馬場今日子
山下淳子先生
「必読文献」
1999年9月20日
「第二言語習得研究に基づく最新の英語教育」について
・第16章
「ライティング」要約
最近の英語学習指導は,平成元年の学習指導要領にも見られる通り,コミュニケーション重視の傾向がある.ライティングの指導の分野においても,自由に書かせる試みや,グループで時間をかけて作品を完成させる試みなどコミュニケーションを念頭に置いた指導法が重視されつつある.この章では最近のライティング研究から示唆されることをまとめ,それをいかに指導に活かすかを検討する.
学習者の情意を扱った研究では,訂正は学習者のやる気をなくさせるので,情意面ではマイナスの効果を与えているかもしれないとされている.また文法的な訂正など表面的な訂正では,教師が誤りを全て訂正しても,記号で誤りを示し,学習者が後でその誤りを直しても,学習者の中で文法的な正確さはあまり変わらない.また,全体的な作文力や正確に書く力もあまり変わらない.また,表面的な誤りも内容的な誤りも両方訂正すると学習者が混乱するので,内容的な誤りに絞った方がいいという報告もある.またその訂正の仕方も,なるべく具体的にするとよい.
アメリカの母語のライティング・プロセスで指摘されていることはESL学習者にも当てはまる.すなわち,作文の過程は伝えようとする意味の発見の過程であり,優れた書き手と下手な書き手では書く課程が異なる.例えば優れた書き手はいったん書いてもまた書き直すが,下手な書き手はいったん書いたものを最終稿と考えてしまう.つまり,書く課程の指導がESL学習者にも重要である.
英作文ではなるべく英語で考えたほうがいいのだが,学習者の母語を利用した方がいい場合もある.特に初級の学習者の場合,最初は母語で書かせ,それを英語に直させた方が,より内容的に高度な作文が出来,ライティング力を高めることができた.しかし,上級者には逆に最初に母語で書かせると難解な文章を書こうとするので,障害になったという報告もある.
[Raimes(1983:7-11)]
によるライティング指導法
この章の構成と同様,ライティング研究に付いて,そしてそれを活かした指導法について考えたことを順に述べたい.
「ライティング研究について」
まず誤りの指導についてだが,教師が学習者の誤りを全て訂正しても,誤りを示唆して,学習者が自分で訂正しても,作文力に有意な差は見られなかったとする主張は正しいと思うが,私は自分の経験から,後者のほうがより学習効果が高いと思う.なぜなら学習者は教師に示唆された点に付いて間違えた原因を自分で考えるので,より記憶に残りやすいと思われるからである.ただし誤りを示唆されるだけだと,誤りがたくさんあった場合に,学習者の訂正しようという意欲が損なわれ,結局正しい答えを確かめないままに終わってしまうことも考えられる.教師によって訂正されていれば,それをすぐ確認できるので,全ての誤りにたいして正しい答えを知ることができる.
また,この研究で疑問に思うのは,全てのレヴェルの学習者について同じ結果が得られるのかということだ.中級以上の学習者なら教師によって誤りを示唆されるだけでも,自分で誤りを発見しやすいと思うが,初級の学習者だったら未知のことが多すぎて,誤りの発見が困難ではないだろうか.また,誤りを示唆されて,それがもし学習者の知らないことだった場合,新たな学習はされないが,もし教師が誤りを訂正していれば,それをヒントにして,自分で学習することもできると思う.
次に「書く過程」についてだが,私は全くこの主張は正しいと思う.これは英作文に付いてのみ言えることではなく,日本語作文にも全く当てはまる.日本の教育では(少なくとも私が受けて来た教育では),日本語作文の指導においても「書く過程」に焦点が置かれておらず,書かせっぱなしということが多い.だからそれが英語になっても作文を書く過程が分からない学習者が多いと思う.そして「書くこと」を才能だと考え,それは方法や努力によって上達できるとは考えられていない.「書く過程」を学習者に教えれば,作文が得意になり,楽しくなるということもあるかもしれない.
この章に挙げられている研究以外では,私は異なる母語を持つ学習者が書く作文において,母語がどのように反映されるかということにも興味がある.これは文法的なもの,構造的なもの,内容的なものといろいろ考えられると思う.文法的なことでは,例えば私が接した例では,スペイン語を母語に持つ学習者は,文と文をピリオドで区切る代わりに,それらをカンマでつなげてしまっていた.これはスペイン語では許されていることなので,それが転移しているらしい.また,個人差があるが,大体においてラテン系の人の作文は上級者のものでも文法的な規則に寛容だが,日本人や台湾人などのアジア系の学習者は文法の誤りにこだわっていた.
構造的なものについては,英語の文の構造を学習した人とそうでない人の間でははっきりした差が見られると思う.母語がなんであれ,学習すれば適切な英文の構造を書けるようになるということだろう.例えば,日本では英文の構造について教えられる機会が少ないせいか,パラグラフにトピックセンテンスがない,具体例を挙げるなどして説明するということが少ない,話題が一貫しておらず,主題がはっきりしない,というような特徴を私は目にした.しかし,一度でも英文の構造について指導を受けた日本人は,基本的な英文の構造がきちんと書けていた.しかしながら,母語による影響はもちろんあると思う.日本人が指導されなければ英文の構造を正しく書けないのは,日本語が英語と異なる構造を持っているからだ.フランス語を母語とする人は,フランス語が英語と似た構造を持っているから,指導されなくとも正しい構造が書けるらしい.しかし,母語がなんであれ,アカデミックな英文エッセーの書き方は指導を受ける必要があると思われる.
内容的なものについては,私が見た中では,タイ人,台湾人などアジア系の学生の作文は,感情的な文が多く,具体例に乏しかった.日本人の場合も,感情的ではないかもしれないが,抽象論に陥りやすいようだった.ラテン系の人の作文では,話しがどんどん展開していって,収拾が付かなくなっていることがあった.また,語の使い方もよく母語の影響を受けると思う.日本人だと,「おそらく」という言い回しがよくされるので,perhaps, probablyなどを多用する.イタリア人の作文では,形容詞や副詞などの修飾語が多く見られるなど.もっともこれは作文においてだけでなく,話し言葉にも同じような傾向が見られると思った.
また私は様々な疑問を持った.母語の影響のせいかどうか分からないが,どんな母語を持つ学習者の作文でも,ネイティブの文章に比べて,何となく不自然な感じがするのはなぜだろうか.それは何が原因なのだろうか.私の感じでは,語句の使い方はもとより,文と文の並べ方などが関わっているような気がする.その原因は,目標言語の習得途中にあるからなのか,それとも母語の影響のせいなのか.英語を母語としない学習者はどのくらいのレヴェルまで上手に英語を書けるようになるのだろうか.それはうまく指導をすれば,上達するのだろうか,などである.
「指導法への応用について」
ここでは,文法をマスターする作文ではなく,自由作文を書く指導をについて,考えを述べたい.この章の作者は,Raimes(1983:7-11)で挙げられた6つのアプローチの中から,The Free Writing Approach,The Grammar-Syntax-Organization Approach, The communicative Approach,The Process Approachにしたがった指導例を挙げている. これらの例は,中学生,高校生向きなので,私は大学生以上のライティング指導について考える.
作文指導で重要なのは,まず第一に書くに値する内容があって,それを伝えたいという熱意を持つことだと思う.作文の練習をしている,という意識を持つのではなく,学習者が知りたいと思う事柄を探させ,それを人に伝えることを目的として書ないと,文章を使ったコミュニケーションの意味が分からないのではないだろうか.
次に大事なのは,作文をする前に,英語の文章と日本語の文章の違いをなるべく詳しく説明し,それを身に付けさせることだと思う.例えば,英語のパラグラフの作り方,それにそった文の並べ方,Introduction,Conclusionの役割の説明,などである.できれば,日本人が陥りやすいパターンについて説明し,注意を促せたらいいと思う.
最後に,この章で再三繰り返されていることだが,「書く過程」の訓練は大変重要だと思う.このアプローチは全ての作文の基礎になるから,書く内容を考え,日本語でよく書かれるような曖昧な文章にならないように,具体的ではっきりした内容になるまで話し合いをし,英語の文章構造を習得させ,書いたものを3,4人のグループで話し合わせ,他の人々に見てもらうことに抵抗感を無くす,というように,他のアプローチを統合するような形で行ってもよいと思う.この例として,私が体験した経験では,一つのテーマについて全員が書き,それをもとにディベートをする,というのが緊張感があり,よい勉強になったと思っている.