金城学院大学 国際情報学部 KITカンボジア研修2015

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はじめに

 カンボジアスタディーツアー。このツアーに参加しようと思った理由は、今の私が暮らしている環境とまったく違う環境に行ってみたかったから、経験してみたかったから、周りの人たちがあまり行ったことのない国だから。ただただ、これだけの理由で私は参加させてもらった。スタディーツアーが終わった今、これだけの理由でカンボジアに行かせていただいたことに感謝しなくてはならないと強く思っている。なぜならばカンボジアで見た物、感じたこと、触れた物…全てが私にとってプラスになることばかりであったのだ。これだという明白な目的がなかった私に、カンボジアの人々、環境はたくさんのことを学ばせてくれたのである。

1日目

   約6時間のフライトを経てプノンペンに到着。初めての海外旅行だったため、とても緊張していた。入国審査や税関を通過し荷物を受け取り少し緊張はとけた。

 しかし、まだ少し緊張はとけていない。これから夕食を食べに向かうため、カンボジア料理はどんな味だろうかという緊張。だがその緊張もすぐにとけた。カンボジア料理は香草などの匂いの強い食べ物が多かったが美味しかった。食後のフルーツは特に美味しく、日本では食べたことのない甘くてフレッシュなフルーツを食べた。
 食事の後はホテルに向かい、この日はすぐに寝た。

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2日目

 この日はキリングフィールドとトゥールスレン刑務所博物館を訪問し、カンボジアの歴史を学んだ。


 この写真はキリングフィールドにある、慰霊碑の中である。ここには1975年にポルポト政権により、プノンペンに住んでいた人々が追い出され、制圧され、処刑された人々が眠っている。この人たちは何の罪もない。ただ、頭がいいという理由や地位が高いというだけでポルポト政権側は力を持たせないために殺したのだ。中には、ただメガネをかけているという理由で殺された人もいるのである。
 全国にこのキリングフィールドのような処刑場は388カ所あるようで、ここはそのうちの一つである。8000人の死体は見つかっているが未だに11万人の死体は見つかっていない。そのため私たちがここを訪れた際、地面には死体が埋まっており私たちはそこを歩いた。とても心が痛かった。


 この写真の絵には、当時処刑に使われていた道具が描かれている。また、この絵には描かれていないが、処刑の道具にヤシの木の葉も使われていたそうだ。実際にヤシの木の葉を見ると、鋭くギザギザしており、粗い刃であった。こんな葉で処刑されたらどれだけ苦しむ時間が長いのかと想像して私はとても苦しかった。他にも木に子供の頭を打ち付けたり、土の中に埋めたりするという他にも様々な処刑方法があったようだ。
 約40年前の残酷な場所に実際に来て、事実を知り私はまったく頭を整理することができなかった。


 トゥールスレン。ここはもともと高校であったが、ポルポトにより刑務所にされた。ここで拷問を受けながら収容され、そして先に行ったキリングフィールドに連れて行かれ処刑される…。実際にトゥールスレンで拷問を受けていた人たちの中で現在、唯一の生存者が2人いる。そのうちの一人、チュンメイさんに当時の拷問のお話を伺うことができた。
 チュンメイさんのお話は通訳の方を通して聞いたのだが、彼の表情から通訳さんを通さなくてもどんなに残酷なことであったのか、どんなに苦しい思いをしたのかが伝わってきた。


 この写真はトゥールスレンの中のB棟である。ここでは拷問が苦しすぎて飛び降り自殺する人々がいた。そのため、その自殺を防ぐために柵をつけたそうだ。しかし、最後には処刑しようとしているのにこの自殺を防ごうとしているのだろうか。それは警備をするという仕事の役目を果たせなかった警備員が拷問されてしまうからである。
 今では考えられないこのあり得ない連鎖、あってはならない連鎖。これが過去に実際にあったという事実。知れば知るほど苦しくなっていった。

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3日目

 この日は、SVAシャンティ国際ボランティア会とCHAに行きカンボジアの今を知った。


 SVAシャンティ国際ボランティア会は「共に生き、共に学ぶ」ことができる平和(シャンティ)な社会の実現を目指している団体である。そのために地球上の貧困や戦争、内紛、環境破壊、災害などによって苦しむ人々の側に立ち、苦しみを分かち合い、その人々と共に解決のための活動をおこなっており、カンボジアでは幼児教育の質の改善や、スラムコミュニティ図書館事業などを行っている。そこで私たちは後者の活動を見せていただくために実際にスラム街へ行った。
 この写真は移動図書館の本の読み聞かせに集まっている子供達の写真である。子供達はとても楽しそうで笑顔であった。ここに住む大人達もみんな笑顔で仲良く過ごしていた。
 彼らが住むスラム街は私たちにとって、「住みやすい」ととてもいえるような環境ではない。むしろ「住みにくい」場所である。しかし、彼らは笑顔であった。これを見て、私は何が幸せなのだろうと思った。住みやすく環境が整った場所に住んでいる私たちは本当に幸せなのか。彼らのように笑顔でいるか。みんな仲が良いか。環境が整っていない場所に住んでいる彼らにとって、私たちが訪問すること、暮らしに少しだけ介入することはいいことなのか。たくさんの疑問が生まれてきた…。自分のなかの基準や価値観がわからなくなった。


  CHA(Cambodia Handicraft Association)はポリオや地雷被害者がよりよい未来のために働くことを可能にする現地NGOである。  特に印象に残っていることは、ここで働いている女性たちとお話をさせていただいたことだ。まったくクメール語が話せなかったが、指さし会話帳をつかってなんとか会話をしようとしている私に、女性たちはゆっくり話を聞いてくれて、笑顔で返事を返してくれたことがとても嬉しかった。お互いが理解し合おうとして話すのがとても心に残っている。もっともっと話がしたかったと思い、来る前にクメール語を練習しておけばよかったと後悔した。

5・6日目

 タサエン村。ここはカンボジアで一番楽しかった場所。大好きになった場所である。なぜかというと魅力的な物や新鮮な物で溢れていたからである。  タサエン村にはIMCCD(NPO法人国際地雷処理・地域復興を支援する会)の高山良二さんという方がいる。この方は、タサエン村で地雷除去の活動を住民の中から募集して選ばれた人たちと、CMACとうカンボジア地雷対策センターの人たちと一緒に行っている。地雷原をキャッサバ畑にしてそこで収穫したキャッサバで焼酎を作ったり、道路にしたりしている。これらのことを高山さん一人で考えて行うのではなく、住民やCMACと協力して行い全員が理解し納得するように意見を言い合ったりして本当の信頼関係を築きあげている。こうしてタサエン村が自立できるように、高山さんがいなくても村が成り立つように取り組んでいるのである。

  

   またIMCCDの宿舎には学校があり、夕方に子供達を対象とした日本語教室を開いている。私たちも2日間参加させてもらい、子供達に日本語を教えたり、ゲームをしたり、折り紙を折ったり…。子供達はとっても笑顔が素敵で、元気いっぱいで、素直で私たちみんなとても楽しい時間を過ごさせていただいた。言葉が通じあえなくてもお互い理解し合おうと、顔を見ながら話して理解する。こうして理解しあった瞬間お互いがパッと笑顔になった瞬間はとびきりの喜びが待っていた。

 なかには、日本語がとても上手な子供達もいて、「かわいいですね〜」や「めっちゃ〜」・「超〜」という言葉も知っていて思わず笑ってしまった。  日本語教室が終わると楽しい夜が始まる。タサエン1日目には高山さんの通訳をしているミエンさんのお子さんの誕生日だったため、誕生日パーティーをした。これがとても盛大なパーティーで宿舎を風船で飾り付けをし、音楽をかけ大きなケーキも準備してあったのだ。日本語学校に来ていた何十人もの子供達と宿舎の大人たち、そして近所の方と私たちという大人数で盛大なパーティーは今でも忘れられないほど楽しいものだった。
 このようにカンボジアでは近所の子供の誕生日会に子供も親も参加することが普通らしく、それを聞き私はなんて暖かい国なのだろうと思いカンボジアがもっと大好きになった。
 そんなタサエン村で生まれて初めての経験、そしてこれから二度と経験しないであろうことをしてきた。それは、地雷処理の現場を見学させてもらい、地雷を爆発させる場面を実際に見たことである。
 緊張は二分前から始まる。まずサイレンがなる。このサイレンでこれから爆発音がすることを村の人々に伝える。高山さんが地雷に着火する。高山さんがその場から離れる。走る。もうすぐだ、もうすぐだと思い緊張が高まり自分の心臓がバクバクするのがとてもよく分かった。高山さんが走るのをやめた。安全地に着いたのだ。もう爆発する…!この時間はきっと短いものなのであるが、全く想像のつかないことがこれから起きるという緊張感で私にとってはハラハラするとても長い時間であった。そして…「ボンッ!」ついに爆発した。とてもとても大きな音。恐ろしい音…。この音が昔たくさんしていたのかと考えると、とても恐ろしい…


 タサエン村に滞在している間にソプーさんという元兵士の方のお話を聞いた。どこの兵士かというとポルポト側の兵士である。ポルポトというと、スタディーツアーの前半に見てきた犠牲者の多くを出した兵である。そのため、この時の私たちはまだポルポトの兵士と聞くと恐ろしいイメージがあった。
 ソプーさんには兵士時代について話してもらった。ソプーさんは14歳の時に村からリクルートがあり、お寺に行ったそうだ。そこではロンノル政権への教育を受けたのだ。これは思想教育である。そして正しいと思うようになったポルポト側の兵士として教育を受け、戦いに出たのだ。戦場では、ただ指示されるようにしか動けない。どんどん上から指示が出され、それをこなしていく。もし指示通りできなかったら自分の命も危ない。そんな環境で育ったのは、ソプーさんだけでなくポルポトの兵士として戦っていた多くの人もそうであろう。
 この話を聞き、ポルポト兵士側も被害者であるのだと思った。今までプノンペンの犠牲者しか見ておらず、あんな残酷なことをしたポルポト兵がただただ悪だと思っていた。しかし違う。ポルポト兵たちは思想教育によりやっていることが正しいと思っていた。自分の命を守るためにやっていたのだ。
 この事実を知り、ただ一方からしか物事を判断してはいけないということ学んだ。全体を見てから判断をしなければならない。スタディーツアーに一緒に参加した友達は、「戦争は正義と正義のぶつかり合い」と言っていた。まさにその通りだ。

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7日目


 この日はゴミ山を見てきた。ここには生活のために、鉄などを集めている人、暮らしている人たちがいた。ここは砂埃がひどく、臭いもとても良いところとは言えない。だが彼らはとても笑顔だった。いきなりやって来て、去っていく私たちに対しても笑顔なのだ。なんだか心が痛かった。さらに衝撃を受けたことは、このゴミ山の多くはカンボジアにやってきた観光客たちが出したゴミだそうだ。私たちもそのうちの一人に入るのである。またさらに心が痛い。カンボジアに滞在するのはあと2日間だ。この2日間、ゴミをなるべく出さないようにしようと思った。

8日目



この日は吉川舞さんの解説による世界遺産アンコール遺跡を案内していただいた。見る遺跡一つ一つが美しくて感動した。また、遺跡にあたる太陽の角度や明るさで全く遺跡の雰囲気が違い感動した。
 吉川舞さんの解説はとてもわかりやすく、面白く、どんどん聞き入ってしまう。特にアンコールワットの壁に掘られている彫刻の天国の地獄の物語や神話がとても印象に残っている。

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9日目


 かものはしプロジェクトというのは2002年に大学生3人で始めたものである。児童買春問題について考えていて、人身売買や児童買春の被害にあう女の子たちは貧しい家庭の子が多く、それならば仕事を作ろう、女の子たちを売らなくても十分な収入を得られるようにしようということでこのプロジェクトを始めたそうだ。そして彼らが作った仕事とは、いぐさ商品を作る仕事だ。内容はまず、いぐさの産地で有名なカンボジア・カンダール州からいぐさを取り寄せ、選別をする。次に染色をし、織る。次にカッティングをし、ミシンで縫う。そして最後に出来上がった商品を一つ一つ厳しくチェックをする。
 さらにかものはしは彼女たちの生活面も支えている。識字教室や休職制度、託児所、貯金制度などを実施しており、働きやすい環境も作っているのだ。
 ただ仕事をつくって終わり。というのではなく、社会的な面もサポートしており、本当に彼女たちのことを思ってかものはしプロジェクトは動いているのだ。

おわりに

 10日間のカンボジアスタディーツアーが終わって、よく考えることがある。幸せってなんなのだろう。この環境の整った日本で過ごせている私たちは本当に幸せなのだろうか。そして、環境が整っているとはあまり言えないカンボジアの人々は幸せではないのだろうか。私は幸せだと思う。10日間で私たちが会ってきた人たちはカンボジアのごく一部の人たちでしかなく、貧困や病気などで苦しんでいる人もいることはもちろん分かっている。しかし、出会ったカンボジアの人たちの笑顔が忘れられない。とても素敵な笑顔なのだ。暖かい心をもっているのだ。私はその笑顔と暖かさで幸せな気持ちになれた。
 私は今何ができるかまだわからない。でもこのわからないという気持ちを忘れないようにして、考え続け、いつか答えを出したい。

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