2008年12月20日 (土)

今日のお題:「「外夷の法」――吉田松陰と白旗」、『日本思想史研究』40号、2008年03月、82?98頁

※諸般の事情で、今年の三月に出たことになっている、師走の論文。

   はじめに

一八五三(嘉永六)年に来航したペリーによる強硬な交渉態度は、しばしば砲艦外交表現される。しかし、今日知られているように、実際には武力行使の権限を与えられていなかった彼は、硬軟あわせた交渉を用いることで、所期の目的を達成しようとしたのであった。言うまでもなく彼の抱えるこのような事情を当時の日本人は知ることはなく、その後も「人を拒絶して相容れざるものは、天の罪人なれば、たといこれと戦うも通信貿易を開かざるべからず」(福沢諭吉『文明論之概略』〈一八七五年〉引用の「社友小幡篤次郎君」の言)といったような認識が広くそして久しく受容されていった。このような認識を支えたものとして幕末維新期に流布した文書に、ペリーが日本側代表に送ったとされるいわゆる「白旗書簡」が存在する。この白旗書簡にはいくつかの写本が存在するが、その内の一つには次のようにある。

    一亜墨利加国より贈来ル箱の中に、書翰一通、白旗二流、外ニ左之通短文一通、
      皇朝古体文辞  一通  前田夏陰読之
      漢文      一通  前田肥前守読之
      英??文字   一通  不分明
      右各章句の子細は、先年以来、彼国より通商願有之候処、国法之趣にて違背に及。殊ニ漂流等之族を、自国之民といへ共、撫恤せざる事、天理に背き、至罪莫大に候。依ては通商是非々々希ふにあらす。不承知に候べし。此度ハ時宜に寄、干戈を以て、天理に背きし罪を糺也。其時は、又国法を以て、防戦致されよ。必勝ハ我にあり、敵対兼可申歟。其節に至て、和降願度候ハヽ、予が贈る所の白旗を押立示すべし。即時に炮を止め艦を退く。此方の趣意如此。


要約すれば、「通商を拒否する場合は、その天理に背く罪を糺すために戦端を開くであろう。戦いになれば、必ずわれわれが勝利するので、その時は降伏と和睦を乞うこの白旗を立てよ」ということになり、まさにペリーの砲艦外交的態度を象徴する文書と言うこともできよう。

もとよりこの白旗書簡と呼ばれる文書はアメリカ側の記録にもなく、早くからその真偽が問われており、その論争は、一九九〇年代には大江志乃夫氏(『ペリー艦隊大航海記』立風書房、一九九四年)と松本健一氏(『白旗伝説』新潮社、一九九五年)を中心に展開されたが、二〇〇一年に「新しい歴史教科書をつくる会」の『新しい歴史教科書』(扶桑社)が、コラム内で白旗書簡を歴史事実として紹介したことに対し、宮地正人氏が、「ペリーの白旗書簡は偽文書である」(『UP』二〇〇一年八月号)をはじめとして強く反駁したことによりあらたな展開を迎えることとなった。この論争の詳細については、岸俊光『ペリーの白旗――一五〇年目の真実』(毎日新聞社、二〇〇二年)を参照されたい。その後、綿密な史料批判にもとづき、白旗授受の事実性を指摘しつつ、白旗書簡の偽書性を認めた岩下哲典氏による多数の論攷によって、ほぼ通説が形作られたと言って良いであろう。

このような白旗書簡の真偽に関する議論の一方で、白旗自体は幕末外交における「万国公法」運用の実例として理解されてきた。本稿は書簡の真偽ではなく、「認識されたものの認識 Erkenntniss des Erkannten」を問う思想史の立場から、白旗書簡および白旗という「国際社会」の法――現実には「西洋」の法――を、幕末の尊攘志士である吉田松陰(一八三〇〈文政一三〉?五九〈安政六〉)がいかに認識したのかを論ずることを目的とする。このことは同時に、白旗に象徴される「国際社会」の法を、幕末維新期の人々がどのように認識し、かつ受容していったのか、その転回を考察することに資することともなろう。

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