2004年10月08日 (金)

今日のお題:水戸学における会沢正志斎の位相――国体論を中心に(明治維新史学会2004年秋季大会、2004年10月8日)

後期水戸学(以下水戸学)における尊攘論を首唱した師弟のラインとして、藤田幽谷―会沢正志斎―藤田東湖があることは周知の事実である。しかし、これら三者についての研究には少なからぬ偏りがあった。それをひとことでまとめてしまえば、「戦前の東湖・戦後の会沢」ということになろう。
戦前における会沢評価は、意外なほどに低い。たとえば幽谷・東湖には全集が存在していたのに対し、会沢に全集が編まれなかったという事実は、戦前における会沢評価の一半を示している。もとよりそれは会沢の著作の多さに起因することも否定できないが、やはり、晩年の彼が尊攘激派ではなく、鎮派を支持したという事情が、明治以後の会沢の評価を低からしめていたのであろう。

戦前におけるこのような会沢評価に対し、戦後は皇国史観や国体論への批判とともに、水戸学における国体論の理論的思想家(イデオローグ)として会沢がクローズアップされることとなり、

だが、近代国体論の持つこのような理論的脆弱性は、その誕生のときから運命づけられていたのではない。会沢正志斎にとって、国体の尊厳性は、万世一系にではなく、儒学経典という客観的規準にもとづいた「東方君子国」説に根拠するものにほかならなかった。本稿は、会沢における国体論の理論的基盤を明らかにし、ついで幕末において、その国体論がいかに変容したかを論ずることを目的とするものであり、このことは同時に、近世国体論が天皇制国家のイデオロギーとしての近代国体論に転化した際に起きた思想的転回の考察に資するものとなろう。

1/1