馬場今日子

ピーター・B・ハーイ先生

19991130

 

黒澤明監督・「野良犬」について---対極的分析

 

[あらすじ]

この映画の主人公は村上という若い殺人課の刑事である.彼は射撃演習の帰りのバスで,自分の拳銃コルドーをすられてしまう.ドラマはこのコルドーをめぐって展開する「マガフィン」である.村上のコルドーを入手した遊佐という犯人は,お金のために次々に罪のない人々を殺害していく.村上は佐藤という年配の刑事と共に犯人を追っていく.

 

[対極的分析]

私はこの映画を「悪環境に勝つ」,「悪環境に負ける」という2極対立で考えていこうと思う.もちろんこの映画は刑事ものなので,善悪の対立は当然考えられるが,例えば村上の拳銃のすりに関わっていたらしいお銀という泥棒はコミカルに,かつかなり好意的に描かれていたりするので,刑事側を善,犯罪者側を悪とするような単純な対立は避けなければならないだろう.ただし「悪環境に勝つ」は善の側に,「悪環境に負ける」は悪の側にある程度位置づけられている.また,なぜ「悪環境」がキーワードになるのかといえば,これがこの映画の中心テーマだとも言えるからである.すなわち,この映画は「悪環境は人を駄目にするか」という問題をめぐるドラマとも考えられる.このエッセーではまずこの映画における「悪環境」とはどのようなものかについて述べ,次に「悪環境に勝つ」と「悪環境に負ける」を分析し,この分析に沿ってクライマックスを解釈してみたい.

「悪環境」と一まとめにしたが,これは状態的な悪環境と突発的悪環境からなっていると考えられる.状態的悪環境の例の一つは貧困である.この映画ではことさらそれが強調されている.村上が映画の最初の方でぼろぼろになってコルドーを探すシーンでは,戦後の復興のやたらに明るい喧燥の中,貧しい人々が群れている.貧しい人々の服は汚れ,まともに眠る場所もない.また,村上と佐藤が遊佐の実家に捜査に行ったシーンでは,ひどく狭い汚い家に多くの家族が暮らしている.佐藤によればそれは「人間の住まいじゃないねあれは」ということになる.また突発的悪環境の例では,例えば村上と遊佐に共通している,「戦地からの引き上げの際にリュックを盗まれる」というのがある.これらの悪環境にどのように対応するかが分析のポイントである.

「悪環境に勝つ」とは,悪い環境にもめげず,まっとうな道,つまり正義の道を歩むということで,村上はこれに分類される.村上はストーリーのなかで2度そのような環境に試されている.戦地からの引き上げの際のリュックのひったくりと,コルドーのすりである.前者については村上が並木春美の家に行き,春美が「みんな世の中が悪い」と言って遊佐をかばおうとする時に村上のはくセリフで明らかになる.すなわち,「世の中も悪いかもしれないが,何もかも世の中のせいにするのはもっと悪い.」と.そして同じ経験によって遊佐とは全く正反対の道に進んだ村上にたいし,佐藤は「君のは本物だよ」と村上を認める.また後者については,自分のコルドーによる犯罪にしょげかえって辞表を出そうとする村上は上司に「不運は人を押しつぶすか押し上げるかだ.この不運は君のチャンスだ」と言われ,一発奮起してその捜査に全力を傾けることになる.つまり村上は「悪環境に勝つ者」なのである.

それにたいし,「悪環境に負ける」とは自分の置かれた悪い環境にずるずると引きずられ,横道にそれていってしまうことで,遊佐はこの典型である.第一に彼は戦地からの引き上げの際リュックを取られたことから悪の道に入ってしまった.また第二に彼の置かれた「貧困」という悪環境と闘おうとせず,殺人強盗という一時的な解決に逃げてしまうのである.このドラマの中で遊佐は,お銀などのこそ泥と比べても存在感が薄く,実際にはラストのあたりにしか登場しないし,佐藤の「君が考えてるよりああいう男は沢山いるんだ」「遊佐のことなんか自然に忘れるよ」などのセリフによって完全に否定されている.つまり遊佐は同情の余地のない悪なのである.

以上の分析にそってクライマックスを分析してみると,クライマックスの意味がおぼろげながら見えてくる.村上が遊佐を逮捕しようとして追って行くシーンで,遊佐が村上を撃つ時に近くの家から練習曲のようなピアノが聞こえたり,彼らが花畑の中を走っていく時に赤ん坊の泣き声が聞こえたり,2人ともぐったりと倒れた時に子供の歌声が聞こえてきたりする.これらは村上と遊佐を,そして世間の善悪を分けて来た悪環境が存在する前の無垢な状態を暗示しているかのようである.そして遊佐は周りの美しい花や空を見,悪環境に流された自分を自覚し,赤ん坊のように号泣したのではないだろうか.ちなみにお銀が村上にコルドーのヒントを教えた時にも空を見上げてその美しさに感嘆している.