2008年08月01日 (金)

今日のお題:「帝国」の誕生:19世紀日本における国際社会認識(黄自進編『東亜世界中的日本政治社会特徴』台北・中央研究院人文社会科学研究中心亜太区域研究専題中心)、2008年、139?164頁

   はじめに(脚注省略)

1945年の第二次世界大戦の終結にともない、「帝国」を自称する国家が次々と消滅していったのちも、「帝国」という言葉は、分析概念(あるいは政治的標語)としての「帝国主義」の語とともに人口に膾炙されたが、1990年代におけるマルキシズム思潮の後退は、この意味における用法をもなかば死語化させることとなり、それ以降は、国際政治における強権性を表現する比喩として用いられるに過ぎなくなった。しかし、A・ネグリAntonio NegriおよびM・ハートMichael Hardt両氏の共著になるEmpire(2000年)が世に問われ、東アジア諸国で『帝国』と翻訳されたことによって、この語は再び国際秩序を叙述する術語として用いられるようになった。

ネグリ氏らが「帝国Empire」と呼んだのは、アメリカ合衆国のような本来主権国家でありながら、同時にその枠組みを逸脱した新しい国家主権のありようであった。グローバリゼーションの進展にともなって現れたこの「帝国」は、本来有していたみずからの領域(国境)を越え、他の領域(主権国家)を周縁化していく存在であり、それは、その権力がみずからの領域内において、均質的に、そして排他的に存在していた近代主権国家とは本質的に異なっている。

しかしながら、「帝国」ということばが、東アジアにおいて広く受容されたとき、それは、ほかの政治主体を周縁化する存在としてではなく、むしろ或る限られた領域を有する近代的な独立主権国家の謂で用いられたのであり、その第一条に「大韓国は、世界万国に公認された自主独立の帝国である」と規定された「大韓国国制」(1899年)は、まさに「帝国」がいかなる意味で受容されたかを示すものと言えるであろう。すなわち「帝国」は、冊封された国王の治める「王国」とは異なり、主権者たる元首としての皇帝が治める独立不羈の一国家として認識されていたのである。
また中国史上、唯一「帝国」の名を冠する国号を持った国家が、袁世凱が中華民国に代えて建国宣言した中華帝国(1915年・3ヶ月で廃絶)であったことは、象徴的であった。すなわち主権者の所在を明示することばとしての「民国」の対語をなす「帝国」は、「民国」同様、近代的国家概念の範疇におけることばであり、この点で袁の中華帝国は、周縁性を有したかつての王朝国家とは断絶しているのである。

このようなすぐれて近代的な意味を有する「帝国」ということばの用例を、中国古典に求めることはできない。なぜならば、そもそもこのことばが、keizerrijk(皇帝の国)というオランダ語を翻訳した徳川時代後期の蘭学者が造ったものであり、いわゆる近代漢語の一種だからである。このことは、1866(慶応2)年刊の堀達之助編『改正増補・英和対訳袖珍辞書』に、「Empire」を「帝国」と記しているのに対し、中国で出版されたW・ロプシャイトWilliam Lobscheidの『英華字典』(1866?1869年)には、「Empire」を「国、皇之国、中国、中華、天下」などと記すだけで、「帝国」の語が見えないことからも容易に知ることができる。

ことばはたんなる文字や音声ではない。或る対象を、「それ」として認識するための意識を形作る根本的な観念なのであって、ことばのないところに認識はない。「帝国keizerrijk」もまた同様であり、18世紀末日本蘭学者が、このことばを生み出したことにより、それ以降の日本知識人は、この「帝国」なる新語をもって世界を分節し、また自己をそのうちに位置づけていくことが出来たのである。以下本稿は、「帝国」をめぐる言説の受容を通して当時の日本人における世界認識の転回を明らかにするものである。

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