2003年01月01日 (水)

今日のお題:吉田松陰における対外観 ――「万国公法」以前の国際秩序認識(日本文芸研究会『文芸研究』152号2001年)

本稿は、自然法(「性法」natural law)の思想に基づく「万国公法」受容以前の幕末日本における対外観の転回を、安政期の吉田松陰を中心として考察することを目的としたものである。

松陰の強烈な尊攘主義の言動は、しばしば自民族中心主義の典型と指摘されてきた。しかし松陰は、日本が世界の一部であることを自覚し、諸国家が各々自足しつつ、かつ同時に相互に関連し合う存在であることを認識していた。そしてそれは西洋列強に対していかに対等な国家間関係を確保するか、という現実的な問いとして現れた。松陰がこの問いにどのように答えようとしたかを、本稿は、松陰の著書『外蕃通略』を初めとした松陰の外交文書に関する著述を通して検討し、そこに「敵国」・「敵体」という儒学的概念の「読み替え」があったことを指摘した。

「敵国」とはhostile countryの謂ではなく、匹敵を意味する「敵体」の礼をもって交わる国のことである。独立国としての「帝国」とこれに従属する「王国」との二種類に国家を弁別した松陰は、独立国である帝国日本が、同様に独立国である西洋列強に対して「敵体」であるべきことを主張した。

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(1)帝国…日本と対等な国家・「敵国」
(2)王国…帝国の従属国および植民地
(3)争地・交地…無主の地・辺境

そして人臣たる征夷大将軍によって国内外の政治が執行されている現状を批判して、天皇を真に内外通じて「元首」とする国家体制論を展開したのである。佐久間象山や横井小楠も同様に国家間の対等を説いたが、幕府を「朝廷」や「廟堂」と呼び、あくまで外交主体として考えていたように、国家体制それ自体の変革を企図してはいなかった点で松陰と異なっていた。

松陰は西洋列強の東漸という世界史的状況に臨んで、自ら有する既存の思想体系の中にあった「敵体」という儒学的概念を〈諸〉帝国間の「敵体」という観念で読み替えることで、これを理解したのであり、それは「国際社会」への強制編入に対する一つの抵抗思想を生み、また同時に天皇を元首とした日本の新しい国家像を形成する出発点となったのである。

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