2015年01月29日 (木)

今日のお題:桐原健真「「公論」はどこへ行ったか?:幕末日本における言論空間の所在」、『環』60号、2015年、218〜224頁

『環』60号
『環』60号、藤原書店
幕末維新における「公」の位相を論じてみました。

本来「公」が有していた超越性が失われることによって、近世後期には言論空間の拡大がもたらされました。しかし一方で、それは「公論」の暴走をも導いたのであり、その過激な表現の一つが、桜田門外ノ変であったわけです。

大老暗殺という前代未聞の政治的暴力を敢行した浪士たちは、次のように、自分たちの行為を自己正当化しております。

大老井伊掃部頭(かもんのかみ)所業を洞察致し候に、将軍家御幼少の御砌(おんみぎり)に乗じ、自己の権威を振はん為公論正議を忌み憚り候て、天朝・公辺の御為筋を深く存じ込み候御方々、御親藩を始め、公卿衆・大小名・御旗本に限らず讒誣(ざんぶ)致し、或は退隠、或は禁錮等仰せ付られ候様取り計らい候

ここには井伊大老の罪状がこれでもかとばかりに列挙されております。

そして、これらの罪は、すべて自分自身の権力を維持するために、尊攘志士たちによる「公論・正議」を忌み嫌ったところに起因しているのだと、斬奸状はその正当性を主張するわけです。

梅田雲浜や吉田松陰をはじめとする多くの犠牲者を出した安政の大獄が、志士たちにとっては許し難い暴挙であったことは確かです。

彼らは、「尊攘」の「大義」を「衆議」することは、「公論」であり、また「正議」であると信じておりました。だからこそ、この「正議」を否定する井伊は、自己の権力欲に駆られた「私」であり、その排除は「公」にほかならない――というわけあります。

こういうのを「理論武装」と申しますが、結局は「公論」の暴走とでも言うべき事態であったと申せましょう。

この原稿では、「公」を独占する「公儀」から、「公論」の意味変容を通して、これを奪取し、ついに暴走に至る過程、そしてときに暴走することもあった「公」が、結局は新しい「公権力」としての「皇」に回収されていきながらも、他方で自由民権運動のような草の根的運動に引き継がれていったことを指摘しております。

ちょっと民権運動に夢を見過ぎな気もしますが、公論言説の文脈としては間違ってはいないかと。


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