2011年02月08日 (火)

今日のお題:「安心安全」を求めて

今や「安心安全」は、日本国民すべての希求するところとなり、これに反するものは、許されざる存在ともなっておりますが、それにしてもあまりに氾濫しすぎているのではないかと感じたりも致します。

「じゃあ、オマエは『安心安全』が要らないのか」と言われると、そうではないのですが、少なからず、何のための「安心安全」なのかということを疑問に思わざるを得ないようなことも無いわけではないので、そのように考えるわけです。

たとえば、こんなお話。

「カロリーゼロ」や「糖質ゼロ」などを明記した「ゼロ食品」ブームが続いている。この1月、調味料メーカーのピエトロはドレッシングの主力商品で「ゼロ表示」を始めた。ふた部分に「コレステロール0(ゼロ)」という文言を追加。昨年6月からライトタイプの商品で試験的に実施したところ、売り上げが10%アップしたのを受け主力品での表示に踏み切った。「中身は同じなのに売り上げが伸びるのは異例。ゼロ表示の効果は非常に大きい」と池田邦雄取締役は驚く。〔中略〕“過剰”なゼロ表示への葛藤もある。複数の植物油製品に「コレステロール0」と表示するJ-オイルミルズ。コレステロールは動物性油脂には含まれるが、植物性油脂には基本的に含まれない。品質・環境部長の横溝和久氏は「元来ないものをゼロ表示で強調するのは、誤解に付け込むマーケティング手法だという認識はある。できればこんな表示はなくしたい」と胸の内を明かす。
(ゼロ食品氾濫が映す、食品表示の後進国ニッポン (東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュースhttp://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110128-00000000-toyo-bus_all)

ほかの会社にも、本来入る余地のない保存料を「ゼロ」と言ったりしているようです。こういったお話し自体の当否は別にして、当方が問題にしたいのは、「安心安全」ということばが、一人歩きしているという現状であります。

かつて中曽根元総理は、「3A政策」というのを唱えたそうです。「3つのA」というのは、「安心・安全・安定」だそうで、上手く考えたものではあります。

国土及び国民の生命、身体、財産を災害から守って国民生活の安全性を高めることは国政の基本でございます。私は過般の予備選中に、安心、安全、安定ということを申し上げましたが、この安全の中には地震や災害に対する被害から国民を守るという考え方が基本にあったのでございます。(第97回国会・参議院本会議1982年12月09日、中曽根総理大臣所信表明演説に対する質疑への応答)

中曽根政権時代の3Aは、あくまで「安全保障」という意味での「安全」に立脚した「安心」「安定」なわけで、その中心は「安全」なわけでありますが、考えてみますと、私どもの「安心安全」には「安定」が欠けているのではないかと思います。

新聞紙上でこの「安心安全」が頻出してくるのが1995年ごろのようで、この年は、阪神大震災や地下鉄サリン事件などがバブルの崩壊という経済状況とともに日本社会にのしかかってきた時節でもあります。事実、建設省・厚生省の肝煎りで「安心安全街づくり研究会」なる組織ができたのも、この頃であるようです。

阪神大震災を教訓にした防災と福祉を一体化したまちづくりを厚生省と建設省でつくるために勉強会を持った。そして、安心・安全街づくり研究会をつくって、震災復興中の神戸市、東海沖地震対策の強化地域の静岡市、はたまた大火復興を経験し、拠点都市整備で中心商店街の再生に取り組んでいる酒田市がこれに選ばれました。(酒田市議会 会議録検索システム 平成7年9月 定例会(第4回) ? 09月12日・03号
 
 
このように考えますと、「安心安全」のはじまりは、物理的あるいはハードの問題であったと申せます。しかしこの傾向は、2000年ごろを境に、食品の安全といった生活そのものの問題へとシフトしていくことになります。

店頭の食品を購入する際、私は安心安全の目安として、有効期限を確かめ、なるたけ指定期限に余裕のあるものを選ぶことにしています。
(オピニオン「食品の表示はもっと鮮明に(声)」『朝日新聞』2000年07月15日朝刊16面)


エコ買いということばが使われるようになった今日では、なかなか言いにくいことをおっしゃっておりますが、それはさておき、ある意味、「安心安全」なるもの対象が無分別に拡大していったとも言えます。それは、社会一般における「安定」が失われていったという共通認識と無関係ではありますまい。

生活に「安心安全」を求めることは、誤りではありません。むしろそれは希求されるべきことではあります。しかしながら、みずからの「不安定」を担保しようとするあまり、その生活のすべてにおける「無謬の安心安全」を盲目的に求めることは、むしろ冒頭に挙げたような「誤謬の安心安全」をもたらしかねません。

どうやっても代替不可能な農薬を使用していることを理解しない無農薬無謬論者は存在します。なんのための「安心安全」なのかということを考えてみる必要はあるのではないでしょうか――といったことを、この前出席した研究会から思い至った次第。

2011年01月29日 (土)

今日のお題:浅草神社

ずいぶんと久しく書き込んでいなかったのですが、単純に忙しかっただけで、じゃぁ、今は忙しくないのかと言われると、実際の所そうではなく、諸般の事情で身動きが取れない状況のため、この期に懸案を片付けようという次第。

さて、以前お話しした浅草寺の件ですが、観音様を引き揚げた漁師は神様になりました。そして、こうなったわけです。

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浅草神社です。三社祭ですとかでよく知られているあの浅草神社ですね。かつては三社様ですとか三社大権現とか言われていた神社です。まぁ、祀られた人間が三人ですから三社様とはなるほどぴったりなネーミングであると申せます。

「浅草寺」「浅草神社」とでは、耳で聞いた際にずいぶんと異なって感じます。しかし、よくよく見れば――それほど見なくても――「浅草」という地名を音読みするか、訓読みするかの違いでしかないわけです。

で、この浅草神社に件(くだん)の漁師たちが神と祀られもったい無さ?よ?、というわけですね(なぜ唄う)。

前回の写真が、これだったわけですが、

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反対から見るとこのようになります。

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浅草神社の鳥居と浅草寺の本堂が並んでいることがよくわかりますね。お隣さんと言ってもよろしいのですが、むしろ浅草寺の境内に浅草神社があると言った方が正確かも知れません。

浅草寺の地図:マピオン
http://www.mapion.co.jp/m/35.7115417_139.7999639_8/v=m2:%E6%B5%85%E8%8D%89%E5%AF%BA/

浅草神社の境内は、浅草寺に比べると人出が少なく、これはこれで気持ちの良いところです。みなさん、「なんでこんな所に神社があるんだろう」、という感じでスルーしてしまうのでしょうね。

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まぁ、中には「昔の神仏混淆の名残なのね?」みたいなことをおっしゃる方もいるとは思いますが、当方としては、半分アタリで半分ハズレな感じです。

と、申しますのも、この浅草神社と浅草寺は決してたんに「混淆」していたわけではないからです。つまり、浅草神社の祭神である漁師たち3人がいたからこそ、観音様は示現することが出来たのであり、逆に言えば、観音様が示現したからこそ彼らは神様になり得たのだ――そのように言えるのではないかと。

さらに思考をたくましくさせると、観音様の大慈悲を衆生に顕現させるには、三社様という神様――しかもそれは漁師たちが形成する漁業共同体の代表でもあります――を媒介として、これを戴く必要があったと言えるでしょう。

    観 音 様…大慈悲の所持者
    ↑  |
    祭祀 恩恵
    |  ↓
    三 社 様…漁業共同体の代表
    ↑  |
    祭祀 恩恵
    |  ↓
    漁業共同体…恩恵を受ける主体

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つまり、神仏は相互に依存した形でもって、その宗教空間を形作っていたわけでありまして、単純に雑居していたわけではないということです。こういった習合(習〈かさ〉ね合わさること)のありかたこそ、近代以前における神仏関係の一般的な姿であったと申せます。

しかし、教育委員会が建てた由緒書きなどをみると、そのあたりのことは華麗にスルーされ、創建も不明、典拠も「明治初期の文書」となんとも心細い限りとなっております。ここら辺が実に残念な所ではあります。

結局の所、明治初年の神仏分離によって神道と仏教とは別の存在であると政治的に決められたために、それまでに存在していた宗教空間が否定されてしまったわけです。浅草寺の縁起が推古朝であるのなら、浅草神社だってその時期でよいと思うのですが、そうはいかないのが何とも。

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とはいえ、社務所にある絵馬を見ると、浅草神社の由緒がよくわかってとてもステキです。ある意味、絵巻物的な時空間構成になっているのも面白い。なにげに「三社大権現」と書いてありますし。戴いてくれば良かったなぁ。
 
 
 
 

2010年12月17日 (金)

今日のお題:中村義・久保田文次・陶徳民・藤井昇三・川邉雄大・町泉寿郎編『近代日中関係史人名辞典』(東京堂出版、2010年7月)

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中村義・久保田文次・陶徳民・藤井昇三・川邉雄大・町泉寿郎編『近代日中関係史人名辞典』(東京堂出版、2010年7月)


に書いていたことを思いだしました。

担当項目は、

小牧昌業(1843.9.??1922.10.25):幕末から大正の官僚、漢学者。
本田成之(1882.1.24?1945.3.4):大正・昭和前期の中国哲学史家。
河口慧海(1866.1.12?1945.2.24): 明治から昭和初期の仏教者・仏教学者。
能海寛(1868.5.18?没年不詳):明治の仏教者。

というなんとも不思議なラインナップ。仏教者の方はおおむね慧海論の関係なんだろうと思いますが、漢学者と中哲学者はなぜなのだろうと思いましたが、すごい勉強になりましたああ、漢文はこうして神聖性を失っていったのだなぁという感じです。高いですがご購入の価値はあるかと。

2010年12月04日 (土)

今日のお題:国会探訪

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国会図書館に用事があったので参りましたところ、今日は国会観覧日だそうで、ついでなので行ってきました。

まぁ、色々写真には収めたのですが、なぜかこんなものが一枚。

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まぁ、「日本人にはラ行で始まる名字は少ない」ということを、よく留学生に話するので、そのサンプルとしてね。結局のところ、やまとことばにラ行から始まるものが無いからなのですが、考えてみると韓国語も似たような感じですわね。まぁ、あちらは完全に発音しない訳ですが。

2010年11月20日 (土)

今日のお題:「他者としての「中国」研究――近代日本における学知の形成」

$FILE1_l桐原健真「他者としての「中国」研究――近代日本における学知の形成」、嶺南大学校中国学研究センター・東北大学大学院日本思想史研究室共同開催国際シンポジウム「東アジアの思想と対話:国境・テキスト・礼楽」(2010年11月20日:大韓民国慶山市・嶺南大学校、パネルセッション「日本における中国研究の現況」)

近代日本における中国研究が、いかに近代以前の儒学・漢学と断絶しているのかという近代学知の問題をお話ししましたが、どのくらい共感が得られたかは未知数。時間も無かったしね。

まぁ、数日前まで発表する予定すらなかった割には面白くできたかと。

2010年11月19日 (金)

今日のお題:竜頭山公園 於釜山(旧草梁倭館跡)

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時間があったので、釜山の高台にある竜頭山公園に連れて行ってもらいました。むかし、釜山の倭館があったところで、近世をやっている人間としては、存在自体が興味深いところではあります。とはいっても、どこが跡なのかがまるで分らないので、気分だけ楽しむことに。

どちらかというと、壁に掛かっていた倭館図なんかがとても有り難いので、写真に撮っていたりと、明らかに職業病のようなことに終始していました。
 
 
 
 
 
 

2010年11月18日 (木)

今日のお題:釜山上陸

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国際シンポに参加すべく釜山から韓国に入りました。

左は釜山の夜景。これだけだと釜山なのかどこなのかわかりませんね。

明日、大邱に向かいます。

2010年10月19日 (火)

今日のお題:浅草寺への旅

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日本文化論なんかを教えている割には行ったことのないのが、浅草寺でございます。浅草寺と言えばあの巨大な赤提灯。焼鳥屋でもないのになぜぶら下がっているのか。まぁ、それはさておき、長年の悲願であった浅草寺にやって参りました。

浅草寺のご本尊といえば、観音様なわけですが、この観音様が示現する過程が非常に面白うございます。いわゆる「縁起」というヤツですが、『武蔵国浅草寺縁起』(応永年間〈1394?1428〉成立カ、『続群書類聚』805巻、活字版27下・釈家部)には、こんなことが書いてあります。



$FILE3_l推古天皇〔傍註・人王卅四代〕三十六戊子年〔628年〕三月十八日癸丑。碧落に雲きへて蒼溟に風しづかなる朝。江戸浦にて釣をたれ網を引業をなしけるに。おぼえず観音の像のみ網にかゝり給ひて。いと更に游魚の類は釣をもしづめざりけり。

爰にあまのたぐ縄くり返し。又こと浦に浦づとふといへども。七浦の浦ごとにさながらおなじさまなる仏像のみかゝり給へり。此鼇海の化仏を見奉るも。彼巫山の神女にあへりしがごとし。

かれは雨となり雲と成にけり。是は海にうかび波に浮たまへり。宝の冠瓔珞蕩々として。金色荘厳篤々たり。左手蓮花を持しめ。右に無畏をほどこし給ふ。又五色の雲なびけ。四花の台かふばし。是によりて猟師さらに機縁のあさからざる事を思ふに。信心ふかく催れて。一たひ霊容を拝し奉るに。数行の涙におぼる。いよいよ掌を合頭を低て海人のかりそめ臥の蘆のまろやをあらためて。観音の濁にしよぬ蓮華の台とぞなせりける。

同十九日浜成等霊像にむかひ奉り。掌を合て游魚をのぞみ。其祈の詞にいはく。我らすでに昨日はいたづらに手をむなしくして帰りぬ。けふは観音よく霊験をたれて魚をとらしめ給へと祈念して網をおろすに。大小の魚すなはち綱の目に余る。長短のうろくづ忽に船中にみち々々たり。舎屋の男女貴賤同じく観音の威験をあふぎけり。是によりて旧居のすみ家をあらためて永く新搆の寺とす。

彼時の土師の直の中知・浜成・竹成は今の三所権現是也。内には妙覚高貴の尊体をかくし。外には惣地下位の漁父とあらはれ給ふ。利益衆生の方便まことに貴るべし〈適宜改行などを加えた)。




観音様は天から降ってきたわけでもなく、地から湧いたのでもなく、海からやってきたというあたり、いろいろと想像をたくましくする余地がありそうですが、そういう『海神記』的なお話しはさておき、漁師が網で引っかけて発見したというところがステキです。

しかも観音様を引き上げても、この漁師どもはすぐに「有難い有難い」と言って崇め奉ったわけではありません。「七浦の浦ごとにさながらおなじさまなる仏像のみかゝり給へり」と言うのですから、7回も網にかけている――つまりこの人たちは不届きにも、6回にわたって観音様を海に投棄しているわけです。まぁ、これが事実であるかといったことは抜きにして、何度も投棄する方も投棄する方ですが、何度も示現する方も示現する方だなぁと思います。

まぁ、これが観世音菩薩の大慈悲というものなのでしょうが、それでもこの慈悲を感じる能力に欠けた浜成たちがいないと示現できないというところがミソでありまして、こののち彼らは、観音様を発見したことで三所権現――つまり神様になってしまうというのですから、さらに驚きであります。

まぁ、縁起の行論としては、そもそもこれらの漁師は、観音菩薩と感応しうる「妙覚高貴の尊体」を有した存在であり、漁師というのはあくまで現世の仮の姿に過ぎなかった――ということになってますので、彼らが観音様を見つけるのは、そもそも必然であったと申せましょう。

なんか近代的時間観念を有した人間には理解しがたいところではありますが、そういった一回性の死生しか認識できない凡夫の思考のさらに斜め上を行く因縁の連環は、まことにもって広大無辺の御恵みと申せましょう。

さて、この神様になった漁師たちがどうなったのかということについては、また改めてお話ししましょう。

ヒントはこれです。
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2010年10月17日 (日)

今日のお題:桐原健真「世界観闘争としての真宗護法論」(日本思想史学会2010年大会・パネルセッション3「近代仏教と真宗の問題」、2010 年10 月17 日、岡山市・岡山大学)

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「近代仏教と真宗の問題」と題するパネルをやりました。パネリストは以下の通り。

桐原健真(東北大学)
 「世界観闘争としての真宗護法論」

碧海寿広(宗教情報リサーチセンター)
 「近代の真宗とキリスト教―近角常観の布教戦略を事例として」

オリオン・クラウタウ(日本学術振興会)
 「真宗とアカデミズム仏教学―東京(帝国)大学を中心に」

コメンテータ: 引野亨輔(福山大学)
 
 
$FILE2_l桐原健真「世界観闘争としての真宗護法論・はじめに」

平田篤胤『出定笑語』の登場は、排仏論の反駁としての護法論を量的にも質的にも大きく変容させた。第一には、それまで「求道」という目的においては融和的であった仏教者の語りが、これらの排仏論に対してはきわめて排他的なものになった点が挙げられる。第二には、その語りがもっぱら浄土真宗の人々によって担われたという事実であり、そして第三点目が、この排他的な語りが、幕末における開国過程の中で再登場したキリスト教に対しても援用されることとなったという点である。否、むしろ幕末護法論は、国学的排仏論とキリスト教という二正面での闘いであったのであり、それは仏教そのものの存在理由を問う世界観闘争とでも言うべき様相を呈していたのである。

感想:「世界観闘争」ということばが引っかかるとは思いませんでした。まぁ、阿弥陀仏がいれば須弥山は要らないというのはわかるのですが、発言者が須弥山世界の必要性を語っている事実をどう解釈するのかという問題ですね。>そういうのを「方便」というのだよ。

2010年10月16日 (土)

今日のお題:第4回日本思想史学会奨励賞(2010年度)受賞

謝辞と展望(桐原健真)

このたびは、貴重な賞を賜り有難うございます。選考委員の皆様をはじめ、ご推薦いただきました松田宏一郎・片岡龍両先生に対し、深く感謝いたします。

拙著『吉田松陰の思想と行動――幕末日本における自他認識の転回』(東北大学出版会、2009年)は、2004年に東北大学へ提出した博士論文を基にしたものであり、所収の諸論文につき丁寧な指導を賜った佐藤弘夫先生には心より御礼申し上げる次第です。そして、当方が日本思想史という道を選択することを勧めてくださった故・西村道一先生にも、この受賞の喜びをお伝えしたいと思います。また本書は、東北大学出版会の2008年度若手研究者出版助成を受けております。ここに謝意を表します。

拙著における松陰は、日本の固有性を主張する思想家として描かれます。しかしその固有性は、決して「万世一系の神聖国体」といった唯一性を誇る自己言及として語られるものではありませんでした。国々には各々の固有性があると主張する彼は、これらの国々が相互にその固有性を承認することを通して、地球規模の世界における普遍性が確立されると考えたのであり、本書はその彼の思想的格闘の軌跡でもあります。

開国過程という大きな歴史的転換期にあって、みずからの国の独自性をまったく消し去った形で通商・外交を行うことは、ほかならずその主体性を失うことである――と、松陰は「四海平等」といった抽象的普遍主義を厳しく指弾しました。自身の固有性ととともに他者のそれをも尊重することは、おそらく現代の国際社会あるいは社会一般においても有効な態度であろうと思っております。

しかし実際の国際社会では、みずからの固有性を主張するだけで、他者のそれを承認しなないような事例も少なくありません。今後は、固有性を主張することの意味を、たとえば自同律そのものを「割拠見」と断じ、「宇内に乗出すには公共の天理を以て彼等が紛乱をも解くと申丈の規模無之候ては相成間敷」と唱えた横井小楠などの可能性をも検討していきたいと考えています。

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