログラムによる支援事業に採択された「医療現場との対話による「臨床死生学」の確立――歴史的・文化的アプローチに基づいた「死生」観研究とそのアーカイブ化」を研究課題として結成された若手研究者の集いです。

 このたびのシンポジウムでは、ターミナルケアの現場に対して文化研究がいかなるフィードバックが可能であるのか、あるいは臨床の現場がいかなる文化研究を要求しているのかという問いから出発し、たんなるタコツボ的な死生学研究に終わらない、現実社会との対話を持った研究の在り方を考えるものです。

 講演者・パネリストは、以下の通りです(50音順・予定)。

○招待講演(14:00?15:00)
・岡部健 医療法人社団爽秋会理事長
・竹之内裕文 静岡大学創造科学技術院・農学部准教授

○パネリスト(29 日15:10?18:00・30 日09:00?12:00)。
・桐原健真(東北大学文学部助教・近代日本思想史:弊会代表・総合司会)
・高橋由貴(同大学院文学研究科博士課程後期・日本近代文学)
・日笠晴香(同大学院文学研究科博士課程後期・哲学)
・本村昌文(同百年史編纂室・近世日本思想史)

               記

 日程 2009年8月29日(土)?30(日)
 会場 鎌先温泉/木村屋旅館
    http://www.kimurayaryokan.co.jp/
 アクセス http://www.kimurayaryokan.co.jp/access.html

            お申込フォーム
http://www.sal.tohoku.ac.jp/rinshiken/cgi-bin/symposium.html


東北大学臨床死生学研究会
http://www.sal.tohoku.ac.jp/rinshiken/diary.cgi

<< 22/32 >>