馬場今日子

20011

山下淳子先生

 

『言語教育における理性主義と経験主義』について

 

 

[本の概要]

言語教授法(外国語教授法)を理性主義と経験主義に分類し、それぞれについて説明した後、理性主義的な教授法を支持し、それをどのように実際に行うかを述べている。また、どのような教授法が学習者にとって望ましいかということについて、神経言語学の観点から説明を加えている。最後に訳者の佐々木氏からディラー氏への質問、それに対するディーラー氏の回答も収められている。この本の特徴の一つは、訳者による注が本の約半分を占めていることである。「大人と子供の言語習得条件」や「外国語の誤りは母国語の干渉か」など興味深い問題が多数取り上げられている。

 

[本全体に対する感想]

この本が執筆・翻訳されたのは1980年なので、一読して古いなと思った。特に神経言語学による教授法の説明は、今この本を読んでもあまり意味がないかもしれない。神経言語学をほとんど知らない私が読んでも眉唾物だと感じる。しかし、様々な教授法が紹介されているので、今後教授法を考える時に大変参考になるだろうと思われる。

  題名を見てとても面白そうだと思ったが、訳者がまとめで書いているとおり、言語教授法を「理性主義的」「経験主義的」と分類することに疑問を感じる。このような名称を与えても教授法について分かりやすさや理解が深まることはないのではないか。私はこの本を読んでいて、すぐにどっちがどんな内容で、どの教授法がどちらに当てはまるかが分からなくなってしまい、頭が混乱してしまった。

 

[疑問・感想]

私は以下で3つのことについて述べたい。1つ目は、この本で取り上げられている「意味に即した練習」について、2つ目は教授法が基づく言語理論について、3つ目は学習法の評価についてである。

 

「意味に即した練習」について

この本には様々教授法が紹介されているが、驚いたのは、「意味に即した練習」が重要だと説かれていることである。これは今流行りのFonFの考え方によく似ている。(もちろん、筆者が高く評価している直接教授法は母語の使用を完全に避けるとなっていて、これはFonFにおいても常にそうなのかどうかはよく分からないので、両者は同じではないのだろう。)しかし、「意味に即した練習」とFonFでは、やはりFonFのほうが進化していると思われる。なぜなら、「意味に即した練習」よりもFonFのほうが学習を科学的に捉えようとしているからである。例えば、「意味に即した練習」に当てはまる教授法がこの本の中で紹介されていて、それらがなぜ優れた教授法なのかを説明する理由として、「学習者の注意をよく集中させるから」「少ない授業時間で宿題は全然出さなくても、標準テストをやると、平均的大学の言語専攻の学生よりよい成績をあげている(p. 55)」「宿題なしで充分やっていける (p. 56)」などがあげられている。これらの理由はあいまいで説得力がない。一方FonFではもっと根本的に、FonFに基づく教授法が学習者にどんな効果や影響を与えるかについて、条件を統制するなどして科学的に探求していると思われる。

 

教授法が基づく言語理論について

ディラー氏は、「創造的な言語教師となろうとする者は、自分自身のための言語理論をもたなければならない (p. 10)」と主張し、様々な教授法を取り混ぜた折衷的教授法を「条理にかなったものでなく、長くもつべくもない (p. 58)」と強く否定している。そして驚くべきことに「責任感のある言語教師は、今や自力で、言語とは何であるか、について筋の通った図式をうち建て、互いに矛盾しない要素を材料とし、言語はいかにして習得されるか、についての自分の理論をもって、自分自身の教授法を樹立することが必要である (p. 58)」と述べている。

もしこのディラー氏の主張が正しいとしたら、私は今すぐにSLAの研究を止めるだろう。なぜならこの主張はSLAが科学であることを否定しているからである。勉強するほど未知のことがどれほど多いかに気付かされるSLAの領域で、「言語とは何であるか」「言語はいかに習得されるか」が一人でわかる研究者はいないはずである。そうであれば、自分の理論をもって自分自身の教授法を樹立することは何かの迷信を信じ、それに従って闇雲に行動することと何ら変わりがない。また、そのようにして自分が正しいと信じる教授法を確立してしまったら、その教授法の効果を試し、それに基づいてより良い教授法を追求することはないだろう。ディラー氏の見解は、教授法の進化を認めない危険なものである。

 

学習法の評価について

ディラー氏は第4章において、教授法の優劣を決めるのに神経言語学的な説明を行おうとしている。具体的には、異なる教科書で外国語を学習した2つのグループがどちらの脳半球を主に使うかという実験を行い、片方の教科書でスペイン語を習得した学習者は右脳が発達している人左脳と左脳が発達している人が半数ずつくらいあり、もう片方で習得した学習者には右脳が優れている人が一人もいなかった。ゆえに前者の教科書がどちらの脳が発達した人にも効果があるので、優れた教授法だという説明である。私はそもそも現在の段階で、言語習得を神経言語学から説明することに少なからず疑問をいだいているが、仮に神経言語学的な説明に意味があると認めるとしても、このディラー氏の主張はあまりにもひどいと思う。こんな条件を統制しない大雑把な実験結果を、しかもその実験結果の意味をこんなに単純化して、教授法の優劣を決める根拠とするとは驚きである。

  しかし、私は神経言語学の研究そのものは意義深いものだと考えるし、今後自分でも勉強しなければならない、とこの本を読んで思った。