金城学院大学 国際情報学部 KITカンボジア研修2015

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 カンボジアと言えば、多くの人がアンコールワットをはじめとする世界遺産を始めに思い浮かべるであろう。また、歴史的に見ると大虐殺の歴史が頭に浮かぶ人もいるかもしれない。実際にカンボジアの1番の観光地と言えばアンコールワットであるし、大虐殺の歴史は今でも残っている。けれども、カンボジアはそれだけではない。今回この研修を通してわたしは一つのことを多面的に見ることが大切だと言うことを学んだ。

 私たちはカンボジアについて最初の日カンボジアの昔を知るをテーマに、虐殺の歴史が色濃く残るキリングフィールドとトゥルースレン刑務所を訪れた。歴史で少しだけさらっただけの知識では、ほど足りないような現実を目の当たりにした。17階建ての慰霊塔にぎっしりと積まれた8000体を超す頭蓋骨たち。彼らがわたしに何か語りかけているようだった。ガイドの方が「カンボジアは巻き込まれた」と言っていた。いきなり始まった目的もわからない戦争。何もわからないまま拘束され殺されていく人たち。彼らの歴史を忘れるな。そう骸骨に言われたようだった。キリングフィールドには未だにすべての人骨が見つかっているわけではない。私たちが歩いた橋の下にもきっとまだ見つかっていない彼らが埋まっている。トゥルースレン刑務所では、実際に拷問を受け、生き残ったチュン・メイさんにお話を聞くことが出来た。彼は、思い出したくもないであろうつらい過去を鮮明に話してくださり、当時の拘束された格好を実演してくださった。聞くのでさえすごくつらかった。ポルポト派は知識人を排除するため多くの知識人を拘束し、拷問を与え、殺害していった。彼も機械を教える先生であったという。多くの人は虐殺の噂も聞かず、存在すら知らなかった。人の命の重さは平等であるのにそれを平等に扱わなかったポルポト派に正直言えばどうしてなんだという気持ちを抑えることができなかった。

 しかし、片面だけの話を聞くだけで終わっていいのだろうか。私たちは研修中タイ国境にあるタサエンという村を訪問した。そこは、最後のポルポト派の拠点といわれており、当時ポルポト兵として戦っていた人たちもいた。私たちは3人の元兵士たちにお話を聞くことが出来た。彼らはみんな強制的にポルポト派の人たちに連れられお寺で思想教育を受けさせられ兵士となって戦っていたという。14歳や15歳というまだ何もわからない少年たちが1番兵士として多かったのは、子どもの方が洗脳をしやすいというのが大きな理由だったという。
 多くの人は虐殺の歴史があったという事実しか知らない。ポルポトが悪いんだという考えしかないのかもしれない。少年だった彼らは知識がなかった。だから思想教育を受けそちら側に入っていったのかもしれない。戦争はどちら側だけが一概に悪い訳ではない。両者とも何かしらの思いを持って動いている。片側の意見だけ聞いてわかったと決定してはいけない。ほんとうのことを知らないのに否定してはいけない。こう強く感じた。

 研修の最後に私たちはアンコールワットの観光拠点であるシェムリアップを訪れた。アンコールワットに訪れる観光客は年間300万人いると言われている。そのおかげでお金を稼ぐ事の出来ているひともいるだろう。しかし、観光客が多くなったことである問題が浮上している。それは、ゴミの問題である。カンボジアではすべてのゴミは分別されることなく一カ所に集められる。シェムリアップのゴミ置き場はゴミが山のようになっていてゴミ山と呼ばれているほどだった。観光客も訪れたり、普通の住民でさえ滅多に訪れない郊外にあるゴミ山ではそこで生計を立てて暮らしている人たちもいる。彼らは集められたゴミの中から金属やペットボトル、そのほかお金に換えられるものを探して換金している。中にはわたしよりも明らかに小さな少年も働いていた。彼らは底のとても薄いくつや裸足であるのにかかわらず何が落ちているのかわからないゴミの山を歩いて行く。生ゴミもすべて一緒にあるため正直においは相当きつい。私たちが行ったときは乾期だったのもあり雨期に比べれば臭いはそれほどでもなかったのかもしれない。現地では病気も少なくないという。ゴミに混ざっていたガラスの破片で足を怪我しそのままにしていたため破傷風になってしまった子どもや、強烈な臭いで鼻がきかなくなってしまった子もいるという。ここのゴミの多くはアンコールワットを訪れる観光客が残していったものであるという。わたしは今回持ってきた服のいくつかをカンボジアで捨てて帰るつもりだった。そのゴミ山で暮らす人たちの顔が頭に残り、捨てようと思った服をすべてスーツケースにしまいゴミを最小限に抑えた。観光客が多くなって潤う面がある反面多くの問題があることを知り、新しい観光の形が必要であることを感じた。


 カンボジアといえば地雷を思い浮かべる人は多いと思う。わたしが訪れたタサエン村では前述したように最後の拠点であった事もあり、今でも多くの地雷が埋まっている。そこの地雷を処理している人が日本人の高山良二さんである。私たちは高山さんの宿舎に2泊し地雷処理現場を実際に見せていただいた。人が見にくいほど遠くに離れていたにもかかわらず、心臓に響くような轟音。今でも忘れることの出来ない光景が目の前に広がった。そんな地雷がそこら中に広がっていた。彼は何年もかけ丁寧に一つずつ処理をしていった。今学校が建っている場所や畑が広がっている広大な土地、そこも高山さんたちが地雷を処理した土地である。
高山さんは「ター」と呼ばれて村の人からとても慕われている。それは地雷を処理しているからだけではない、彼は村の子どもたちのために日本語教室を開いている。生徒の中には日本語がとっても上手で日本の高校に留学している子もいる。その子の留学費も高山さんが援助している。助けるだけではなく、その後彼らが自立していけるよう支援している高山さん。開墾した土地で彼らが生活していけるすべを教えている。ただ助けるだけではいけない。その後彼らがどうなっていくのか見極めて支援することが大切であることを学んだ。



 最後に、カンボジアを訪れ、行ったことのない人に1番伝えたいことは彼らの温かさと大きな笑顔である。スラム街の子どもたちと遊んだとき初めて会うわたしたちに頑張って覚えてくれたであろう日本語の挨拶をして出迎えてくれ、沢山の笑顔を見せてくれた。暮らしはとってもつらい暮らしをしているはずなのに、自分よりもいい暮らしをしていると明らかな私たちを大きな温かい笑顔で迎えてくれ、数時間しかいなかったのに別れを惜しむかのようにバスに乗ってもなおずっと手を振ってくれた。もし、彼らの立場にわたしがいたならそんな風に振る舞えるだろうか。言葉も通じない、どこから来たかもわからない、自分とは明らかに違う様相をした人たちを前もって来ることを知っていたとして快く迎えることが出来るだろうか。スラム街の子どもたちや方々もそうであるが、タサエンで出会ったすべての人も温かく私たちを迎えてくれた。いきなり来た観光客に挨拶を出来るだろうか。カンボジアは家族の範囲がとても広いと言うことをきいた。スラム街では、どこの子かわからない子が家にいても自分の子と同じように暮らしているという。また、タサエン村ではある子の誕生日を沢山の人たちとお祝いをし、結婚式の準備は周りの家を巻き込んで行うという。人との絆がとても強いことを感じた。家族の垣根を越えて生活をする彼らには学ぶべきところが沢山ある。日本では滅多に見ない光景だからこそとてもカンボジアの暮らしがうらやましかった。けして裕福とはいえないけれども、日本で暮らしているわたしよりも幸せそうに見えた。
 今回であったすべての人たち、沢山の笑顔を見せてくれた彼ら、貴重な経験をさせてくれた岩崎先生や安田さん、山池さんをはじめとする関係者の皆さんに大きな感謝を。これからの迷っていた大学生活の答えを与えてくれた彼らに何か出来ることはないのか、お返しがしていきたい。あと、残り少ない大学生活を通して自分の出来ることを見つけて突き通していく。そして、もう一度胸を張って彼らに会いにカンボジアに戻る。それがわたしの目標であり、夢である。

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