2015年06月20日 (土)

今日のお題:桐原健真「近世日本における「公論」観念の変容」(名古屋市・愛知学院大学楠元キャンパス、東海日本思想史研究会、2015年06月20日)

実は、東海日本思想史研究会というのが、今年の3月8日にこっそりと始まっていたのです。で、今日がその第二回目で、当方が発表するというお話し。

ちなみに予告要旨は以下の通り。

古典語としての「公論」は、しばしば「天下後世自づから公論有り」のような形で用いられる。ここからは、「公論=公正な議論」は、「天下後世」という広範囲かつ長期的な評価を俟ってはじめて成立するのだという認識が読み取れよう。

しかし、黒船来航以後に活発化する言論や政治的混乱は、「公論」ということばに、「公共空間での議論」という意味を与えていった。こうした「公論」は、やがて「公」を独占する「公儀」と対峙していくこととなる。

尊攘の志士たちは、「尊攘」の「大義」を「衆議」することこそ、「公論」であり、また「正議」であると信じていた。それゆえ、彼らを弾圧する安政の大獄は、この「正議」を否定する「私」であり、その排除は「公」にほかならない――こうした理論武装によって、幕府大老へのテロリズムは実行されたのである。

本発表は、こうした「公論」概念の変容を通して、幕末日本における言論空間の存在形態を検討することを目的とするものである。


「幕末」って言ってるんだから、タイトルの「近世日本」ってのは羊頭狗肉はないのかと思ったりしますが、「変容」がテーマだということでご寛恕賜りたいところでございます。

で、本論ですが、「公儀・公方」から奪った「公」が、結局「皇」に収斂しちゃうんだったら、元の木阿弥じゃないのかというご意見を頂戴し、嗚嗟、確かにそうだなぁと痛感しながらも、もはや「公」の独占が与件ではなくなるというのが、明治というものなんではないのかなぁと思ったり。

で、すっかりと五ヶ条の御誓文を忘れていまして、結局、明治国家も、「公論」というか、「公論する」ことの価値自体は否定しなかったんだよね、というサジェスチョンを頂戴し、オノレの不明を身に染みて感じた次第。

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