ピーター・
B・ハーイ先生1999年11月16日
M1
馬場今日子
小津安二郎監督の「風の中の雌鶏」について
---対極的分析
この映画では,戦後の激変し,また変化しつづける時代の中で,その時代の流れにのる者,のらない者が対極にある.時代の流れにのる,というのは時代に合った価値観を持つことである.つまりこの時代は敗戦後なので,過去を悔やんでいるのではなく,未来に向けて頑張っていこう,という風潮にのれるか否かが基本的な鍵だろうし,深読みすれば西洋の考え方,例えば民主主義や個人主義を受け入れられるかどうかということになろう.ただし,この区別はこの映画では相対的に描かれ,決して白黒はっきりしていない.そこには,勧善懲悪ではなく,弱い人間たちが苦しみつつ,何とか荒々しい時代を生きている様を優しく見詰める監督の視線がある.このエッセーではまず映画の重要な要素である時間について考察し,次にそこにおける主要人物たちを分析し,最後にその分析によってこの映画の中心的主題である時子と修一のドラマの意味を考えたい.
まずこの映画の根本にある時間の変化は,いたるところで強調されている.これは第一には登場人物によって明示的に語られ,第二にはものによって暗示的に語られる.第一の例は物価である.時子は物価の上昇のため生活が苦しく,着物を売らなければならないと言っているし,時子たちの階下に住むおばさんに塩を取ってきてあげるシーンでは,以前ならもっと安く買えたのにと嘆いている.この物価は激しい変化を象徴していると考えられる.第二の例はたくさんあるが,徐々に出来ていくタンク,時を刻む古時計などが挙げられる.また,しばしば出てくる道,特に最初と最後に出てくるそれは過去から未来への連続を暗示しているようだし,修一が娼家へ行く時と帰る時に出てくる土管は,まるで過去から現在への移動を暗示しているようでもある.登場人物たちはこのように変化する時間を生きているのだという認識は重要であろう.
では登場人物たちはそれぞれこの時間にどのように反応しているのだろうか.対極的分析でいう「時代にのる者」に一番近そうなのは,時子の友人の房子である.彼女をこのように分類するのには3つ理由がある.第一に彼女は未来にたいして前向きな姿勢を見せていること.これは時子と房子が土手で語り合うシーンで,彼女が時子に「夢を持つのよ」と励ましていることから推察される.第二の理由は彼女がしっかりした善悪の判断を持っていること.このことは彼女が売春行為をした時子を叱りに来る場面に示される.時子が夫のことを考え善悪の判断が鈍るのにたいし,房子は最初から最後までその判断が揺らいでいない.つまりもしかすると彼女は西欧的な,神を前提とする絶対的な倫理観を持っているのだとも考えられる.第三の理由は,彼女の自己責任が徹底していること.これは彼女が時子に,売春行為のことを旦那さんに言うんじゃないわよ,と注意しに来るシーンで明らかになる.時子が今まで夫との間に隠し事をしたことが無いといって,その事を夫に告白してしまったのにたいし,房子は「旦那様苦しむだけ」「言っていいことと悪いことがある」などと時子を非難する.彼女は過去の罪を告白してしまうことでそれを償うことは出来ないと言っているのである.その罪を告白し,夫も苦しめるのは,自己責任の放棄だからである.彼女のこの態度は,やはり西欧的な,個人主義を背景とした責任の概念を思わせる.つまり房子は前向きに時代を生き,かつアメリカによってもたらされた西欧的な感覚を持っていると考えられるので,「時代にのる者」に分類される.
次に時子は半分だけ時代の流れに乗っている.房子に叱咤激励される前は希望を失い,未来を見ていないし,房子に売春行為を責められるシーンでも「もうだめね」と後ろ向きな発言をしているが,現実から目をそらすことはなく,したがって沈みそうになりながらも現在の時の流れには乗っている.つまり彼女は修一の帰還まで苦しい現実に一人で立ち向かい,何とかそれに対処しなければならなかったので,未来を切り開くことはなくとも,変化していく現在の中にはいるのである.しかし,ここで注意するべきことは,彼女の価値観は全く変化していないということである.彼女は房子のように西欧的な価値観を持たない,自立しない女性である.彼女の思考の中心には夫と子供があり,彼らに依存している.例えば子供が病気になった時,子供に向かって「お母ちゃんをおいてっちゃいやよ」とすがるし,いくら寝ているとはいえその子に「お金がない,どうしよう」と話しかけるのは,あんまりだという気がする.また,家具を売らないのも夫のためだし,子供を大事にするのも,子供を通して夫の影を追い求めていると解釈できる.つまり時子は現在の時間の中にいるが,未来に対する姿勢も,新しい価値観も持たないので,完全には時代にのりきれないのである.
それでは,修一はどうかというと,彼はほとんど時代にのれない者である.彼は戦地から帰還したばかりで,現在の時代をほとんど知らない.つまり彼は未だ過去にいたのである.だから彼は時子の苦しい現実を理解できない.彼については新しい価値観を持つなどもってのほかである.しかし上に書いた土管で象徴されるように,彼は娼家へ行くことで過去から現在へと移動する.それは彼にとっては辛いことであった.その辛さは,佐竹に悩みを話しているシーンで,彼がジャズを「悲しい」と表現していることからもうかがえる.つまり彼は変化してしまった現在を嘆いているのである.
以上のことを念頭に置くと,時子と修一のドラマを現在と過去の対立と捉えることが出来るだろう.修一は時子の売春行為に苛立つのだが,果たしてそれは妻の姦淫に我慢がならなかっただけであろうか.その解釈では「時間」が活きてこない.そうではなく,修一は過去に立っている自分にたいして,妻が現在に立っていたからあんなにも苛立っていたのではないだろうか.時子の,「(夫との間には)一つも隠し事をしなかったのよ」というセリフから,この夫婦は一心同体であったことが分かる.そうだったからこそ余計その時間のギャップは我慢がならなかったのだろう.しかも修一の叱責にたいし,時子は言い訳もせず,ただ黙って耐えるのみである.この態度にはどんなことをしてももう時子は過去には戻らないことを修一に強く意識させ,ますます修一を苛立たせたに違いない.そして言うまでもなく,そのギャップを埋めるには,あの階段での暴力が必要だった.その暴力にも変わらぬ辛抱強い態度をとる時子を見て,とうとう修一は現在を受け入れざるを得ないと認めるのである.
だが良く考えてみると,時子も修一も現在を受け入れただけで,彼ら自身は何も変わっていない.最後の修一のセリフで,彼らは子供のためにも,一緒にこれからの苦難に耐えていこう,というようなことを誓うが,彼らの周囲の状況が変化するだけで,基本的に彼ら自身の価値観などは何も変わらないのではないか.おそらく修一はジャズを楽しく聞くことはないだろうし,時子が自立した女性になることもないだろう.この映画のラストに道が出てくるが,私には,とにかく時間は進んでいくし,どんな形にせよそれを生きていかなければならないのだ,という暗示に思えてならない.