山下淳子先生

1999年11月24日

M1 馬場今日子

Language Transfer by Terence Odlinについて

 

<本の概要と所感>

この本は言語の転移(transfer)全般について書かれているが,構成が分かり易く,良くまとまっていて,理解しやすい.最初に転移の重要性を述べ,その歴史的経緯,問題点に触れた後,discourse, semantics, syntax, phonetics and phonologyなどにおける転移について順に述べ,その他の系統立てられない要因(例えば個人差,年齢,認知,社会的背景など)による転移を説明し,最後にまとめと今後の課題がある.

この本を読むと,転移は言語習得の根本にある,広大な問題だということが感じられる.この本は10年前に書かれたので,読んでいて,現在はもう少し研究が進んでいるだろうと思われる個所があるが,転移の基礎(どんな分野があり,どんな研究がされたか)を知るには大変役立った.

また,私がこの本についてすごいと感じたことは,作者の主張に一本筋が通っていて,言語や言語習得に関する作者の哲学のようなものが,随所に見られるところである.一例を挙げれば,Odlinは,[特定の民族グループに対する偏見の無い]理想的な社会では丁寧で,明瞭,良く考えられた言語使用は話し手のアクセントによらず,同じ敬意を払われるのだ,と語っている(p159)

 

<要約と考察>

このレポートでは,私が興味を持った2点について要約,考察したい.2点とはすなわち(1)discourseの特にcoherenceについて,(2)propositional semanticsについて,である.

 

  1. discourse, coherence
  2. 談話において異なる言語間で起こる誤解は,それらの言葉が使われる丁寧さの度合いによる場合もあるが,理路整然性(coherence)によることもある.つまり,言語間の違いによって,ネイティブはノンネイティブの発話や文章を理路整然でないと感じるのである.

    理路整然性は当然の事ながら論理性や適合性と不可分である.それらが無いと理路整然性が成り立たないからである.これは各命題間に論理的なつながりが十分ない時や,話題と他の情報のつながりが希薄な時,しかも話題と関係のない情報があまりに多い時に起こりやすい.

    しかしながら,論理性や適合性と関係なく理路整然性の問題が起こることもある.例えばある話題についての予備知識が乏しい場合,あるいはある文化についての知識が乏しい場合,また,ある情報の表現の仕方(レトリック)になじみない場合もやはり同じ問題が起こる.

    下線をひいた点に関して,Odlinは異なるレトリックが学習者の理解や記憶に与える異なる影響の他に,文化によってライティングの価値判断も異なってくるとし,Kaplan(1966)の文化間のレトリックの違いを示している(英語は直線的に,ロシア語ではジグザグに,東洋の言語では渦巻形に物事を表現するなど).そこで,例えば韓国語では珍しくない急な話題の転換や,日本語の起承転結の承から転の部分を英語母語話者に読ませると,それらは理路整然性がないと判断されてしまうのである.

    最後にOdlinは以下の5点についてのような情報の必要性を指摘している.1)談話において各言語で普遍なもの(discourse universals),2)異なる言語におけるスタイルの違い,3)書き言葉のコミュニケーションのためのレトリックの教授,4)話し言葉のコミュニケーションのためのレトリックの教授,5)英語やその他の西欧の言語がアジア,アフリカなどの話し言葉,書き言葉の談話に与える影響.

     

    私はOdlinが最後に挙げている5つの点のうち,特に5番目の点についてとても興味を持った.例えば,英語のレトリックの,日本語への影響である.日本語でも論文を書く際は,英語のレトリックのように要点を先に書くよう指導されてきたが,かといって,各種論文の書き方についての本を見ても,英語におけるパラグラフライティングを日本語でも実行せよとは書かれていなかった.そもそも日本語の文章の書き方は,起承転結以外に決まった型はないように思う.また日本語ではよく言われるように,効率的に意味を伝達する文章の書き方はあまり意識されてこなかった.ところが最近の情報化で外国の人とコミュニケーションしたり,外国の人の書いた文章に触れる機会が増し,意味伝達の効率性が意識されるに従い,日本語の文章も益々変化してきているような気がしてならない.上に指摘されているライティングの価値判断についていえば,論文以外の日本語の文章でも英語型のレトリックをよしとするようになりつつあるのかもしれない.

    また,この後のsemanticsの章でも指摘されているが(p72),教育の形態も重要な問題であろう.つまり,欧米では幼い頃から文章の型を学び,プロセスライティングなどの徹底的な教育を受けるのにたいし,日本では文章の型についてはあまり習わず,文章を書くことを技術ではなく,才能と捉えがちである.このため,LiteracyのところでOdlinは母語での読み書き能力が高いと,L2ライティングで有利であると述べているが(p135),日本語の母語話者についてはこれはあまり当てはまらないのではないかと思った.日本語でも文章を書くための徹底した訓練が必用なのではないだろうか.

     

  3. propositional semantics

談話は通常文から成っているので,談話分析は命題意味論や語彙意味論に関係している.ここでは命題意味論を取り上げる.

意味の転移を研究する上で根本的な問題は,言語と思考の関係である.第二言語を使いながら,母語で考えるということはよくあるが,母語の意味構造が第二言語の運用にどのように影響するかはまだ分かっていない.しかし構造の違いが思考の違いを反映していることを示す研究はいくつかあるので,何らかの関係があることは間違いない.

各言語における思考パターンには違いがあるが,認知に普遍的なものもある.つまり人間の推論のプロセスはかなり似通っているのである.

それにもかかわらず文化間の認知の相違は存在する.一つの重要な原因としては教育の形態が挙げられる.また,それは言語における相違を反映しているとする研究者もいる.Whorf(1956)は,言語は考えを表に出す道具であるだけでなく,それ自体が考えを形作る者,プログラムであり,個人の精神活動を導くものなのだと述べている.

いわゆる強い相対主義者の立場は言語が認知プロセスを決定するのだとするが,これは疑わしい.しかし,弱い相対主義者の立場が言語が認知に絶対ではなくとも重要な影響を与えるとするのは肯ける.ある場合は文化的伝統がある種の思考を促進したり,阻害したりするのかもしれないが,それらの文化的パターンも特定の言語の構造的特徴(例えば中国語に仮定法がないように)によって強められているとも考えられる.

また中国人学習者が英語の仮定法を学ぶのに苦労するとすれば,それは英語のシステム自体の複雑さもあるが,英語と中国語の違いにも関係しているだろう.

 

この章を読んで私が考えたことは,第二言語で文章を書く時にどのような認知システムが働くのだろうかということである.これについて,様々な疑問が浮かんでくるので、以下に挙げてみたい.

     私は、L1からL2へのレトリックの転移という大きな現象を説明するには、まずこれらの問題が解決されなければならないのではないかと思う.