2012年12月17日 (月)

今日のお題:桐原健真「The West as a Mirror: An Origin of the Ethnocentrism in the Nineteenth Century Japan」“19世紀的東亜与美国:紀念衛三畏誕生200周年”国際学術研討会、2012年12月16日、中華人民共和国・北京市・北京外国語大学

$FILE1_l 北京にお呼ばれして発表を致しました。

桐原健真「The West as a Mirror: An Origin of the Ethnocentrism in the Nineteenth Century Japan」“19世紀的東亜与美国:紀念衛三畏誕生200周年”国際学術研討会、2012年12月16日、中華人民共和国・北京市・北京外国語大学

とりあえず「はじめに」を日本語訳したものを載せておきます。素晴らしく美しい翻訳調の日本語だなぁと感心することしきり。まぁ、原文もこんな感じでカクカクしているのですが。


*1.「帝国日本」の誕生を目撃した最初の西洋人
1854年3月3日、神奈川条約が調印された。この条約の結果、徳川幕府の鎖国政策は終焉を迎える。これ以降、幕府は同様の条約をイギリス・ロシアなどと結ぶのである。

神奈川条約は、次のように始まっている。

The United States of America, and the Empire of Japan, desiring to establish firm, lasting and sincere friendship between the two Nations….(亜墨利加合衆国と帝国日本両国の人民、誠実不朽の親睦を取結ひ…)

21世紀に生きる人間であれば、この一文における表現を奇異に思うものはいないだろう。しかしこれはエポックメイキングな一文であった。なぜならば、これはみずからが帝国(Empire)であることを国内外に対して、日本政府が公式に認めた宣言だからである。この調印式に列席した一人の通訳官、S. W. Williams (1812-1884) は、まさに帝国日本 the Empire of Japan の出生届を目撃した最初の西洋人であった。

神奈川条約には、日本語・英語・オランダ語、そして漢文 the classical Chinese で記された4種類のバージョンが存在する。しかし、我々は漢文版に帝国ないしはEmpireに相当することばを見つけることは出来ない。すなわち、この一文は次のように記されているのである。「ここに、アメリカ合衆国は、人々が互いに親睦を深めることを日本国と協議した(現今亜美理駕合衆国謀与日本国人交相親睦…)」このバージョンが他のものと異なっている理由は、「帝国」という表現が、漢文において正統なことばではなく、日本の蘭学者 Japanese Dutch Scholar によって造られた新しいことばだったからである。このような新語は近代漢語 Modern Chinese Expression と呼ばれている。

ウィリアムズは、文法が違うものの、ともに漢字 Chinese characters を用いる漢文版と日本語版との齟齬を見つけることの出来る唯一の西洋人であった。と、いうのも彼は中国語のみならず日本語も理解出来たからである。言うまでもなく、周知のように彼は日本語を話すことが出来たが、読み書きは十分に出来なかった。しかしながら彼はこの「帝国」という奇妙なことばに気付くことが出来たはずである。なぜなら彼は漢字を理解できたのであるから。

残念ながら、私はウィリアムズがこのことばを発見し、そして何からの言及をしたかどうかについて語ることが出来ない。だが、わたしはこの正統な漢語ではない「帝国」という用語が、神奈川条約以後における数多くの外交文書において当然のように用いられていることを指摘することが出来る。徳川時代後期の政治家や知識人は、この「帝国」という新奇な用語が、たんなる「Empire」という英単語の訳語ではなく、みずからの国の堂々たる称号であると思っていた。この論文の目的は、ウィリアムズが注意を払わなかったこの用語が、日本知識人によっていかに造られ、また認識されたのかを明らかにすることである。本稿は、いわば19世紀日本における「言説」としての「帝国」の研究である。


ちなみに中国語でのタイトルも付けてもらってました。

以西為鏡:十九世紀日本民族中心主義的源頭

だそうです。「為」といわれるとちょっと主体的すぎるわけで、どちらかというと、「図らずも鏡だった」というニュアンスを出すために、

鏡様的西洋:十九世紀日本民族中心主義的源頭

あたりにしていただけると、これ幸い。

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正面はプロジェクタのスクリーンで見えなくなるので、会場の後ろに横断幕を貼るという知恵。考えたなぁ。

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門を入ったところにある電光掲示板に「熱烈歓迎 19世紀的東亜与美国:紀念衛三畏誕生200周年”国際学術研討会」の文字が。いやぁ、熱烈歓迎されちゃったなあと照れたり照れなかったり。当方が参加している以外にも2つほど大きな会議があった模様。

2012年11月28日 (水)

今日のお題:桐原健真「弘道館祭神論争:会沢正志斎の神道思想」(日本思想史学会2012年度大会、松山市・愛媛大学、2012年10月28日)

*はじめに
水戸藩の藩校である弘道館は一八四一年に、当時の藩主である徳川斉昭(一八〇〇?一八六〇)によって創建された。神儒一致を標榜するこの学舎には、孔子とともにタケミカヅチすなわち鹿島神が祀られており、その奉斎意図については、「弘道館記」(一八三八)やその解説書である会沢正志斎の『退食間話』(一八四二)さらには藤田東湖の『弘道館記述義』(一八四七)に見ることができる(ただし実際に勧請されたのは一八五七年)。しかし、これらの祭神の選定作業の道程は必ずしも平坦なものではなかった。というのも斉昭は、天祖や天皇神(以下「天皇神」とのみ記す)の奉斎を強く希望しており、その主張は「弘道館記」の撰述直前まで続いたのである。この事について「弘道館記」の草稿を脱稿した直後の東湖は、みずからの師である会沢に次のような愚痴めいた書簡を書き送っている。
最初御議論申上候節、九五〔斉昭〕の御主意は兎角天祖神武を御祀りの御主意に而、村松又は湊の柏原明神等に御気之れ有り候ゆへ、非礼之段申上、兼々貴説に而承知仕居候通り段々順々に天祖神武帝にも通じ候意味申上、是はとうとう十分に御呑込に罷成候。(藤田東湖「会沢伯民に与へし書」1837(天保8年)9月28日、水戸市教育会編纂『東湖先生之半面』(1909年)国書刊行会復刻、1998年、99頁、原片仮名。)

伊勢の分霊である村松神社(現茨城県東海村鎮座)や桓武天皇と崇道天皇(早良親王)を祀る柏原明神(同ひたちなか市)といった領内鎮座の天皇神を勧請することを斉昭は希望した。そこには皇祖皇宗を祀る自身の権威化によって、徳川将軍を相対化する意図があったことは否めない。しかし、こうした藩主の意見は通らなかったのである。
「弘道館記」の撰述にあたり、会沢や青山延于のほかに佐藤一斎にも意見を徴した際、鹿島神奉斎について斉昭は次のように裁定している。
学校に神を祭るの意、実は天下人民をして天祖の鴻恩を仰がしむるの意なり。されども大名の国にて往々私に天祖を祀るやうになりては、却てよろしからざるゆへ、開国の功臣にて常陸に霊を留めたる神〔鹿島神〕を祀らんと思ふなり。(徳川斉昭「青山延于宛」1834(天保5)年12月18日、『水戸藩史料・4』吉川弘文館、1915年、283頁。)

斉昭は、あたかも鹿島神奉斎が自身の初志であったかのように記しているが、彼が天皇神の奉斎を諦めたのは東湖らの説得の賜物でもあったろう(なお一斎も、天照大神の奉斎に異を唱えていた〈中村安宏「佐藤一斎と後期水戸学:『弘道館記』の成立過程」、『日本思想史学』27号、1995年参照〉)。しかし、会沢・東湖そして延于といった後期水戸学の主立った人々は、天皇神奉斎への反対については一致していたが、これに代わって奉斎すべき神の具体的内容については一致していなかった。こうした中で、終始一貫して鹿島神と孔子を奉斎すべきであると主張していたのが会沢正志斎であった。本発表ではこの祭神論争における会沢の鹿島神奉斎論を通して、東藩水府の学として構成された会沢独自の神道思想について概観することを目的とする。それは、しばしば無前提に明治維新や近代天皇制国家のイデオロギー的源泉とされてしまう後期水戸学を、常陸国という地域的固有性を背景に成立したイデオロギーとして再構成する試みであり、後期水戸学を近世後期という思想空間の中に読み解くことに資するものとなろう。

2012年09月09日 (日)

今日のお題:桐原健真「連続と断絶―服部之総の「親鸞」」、パネルセッション「戦後の日本仏教論―諸学説の再検討―」、日本宗教学会第71回学術大会(伊勢市・皇學館大学)、2012年09月09日

日本宗教学会でパネルセッションをしてきました。戦後歴史学における「農民」像の根深さがちょっと分かってきましたよ。あと、服部之総を誰もやりたがらない理由も。

*パネル戦後の日本仏教論―諸学説の再検討― 代表者: オリオン・クラウタウ

タイトル氏名所属
戦後日本仏教学説の課題オリオン・クラウタウ龍大
連続と断絶―服部之総の「親鸞」―桐原健真東北大
圭室諦成著『葬式仏教』再考ライアン・ワルド明大
戦後日本仏教と民俗学―五来重の場合―碧海寿広宗教情報リサーチセンター
コメンテータ佐藤弘夫東北大
司会オリオン・クラウタウ龍大

2011年10月30日 (日)

今日のお題:桐原健真「護法・護国・夷狄」、日本思想史学会2011年度学術大会パネルセッション「幕末維新期の護法思想・再考」、2011年10月30日,豊島区・学習院大学

$FILE1_l日本思想史学会においてパネルセッションを行います。

*パネルセッション 幕末維新期の護法思想・再考

日本思想史学会2011年度大会
場所 第二会場(学習院大学・西二号館・302教室)
時刻 10:00?12:00
司会 オリオン・クラウタウ(日本学術振興会特別研究員)
コメンテータ 林淳(愛知学院大学)

|*題目|*氏名|*所属|
|真宗僧侶による護法の社会的展開|上野大輔|日本学術振興会特別研究員|
|護法・護国・夷狄|桐原健真|東北大学|
|幕末維新期の真宗思想――護法論から近代仏教へ|岩田真美|龍谷大学|

2011年度大会開催案内
http://wwwsoc.nii.ac.jp/ajih/event/2011taikai.htm

2010年11月20日 (土)

今日のお題:「他者としての「中国」研究――近代日本における学知の形成」

$FILE1_l桐原健真「他者としての「中国」研究――近代日本における学知の形成」、嶺南大学校中国学研究センター・東北大学大学院日本思想史研究室共同開催国際シンポジウム「東アジアの思想と対話:国境・テキスト・礼楽」(2010年11月20日:大韓民国慶山市・嶺南大学校、パネルセッション「日本における中国研究の現況」)

近代日本における中国研究が、いかに近代以前の儒学・漢学と断絶しているのかという近代学知の問題をお話ししましたが、どのくらい共感が得られたかは未知数。時間も無かったしね。

まぁ、数日前まで発表する予定すらなかった割には面白くできたかと。

2010年10月17日 (日)

今日のお題:桐原健真「世界観闘争としての真宗護法論」(日本思想史学会2010年大会・パネルセッション3「近代仏教と真宗の問題」、2010 年10 月17 日、岡山市・岡山大学)

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「近代仏教と真宗の問題」と題するパネルをやりました。パネリストは以下の通り。

桐原健真(東北大学)
 「世界観闘争としての真宗護法論」

碧海寿広(宗教情報リサーチセンター)
 「近代の真宗とキリスト教―近角常観の布教戦略を事例として」

オリオン・クラウタウ(日本学術振興会)
 「真宗とアカデミズム仏教学―東京(帝国)大学を中心に」

コメンテータ: 引野亨輔(福山大学)
 
 
$FILE2_l桐原健真「世界観闘争としての真宗護法論・はじめに」

平田篤胤『出定笑語』の登場は、排仏論の反駁としての護法論を量的にも質的にも大きく変容させた。第一には、それまで「求道」という目的においては融和的であった仏教者の語りが、これらの排仏論に対してはきわめて排他的なものになった点が挙げられる。第二には、その語りがもっぱら浄土真宗の人々によって担われたという事実であり、そして第三点目が、この排他的な語りが、幕末における開国過程の中で再登場したキリスト教に対しても援用されることとなったという点である。否、むしろ幕末護法論は、国学的排仏論とキリスト教という二正面での闘いであったのであり、それは仏教そのものの存在理由を問う世界観闘争とでも言うべき様相を呈していたのである。

感想:「世界観闘争」ということばが引っかかるとは思いませんでした。まぁ、阿弥陀仏がいれば須弥山は要らないというのはわかるのですが、発言者が須弥山世界の必要性を語っている事実をどう解釈するのかという問題ですね。>そういうのを「方便」というのだよ。

2010年10月16日 (土)

今日のお題:第4回日本思想史学会奨励賞(2010年度)受賞

謝辞と展望(桐原健真)

このたびは、貴重な賞を賜り有難うございます。選考委員の皆様をはじめ、ご推薦いただきました松田宏一郎・片岡龍両先生に対し、深く感謝いたします。

拙著『吉田松陰の思想と行動――幕末日本における自他認識の転回』(東北大学出版会、2009年)は、2004年に東北大学へ提出した博士論文を基にしたものであり、所収の諸論文につき丁寧な指導を賜った佐藤弘夫先生には心より御礼申し上げる次第です。そして、当方が日本思想史という道を選択することを勧めてくださった故・西村道一先生にも、この受賞の喜びをお伝えしたいと思います。また本書は、東北大学出版会の2008年度若手研究者出版助成を受けております。ここに謝意を表します。

拙著における松陰は、日本の固有性を主張する思想家として描かれます。しかしその固有性は、決して「万世一系の神聖国体」といった唯一性を誇る自己言及として語られるものではありませんでした。国々には各々の固有性があると主張する彼は、これらの国々が相互にその固有性を承認することを通して、地球規模の世界における普遍性が確立されると考えたのであり、本書はその彼の思想的格闘の軌跡でもあります。

開国過程という大きな歴史的転換期にあって、みずからの国の独自性をまったく消し去った形で通商・外交を行うことは、ほかならずその主体性を失うことである――と、松陰は「四海平等」といった抽象的普遍主義を厳しく指弾しました。自身の固有性ととともに他者のそれをも尊重することは、おそらく現代の国際社会あるいは社会一般においても有効な態度であろうと思っております。

しかし実際の国際社会では、みずからの固有性を主張するだけで、他者のそれを承認しなないような事例も少なくありません。今後は、固有性を主張することの意味を、たとえば自同律そのものを「割拠見」と断じ、「宇内に乗出すには公共の天理を以て彼等が紛乱をも解くと申丈の規模無之候ては相成間敷」と唱えた横井小楠などの可能性をも検討していきたいと考えています。

2010年08月20日 (金)

今日のお題:The Quest for Mahayana: Kawaguchi Ekai and the Buddha's 'Golden Words'

KIRIHARA Kenshin
The Quest for Mahayana: Kawaguchi Ekai and the Buddha's 'Golden Words'
Panel: RETHINKING JAPANESE BUDDHISM: KAWAGUCHI EKAI AND MURAKAMI SENSHŌ
XXth IAHR Quinquennial World Congress, Canada, Toronto, University of Toronto
2010. Aug. 20 (Friday)

…風邪とかで書くのを忘れてました。

2010年06月13日 (日)

今日のお題:桐原健真「幕末維新期尊攘論における国際社会認識の転回――「帝国」言説をめぐって」、韓日文化交流基金/東北亜歴史財団主催「1910年、その以前の100年:韓国と日本の西洋文明受容」(於大韓民国仁川市・パラダイスホテル、2010年6月12日?13日)

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台湾・日本につづき韓国でも「帝国」言説論を開陳してきました。

Negri&HardtEmpire(2000)が『帝国』として東アジア諸国で翻訳されたことがじつに奇妙だ――というあたりから出発。

2001年 韓国 『제국〔帝国〕』(윤수종訳・ソウル:理学社)
2002年 台湾 『帝国』(韋本ほか訳・台北市:商周出版)
2003年 中国 『帝国――全球化的政治秩序』(楊建国ほか訳・南京:江蘇人民出版社)
2003年 日本 『〈帝国〉── グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(水嶋一憲ほか訳・東京:以文社)

めずらしく日本が一番遅いのも面白い話です。

ちなみに、伝統的に漢字文明圏に位置するベトナムにおいても、Empireは「帝国đế quốc」だそうです。

参照:http://www.tapchithoidai.org/200402_THDung.htm

今回のキモは、「やっぱり福沢はすごいな」、ということと「でも、だから受容されないんだな」ということ――なんでしょうか。

とにかく、国学者の「帝国」論をやらないと――と思っているのですが、どこからやったものか。というか、別の文脈で、排仏論の文脈でも国学を検討しないといけないので、キツイです。

(写真:霧にむせぶ仁川港)

2009年10月29日 (木)

今日のお題:「あこがれ」としての病院信仰(日本思想史学会2009年度大会「パネルセッション1 在宅ホスピスの現場における日本思想史研究の可能性:「病院死」を選択する日本人」、2009年09月18日、仙台市・東北大学)

病院死率8割を越える日本。それは、けっして医療技術の発展の賜物ではない。他の先進国における病院死率が軒並み4割を切る事実がそのことを示している。

日本における病院依存の歴史的・文化的背景を探ると、そこには、「病院」を渇望する近世以来の日本知識人における病院信仰が存在していた。王道政治の象徴的施設としての病院言説の成立過程を描く。

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