2015年06月28日 (日)

今日のお題:桐原健真「鎖国日本」言説と永久開国論を問い直す。」、日本とアジアの未来を考える委員会『日本とアジアの未来を考える。』2巻、2015年3月、63-77頁

2015年3月とは言いながら、実際には最近手許に届きました。こういう場合、いつの成果になるのかがいつも考えどころではあります。

2014年03月26日 (水)

今日のお題:桐原健真「近代日本における魂のゆくえ:戦時歌謡をてがかりに」『金城日本語日本文化』90号、2014年、1-12頁

以前、

思海 - 桐原健真「近代日本における魂のゆくえ:「九段の母」を手がかりに」(名古屋市・金城学院大学、日本語日本文化学会講演会、2013年11月20日)
http://shikai.sub.jp/diary.cgi?no=252

で行った内容の活字化です。こういう楽曲研究というのは、音曲が入っているから面白いのであって、活字にして面白いのかというと少々疑問ではあります。

しかし、「魂のゆくえ」というタイトルが好きな人だね、この人は。まぁ、そこに関心がある訳だから仕方がないとも言えます。


2014年03月15日 (土)

今日のお題:桐原健真「会沢正志斎『新論』」、岩波講座・日本の思想3『内と外:対外観と自己像の形成』2014年2月、262?273頁

内と外――対外観と自己像の形成 (岩波講座 日本の思想 第三巻)

岩波講座の日本の思想3『内と外:対外観と自己像の形成』に1本載りました。

本編論文ではなくて「古典を読む」というカテゴリのなかで『新論』について書くということなので、基本的なことを書いてあります。とはいえ、いつもの『新論』を「維新の経典」にするなというお話しなので、ミミタコな方には申し訳ないところではあります。

でも、会沢が近代において不遇であったということを活字にできたことは嬉しいことです。名誉回復って難しいんだねぇ、という話ではあります。まぁ、水戸という風土の問題かもしれませんが。

それにしても、今日現在、会沢研究が遅々として進まないのはいかがなものかと思ったりするのですが、まぁ、いまさら水戸学やってもというご意見もあるかもしれませんが。


2014年02月12日 (水)

今日のお題:桐原健真「弘道館とその祭神:会沢正志斎の神道思想」(佐々木�郢癖圈惷畭綟�本の地域史的展開:政治・文化・経済』岩田書院2014年、15-38頁)


佐々木寬司先生退職記念論集に一本載りました。佐々木先生、お疲れ様でございました。これまでありがとうございます。そして、今後とも宜しくお願いいたします。

佐々木寬司編『近代日本の地域史的展開:政治・文化・経済』
http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-843-1.htm

要旨 水戸藩藩校弘道館には、孔子廟とともに鹿島社があり、それは水戸学の神儒一致思想に基づくものである。しかしこれらの祭神選定には多くの紆余曲折があり、そこには天皇神奉斎を強く希望する藩主斉昭の存在があった。側近たちが強く反対するなか、彼は「弘道館記」撰述直前まで、その主張を繰り返したのである。

この祭神論争は、会沢正志斎による「文武の神」としての鹿島神奉斎という形で終結を迎える。それは常陸国一宮である鹿島神宮の神を祀ることで、水戸藩が――観念の上ではあれ――「常陸国領主」であることを宣言するものであった。

水戸藩は、尾張・紀伊両家に対するコンプレックスを抱えてきた。後期水戸学は、こうしたみずからのアイデンティティの追求を大きな動因としたものであり、この点で、水戸あるいは常陸国という歴史的・地理的環境を背景にしたイデオロギーであった。後期水戸学は、あくまで「東藩・水府の学」として成立したのであり、「〈常陸国領主〉水戸徳川家」を夢見た会沢・東湖そして斉昭たちにとって、「明治維新」なるものは、全く遠いところにあったのである。


2012年04月17日 (火)

今日のお題:佐藤勢紀子・末松和子・曽根原理・桐原健真・上原聡・福島悦子・虫明美喜・押谷祐子「共通教育課程における「国際共修ゼミ」の開設:留学生クラスとの合同による多文化理解教育の試み」『東北大学高等教育開発推進センター紀要』6号、2011年

うっかりと、書き忘れていた、やはり去年の論文。共著論文ってのもずいぶん久しぶりですね。

(2011)佐藤勢紀子・末松和子・曽根原理・桐原健真・上原聡・福島悦子・虫明美喜・押谷祐子「共通教育課程における「国際共修ゼミ」の開設:留学生クラスとの合同による多文化理解教育の試み」『東北大学高等教育開発推進センター紀要』6号、2011年、143-156頁

2012年03月12日 (月)

今日のお題:桐原健真「「第三の開国」とはなにか? :戦後日本における自他認識の転回(1945〜1980)」『文化』74巻3号、1−20頁、2011年

桐原健真「「第三の開国」とはなにか? :戦後日本における自他認識の転回(1945-1980)」『文化』74巻3号、1-20頁、2011年

去年出ているはずの今年の論文。良くある話です。

要旨は英文なので、そちらの日本語訳から。


「我々は第三の開国期にある」――この掛け声のもとで、20世紀後半の日本の政治家・企業家・知識人の多くが、日本改革のためのプランを提唱してきた。しかしながら、この「第三の開国」の意味するところは、時代によって異なっている。この「第三の開国」に関しての言説の変化は、日本人における自他認識の転回を示しているのである。

1853年にアメリカ海軍のペリー提督が蒸気砲艦によって始めた「第一の開国」は、「鎖国」日本を近代化することに成功する。しかし最終的に、近代日本は、その軍事的野心のため、「西洋文明」に戦端を開くこととなる。そして周知のように、この戦争は1945年に、日本の徹底的な敗北によって終わったのである。「第二の開国」はこの無条件降伏から始まった。それは、アメリカ陸軍のマッカーサー元帥による統治の下で、この「12歳の少年」を民主化する道であった。この「第一・第二の開国」がともに、アメリカ合衆国による「啓蒙への善導」あるいは「外圧」によって展開されたために、「第三の開国」という語りもまた、日本人の対米感情を反映したものであった。

一方、この「第三の開国」言説が、1970年代の日本人自身による日本論・日本人論の隆盛とリンクしてからは、日本人の「本質」を「鎖国」的閉鎖性とみなす多くの日本人が、自分たちを「開かれなければならない」民であると考えるようになる。この「第三の開国」の主張が日本人の本質論としての語りとなったために、日本人はみずからの「本質」を改革するという「大事業」に着手しなければならなくなったのである。かくして彼らはみずからが召喚した「永久開国論」に苦しめられ続けることになる(これは今でも変わらないのだが)。そこには、「鎖国日本」言説に由来する自己認識への焦燥が、コインの両面として存在しているのである。


原文は以下の通り。でも英文タイトルが間違っていることをさっき指摘されました。

誤 What is the "third opining" of Japan?

正 What is the "third opening" of Japan?

なので直しました。「third opining」ってなんだろうね。「second opinion」なら聞いたことありますが。


What is the "third opening" of Japan?: revolution of self-and-other consciousness in post war Japan (1945-1980).


"We are in the age of the third opening of our country (第三の開国期)." Under this slogan, many Japanese statesmen, entrepreneurs, and intellectuals asserted plans for the reform of Japan since the late twentieth century. However, the meaning of the phrase "third opening" changed with the times. This change of discourse regarding the "third opening" represents a revolution in Japanese self-and-other consciousness.

The "first opening", which was started by Commodore Perry of the U.S. Navy with steam gunboats in 1853, succeeded in the modernization of the closed Japan. But eventually, militaristic ambitions led modern Japan to declare war against "western civilization". This war ended in a signal defeat of Japan in 1945. The "second opening" started from the unconditional surrender. The "second opening" was a means to democratize the "twelve-year-old boy" (Japan) under General MacArthur. Because both the "first and second opening" were promoted by the good guidance or the external pressure (外圧) of the United States, the discourse of the "third opening" also reflected Japanese sentiments toward the Americans.

On the other hand, after this discourse linked to the flourishing of essays on Japan and Japanese (日本論・日本人論) written by Japanese people in the 1970’s, many Japanese, who regarded their own nature as based around the exclusionism of the closed country (鎖国), thought themselves to be ae people who ought to be opened. Because advocacies of the "third opening" had become a narrative about the Japanese essence, Japanese people were to set their hands to a grand program to reform their own nature. In this way, they were (are) suffering Permanent Opening (永久開国論) which they themselves brought about. This and an ongoing dissatisfaction in Japanese self-consciousness linked to the discourse on closed Japan (鎖国日本) were as two sides of the same coin.



今気付きましたが、巻頭論文でした。久しぶりですな。っていうか、論文自体が久しぶりか。むぅ。

2011年07月19日 (火)

今日のお題:桐原健真「幕末維新期尊攘論における国際社会認識の転回幕末維新期尊攘論における国際社会認識の転回――「帝国」言説をめぐって」(韓日文化交流基金・東北亜歴史財団編『1910년-그 이전 100년:한국과 일본의 서양문명수용(1910年:その以前の100年:韓国と日本の西洋文明受容)』ソウル・景仁文化社、2011年01月、3?53頁、内3?28頁韓国語訳)

$FILE1_l 震災の直後あたりに送られてきていたのですが、茫乎としてうち過ぎておりましたため載せておりませんでした。

近代漢語としての「帝国」に関しては、ずいぶん色々なところでお話しをしましたが、台湾・日本そして韓国とで話すことができたことは大変有り難いことでございます。

とくに今回は、大韓民国臨時政府樹立90年周年(2009年)を経た韓国併合100周年の際のシンポジウムでしたので、「帝国」の対概念としての「民国」についても言及しております。



2009年は大韓民国臨時政府樹立90年周年にあたる記念すべき年であった。この臨時政府が、今日に至るまで用いられているところの国号である「大韓民国」を称した歴史的背景には、これに先立つ国号としての「大韓帝国」(1897)や「中華民国」(1912)の存在がある。すなわち、「大韓民国」とは「大韓」という国名と「民国」という政治体制を意味する近代漢語との融合によってはじめて成立した国号にほかならない。〔中略〕1910年代の東アジアに連続して成立した二つの国号が「共和国」ではなく「民国」を選択した背後にも、やはりこのような漢文脈の影響があったであろうことを見逃すことができない。すなわち大韓民国に先行して大韓帝国が存在し、大清帝国を革命によって打ち倒した中華民国が、一時期袁世凱(1859‐1916)によって中華帝国(ただし数ヶ月で廃絶)となったことからもわかるように、「民国」とは「帝国」の対概念であり、主権がどこに存するかを明示する新しいことばであった。


ネグリ&ハートのEmpire(2000)というタイトルが、どのように漢字文化圏で翻訳されたのかというのを見ていくとなかなか面白くて、わりと皆さん食い付いてました。韓国語が一番早かったようで、これもまた面白い。

|*刊行年|*刊行地|*書名|*翻訳者・出版者|
|2001年|韓国|『제국〔帝国〕』|윤수종訳・ソウル:理学社|
|2002年|台湾|『帝国』|韋本ほか訳・台北市:商周出版|
|2003年|中国|『帝国――全球化的政治秩序』|楊建国ほか訳・南京:江蘇人民出版社|
|同上|日本|『〈帝国〉── グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』|水嶋一憲ほか訳・東京:以文社|
|2004
(番外)|越南|Trần Hữu Dũng, 2004.“Mỹ, một đế quốc?〔「アメリカ帝国?」〕” THỜI ĐẠI MỚI No.2.(http://www.tapchithoidai.org/200402_THDung.htm)2010年05月11日10時48分閲覧|

ベトナムでもEmpireは帝国です。

2010年07月02日 (金)

今日のお題:桐原健真「「帝国」の思想」(吉田忠編『19世紀東アジアにおける国際秩序観の比較研究』財団法人国際高等研究所、2010年06月25日、111?128頁)

$FILE1_l
吉田忠先生のお陰で論文を出せました。ありがとうございます。

「帝国」ということばが、「keizerriik」というオランダ語からの翻訳語であることについては、繰り返し方々で申しておりますが、今回は、この語を忌み嫌った会沢正志斎が、その最晩年に至って、ついに「帝国」の語を肯定的に用いるようになったという彼の 精神的成長史 思想的転回を描いております。

「西夷称するところの笑蓋爾(ケイヅル)なるもの、原(もと)羅馬の先祖の名に出づ。蘭学家、訳して帝となすは、ただ漢字を仮りて以て尊卑の等を分てるのみ。その実はすなはち我が所謂帝の義にあらず。故に今は帝国等の字を用ひざるなり。」

こんなことを言っていた人が、やがて、「神州は万国よりも帝国と号して古より尊れしを……」(「時務策」1862)なんて言うようになるのですから、世の中みんなイデオロギーじゃないかという間違ったスネ方をしてしまいそうになります。

山村才助の『訂正増訳采覧異言』の記述を「恣意的」に読み替え、さらに日本を「七帝国」の一つとする『北槎聞略』でのほんのわずかな記載をも見逃さず、みずからの主張の傍証とする会沢の「実証性」を見るに付け、学者としての彼のおもしろさを再認識する次第でございます。

2010年04月01日 (木)

今日のお題:桐原健真「河口慧海――求法の道の終着点」(小川原正道編『近代日本の仏教者』慶應義塾大学出版会、2010年04月、245?275頁)

$FILE1_l
慶應義塾大学出版会 | 近代日本の仏教者 | 小川原正道
http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766417142/

序文  小川原正道

1 島地黙雷――インド体験と布教活動  小山聡子
2 松本白華――欧州・中国を見た人の沈黙  町泉寿郎
3 小栗栖香頂――中国体験と日本仏教の再発見  陳継東
4 北方心泉――中国体験と書の受容について  川邉雄大
5 南条文雄――そのインド体験の宗教的・思想的意義  小川原正道
6 釈宗演――その《インド体験》  山口輝臣
7 井上円了――教育に生き教育に死す  髙山秀嗣
8 河口慧海――求法の道の終着点  桐原健真
9 三島海雲――仏教・技術・社会貢献  塩瀬隆之・髙山秀嗣
10 堀至徳――二〇世紀初頭のインド熱  中島岳志
11 高楠順次郎――その思想形成におけるインド・ネパール体験  小川原正道
12 藤井日達――「西天〈インド〉開教」の体験  ランジャナ・ムコパディヤーヤ 

人名索引

2010年03月01日 (月)

今日のお題:19世紀東アジアと「帝国」日本(『京都産業大学世界問題研究所紀要』25号、2010年03月、116?128頁)

講演を文章化したものになります。テープ起こしして戴いたものを拝見したとき、愕然としました。反省してます。

あと、自分だけ縦書きで書いていたことにあとで気付きました。直せば良かったです。

<< 2/5 >>