金城学院大学 国際情報学部 KITカンボジア研修2015

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はじめに

 カンボジア。そう聞いて皆さんはどう思うのだろう。貧しい国、内戦、環境があまり良くない、などだろうか。
 人生二回目のカンボジア。もう行くことはないと思っていたカンボジアに私は八年ぶりに帰ってきたのだ。まだ幼かった私は、当時のカンボジアの思い出はうろ覚えだった。だが一つだけ覚えていたことがあった。それは、「カンボジアという国の美しさ」だ。日本よりも美しいと言っても過言ではないくらいに。それは、八年経った今でも変わることはなかった。

1日目

 夕方、プノンペンに到着。時差二時間。約六時間のフライト。空港を出る。懐かしい匂いがする。カンボジア独特の匂いだ。ガイドと合流してレストランへ。有名とされるカンボジア料理のレストラン。味はとてもおいしく、日本と違ってまた風情があり、私は好きだった。そしてホテルに戻り、明日からの研修を楽しみにすることにした。

  

2日目

 この日は、「カンボジアの歴史を知る日」とされた。
 午前はキリングフィールドに向かった。ここはポルポト政権の下、大虐殺が行われた刑場跡だ。奥に進んでいくと、高い建物がある。慰霊塔だ。そこは十七階建てで、中には八九八五もの亡くなった人の骸骨が納められている。だが、まだ一万一千人の人は土の中にあるそうだ。さらにキリングフィールドとトゥールスレン刑務所は、その存在自体カンボジア中に秘密にされていた。秘密にされていたとしても、建物があることで気付くのではないだろうか、と思う方もいるかもしれない。だが気付かれなかった。それはそこが楽しい場所であると思わせていたから。キリングフィールドには電気が流れていた。その為、悲鳴や呻き声などが外に漏れる。それを隠すように楽しそうな音楽を大音量で流していたという。だから住民は、そこが楽しい場所であると思っていたのだ。キリングフィールドに入らなければ、本当のことはわからない。入れられてしまったら、殺されるしかない。罪のない人さえも入れられる。キリングフィールドはそんな場所であった。
 午後には、トゥールスレン刑務所博物館に向かった。ここはポルポト政権下の政治犯収容所跡だ。約二万人収容されていたが、全員亡くなったという。ここに収容された人が、キリングフィールドに送られるのだ。刑務所はA棟〜D棟まであり、それぞれ収容されている人が違う。例えばA棟には、知識人と言われる人が収容されていた。C棟には、飛び降り自殺をする人が続出したため、この棟だけ鉄柵が付けられていた。そんな中七人もの人が生き残った。その中の一人である、チュン・メイさん(85)に当時のことを教えて頂いた。それはとても残酷なことであった。私はその中でも、一番衝撃を受けたことがあった。それは収容される前に、身長を測り、裸にさせられ、目隠しや足かせ、手かせをさせられる。目隠しをされている為、前が見えず段差などもわからない。その時は、耳を使って合図される。例えば、「階段を上がれ」という合図は、耳を上に引っ張られるし、「階段を下がれ」という合図は、耳を下に引っ張られる、ということだ。私には想像すらできない。本当にそんな過去があったのだろうか、と疑うこともあった。カンボジアの過去を何も知らない自分を恥ずかしいと思った。

  

  

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3日目

 この日は、「カンボジアの今を知る日」とされた。  午前は、日本のSVA(公益社団法人シャンティ国際ボランティア会)による、プノンペンのスラム地区での移動図書館事業を訪問した。移動図書館に限らず、学校建設や識字クラスの開設、伝統文化事業なども手掛けている。「スラム」という言葉は、差別用語である。貧困世帯居住地域を示している。そんな中でも人々はとても明るく過ごしていた。突然現れた私たちが、「チュムリアップスオ!(こんにちは)」と声をかけても、笑顔で返してくれた。そして、そこに住んでいる子どもたちと遊ぶ機会があった。紙芝居を真剣に聞いている眼差し、ちょっとしたゲームではしゃいでいる姿。私は夢中でシャッターを切った。

  

 時間はあっという間に流れるものだ。子どもたちと別れ、プノンペンにできたイオンモールにて自由行動。昼食はカンボジアの料理を食べた。そしてコオロギも…。

  

 午後は、CHA(カンボジアハンディクラフト協会)を訪問した。ここは、地雷被害者やポリオなどによる女性障害者が洋裁技術を習得する為のNGOだ。ここで働いている女性たちは、勉強代や部屋代を払わずに、裁縫の技術や生活をする為のスキルを学んでいる。そしてショップで販売しているものは全て彼女たちのハンドメイドだ。その商品の利益は全てCHAの運営費となり、彼女たちの生活のサポートになるそうだ。彼女たちは皆、明るくて楽しそうに働いていた。最後には、覚えたばかりの日本の歌を歌ってくれた。

 夕飯はカンボジア・フレンチを出しているレストランへ。そこで私は、待ちに待ったものと出会ったのだ。それは「タランチュラ」。テレビで観てから、絶対に生涯で一度は食べたいと思っていた。思っていたよりも小さかった。皆は気持ち悪いから嫌だーなどと言って、全く食べようとしなかった。私は食べないと絶対後悔すると思い、迷わず口に投げ入れた。とても美味しかった。足はエビ、お腹は味噌、頭はカニのような味がした。機会があればもう一度食べたい。その他にも、スープの中に蟻が入っていたりと、夕飯を楽しく過ごした。

  

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4日目

 この日はバッタンバンへの移動のみ。途中でローカルレストランにて昼食をとり、ひたすらバスで七時間。
 バッタンバンに着き、とても綺麗なホテルに泊まり、明日からのタサエン村での生活を楽しみに床についた。

5日目

 バッタンバンからバスで約三時間半。タイ国境のタサエン村に到着。荷物を置いてすぐに出発。NPO法人国際地雷処理・地域復興支援の会(IMCCD)の理事をしている、高山良二さんの指揮のもと地雷の見学に向かった。三十分ほど炎天下の中歩くと、所々に赤い看板と赤い線が引いてあった。その線の向こうはまだ地雷が残っている可能性があるという意味であると教えて頂いた。一歩踏み間違えたら地雷を踏んでしまうのだと思うと、恐怖さえも感じた。だが、こんな機会はこれから先まず無いと思うから、大切にしようと思った。そしてこれから実際に地雷を見学することになる。
 まず対戦車地雷。これは、戦車のキャタピラーを破壊し戦車を止め、その上で中にいる人を殺す、というものだ。だがこれは、雷や電気の衝撃でも発火してしまうそうだ。
 次はタイプ69対人地雷。これは、対人地雷の中でも衝撃が強い方で、雨が少しでもついたら爆発するそうだ。導火線は一mあり、それが全て燃え、爆発するまでには約三分間しか逃げる時間がない、というとても恐ろしいものだった。
 最後はTM46型対人地雷。これは、九kgの重さがあり、約三百kgまでの圧力には耐えられる。だがこれは参考にすぎない。形状が変わっていたり、埋められてからしばらく経っていたら、一kgでもあり得るそうだ。そして、実際にこの三つの地雷の爆破を見せていただいた。言葉では簡単には表現できない。体の奥が震え、しばらく心臓の鼓動が早くうるさかったのを覚えている。
 そして、爆発した跡を見に行くと、そこには大きく深い穴があった。その時高山さんはこうおっしゃった。「この仕事は勇敢な人ではなく、臆病な人がするものだ。プライドは捨てなければならない。」と。この言葉は重く、深く、難しいものであると感じた一方、とても心に響いた。

  

  

 地雷見学を終えた私たちは、泊まる宿舎に一旦戻り、夕方まで少しの自由時間。水浴びをするも、洗濯をするも、寝るも自由。勘の良い方は気付くかもしれない。水浴びとはなんだ?と。お風呂はもちろん無い。シャワーも無い…と聞いていたが、最近作ったという簡易的ではあるが、シャワーはあった。そのシャワーからは冷たい水が出る。お風呂場からは悲鳴が…。

 思い思いに過ごし、夕方になった。夕方には、同じ敷地内にある日本語学校で授業がある為、子どもたちが集まり出す。その子どもたちと遊ぶのも、楽しみの一つだった。だが、なぜかこの日は授業を行わず、一日遊ぶことになった。カンボジアならではの遊びや、私が唯一できる特技と言っていいのかわからないが、できるものを見せたりと、楽しく過ごした。みんな運動神経がとても良く、すぐにできてしまう。「オスチャー!!(すごい)」という言葉しか出てこない程に。私の持っているレパートリーが無くなってしまう程に。そしてこの日は、村で焼酎造りをしている、ミエンさんという方のお嬢さんの誕生日。子どもたちと共に、みんなでお祝いをした。みんなで夕飯を食べ、ケーキを顔に付け合ったりと、とても楽しい時間になった。
 夜はハンモックで寝る。宿舎の中にハンモックを自分で張るのだ。だが、宿舎の中ではつまらないと思った私は、外で寝ることができるかどうかを交渉してみた。すると、二人くらいなら大丈夫との返答。私と友達は喜び、私たちだけ外で寝たのだった。

  

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6日目

 この日はいくつもの場所を訪れた日だった。100円ショップの下請け工場や、ポルポト側の軍の兵士だった方、地雷の犠牲になった方、慰霊塔、仲良しのご夫婦、株式会社キンセイなどだ。
 慰霊塔は、カンボジアの中学校の敷地の中にある。ここは、カンボジア政府と日本政府の共同で二千七年に地雷除去をしていて亡くなった人の為に建てたものである。この中には、オーチャムロン村で対戦車地雷によって殉職した七名が祀られている。地雷除去が順調だった為、安心して高山さんが日本に帰る為、車で十四時間かけてプノンペンに向かった時、この事故は起きたのだ。だから高山さんは、大きな責任を抱えている。そしてまた十四時間かけて村に戻った。七名のうち、二名の遺体は見つかったが、他の遺体はすぐには見つからなかった。高山さんは二ヶ月間、地雷除去の活動をやめ、遺体を探すことに専念したそうだ。高山さんもいずれはこの慰霊塔に入ろうと思っているとおっしゃっていた。この村の復興がせめてもの供養だ、と高山さんは心に決め、活動している。

  

 最後に、コイデンさん(六四)・ジェランさん(六八)ご夫婦に会いに行った。コイデンさんは、両足がない生活の中で、ココナッツの木に登るので、ココナッツおじさんと呼ばれている。足の片方は戦争中に地雷を踏んでしまい、もう片方は畑で地雷を踏んでしまったそうだ。二本目の足を失った時に、近くにあった釜で自分の首を切ろうとしたそうだ。だが、家族の事を思うとできなかったと言う。ご夫婦はとても仲良しで、羨ましい程だった。夫婦円満の秘訣を伺うと、奥さんを優先する事だと、満面の笑みでコイデンさんは語ってくださった。驚いた事に、十九歳の息子さんが、私たちが訪れた二日後に結婚式を挙げたのだ。二日後にはこの村にいない私たちは、残念ながら参加する事が出来なかったのだが、心から祝福したいと思う。最後には、仲良しの証拠としてキスのプレゼントをしてくれた。こちらが恥ずかしくなる程、仲良しのご夫婦だった。

  

 この日の夕方も日本語教室がある為、子どもたちがやってくる。この日は授業をしてから遊ぶという予定だった。授業では、私たちが先生になって日本語を教えるという事になった。それぞれのクラスに分かれ、そのクラスに合った授業をした。私が担当したクラスは、自己紹介の文章とちょっとした単語を話せる子どもが集まっているクラスだった。
 一時間授業をして、その後は暗くなるまでの少しの間、みんなで遊んだ。カンボジアの子どもたちは本当に人懐っこくて、明るくて、元気で、こちらが元気をもらえるような力を持っている。遊んでいる間に、折り紙や風船のプレゼントをくれた子もいた。だが、笑顔の花が絶えない時間が永遠に続くわけではない。楽しい時間はあっという間に過ぎる。辺りは暗くなり、子どもたちは帰る時間になった。とても寂しくて、別れたくないという感情に押し潰されそうになった。泣きそうになっていたのを今でも覚えている。別れ際、私とたくさん遊んでくれた子どもたちが拙い日本語で「ありがとう。さようなら!」とハグをしてくれた。もう一時間だけ、もう一分だけでも一緒に遊びたいと思った。可愛くて離したくない。そう心の底から思った。写真を撮り、本当のお別れ。今すぐにでも会いたい。そう思えるような幸せな二日間だった。

  

7日目

 タサエン村最終日。朝は高山さんに地雷の詳しい説明を受けた。対戦車地雷や対人地雷にも様々な種類があるということ、仕組みが違うということ。そして私は貴重な体験をさせて頂いた。みんなで輪になって話を聞いていて、高山さんの正面に座っていたのが私だったからかもしれないが、実際に対人地雷を踏ませてもらった。もちろん動かない。それはわかっているのに、少し恐怖を感じ、ためらった。踏んでみると、カチッという音がした。この瞬間が実際では爆発になる。本当に恐ろしいと思った。

 説明が終わると、ミエンさんが作っているという、キャッサバで作った焼酎工場の見学をした。たくさんの大きなタンクがあり、流暢な日本語で丁寧に教えて下さった。採ってきた芋は皮をむいて蒸し、機械で麹と水を混ぜ、三日間置くと、黒麹ができる。実際に黒麹を見せて頂いた。

 貴重な体験がたくさんできたタサエン村とお別れ。ミエンさんをはじめ、ミエンさんご家族、ご飯を作ってくれたハウスキーパーの方など、総出で見送ってくれた。温かい人々に出会えて、この研修を選んで本当に良かったと改めて感じた。
 タサエン村を離れた私たちはバスに乗ってシェムリアップへ。シェムリアップに着いたら自由時間が設けられていた。だが、そこで安田さんが一つ提案をした。「ゴミ山に行こうと思います。行きたい人は連れて行きます。」と。せっかくカンボジアに来たし、体験できるものは全て体験しようと思い、すぐに行くと決めた。そして、トゥクトゥクで四十分。私は衝撃の光景を見たのだった。

  

 一面ゴミの山。鼻につく匂い。飛び交うハエ。思わず顔を顰めてしまった。一面ゴミの山と聞いて、どんな光景を思い浮かべるだろうか。まず思い浮かぶだろうか。私には表現できない。表現できたとして、きっと伝わらないだろう。実際に見て、匂いを嗅いでほしい。そして、私の代わりに表現してほしい。
 シェムリアップの人口は、約一八万人。ここに訪れる観光客は約三百万人。そしてこのゴミ山のほとんどは、観光客が出したものだそうだ。焼却という概念がない為、山になるのだそうだ。そのゴミを仕分けして、お金をもらい、生活をしている人がいる。私は複雑な気持ちになった。私たちが出したゴミばかりである、という申し訳なさがある一方で、このゴミがなかったら、ここで働いている人たちは、どのように生活していくのだろうか、という疑問が湧いてきた。答えはないし、見つかるとも思えない。だが、一つ言えることがある。それは、ここで働いている人々がみんな、笑顔だったということ。なぜ笑顔なのか私にはわからない。本当は恥ずかしいことだと思う。ゴミがたくさんあることも、そこで働いていることも全て。それにも関わらず、突然現れた私たちには嫌な顔もせず、笑顔を振り撒いてくれた。本当に不思議で仕方がなかった。自分にできることは何なのか。この人々の笑顔を忘れずにこれから過ごしていきたい。

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8日目



 シェムリアップと言えば、アンコール遺跡群。Napura-Worksの吉川舞さんの解説のもと回った。
 グリーティングを済ませた私たちはまずバイヨンへ。バイヨンへの道中、吉川さんはこうおっしゃった。「“遺跡を見る”とは何か。それは人それぞれである。遺跡の形から入る人、音や匂いから入る人、時間帯によって見え方が違うところに魅力を感じる人など決まりがない。自分の中で基準を作るということが大事。“遺跡を勉強する”というより、“遺跡を楽しむ”ということ。遺跡は“情報の塊”であるから、それをどう受け取るかでも変わってくる」と。とても深い話だと思った。バイヨンはお昼が人気らしい。なぜかというと、バイヨンは東側が完成している為、東から太陽があたるお昼の方が。写真が撮りやすいからだそうだ。階段の脇には、ライオンやヘビがいる。これは歴史の一ページが描かれているそうだ。吉川さんは、夕方のバイヨンがオススメということで、夕方にまた来ることにした。

 次に訪れたのはタプロームだ。このタプロームは、トゥームレイダーの舞台となった場所でもある。半分人間で半分鳥のガルーダという生き物の彫刻など、この場所は本当に異世界に入り込んだ気分になる。大きな木が、建物の上に覆い被さっていたり、血管のように細く枝分かれしていたりと、色々な木が同じ場所にあった。不思議な空間は、以前と変わらなかった。

  


 次に訪れたのは、カンボジアで最も有名なアンコールワットだ。一度は絶対に耳にしたことのある名前だと思う。カンボジアの国旗にも描かれている遺跡だ。アンコールワットの東門は作りかけであるが、西側は必見だ。是非行ってみてほしい。そしてもう一つの見所は、壁画の彫刻が東西南北で違うということだ。つまり、壁画に描かれている話が、東西南北で全て違うということだ。乳海攪拌、天国と地獄、ラーマーヤナ物語などだ。難しい名前の乳海攪拌について説明しよう。簡単に言うと、古代の綱引き。神々と悪魔、つまり善と悪の綱引きが描かれている。
 ある山があり、その山にヘビを巻き付け一千年間引っ張り続ける。山を引っ張る事で、麓にある海の水が混ざり、海の生き物が死んでいく。その中でなんと不老不死の水ができる。この水を求めて綱引きをしていたわけだ。悪魔のリーダー的存在のアシュラが、神々を騙し、不老不死の水を飲んでしまう。だが、太陽の神と月の神がアシュラに騙されていると気づき、アシュラの首を切り落とす。アシュラは首まで水を飲んでいた為、首だけで生きる事となってしまい、カーラと呼ばれるようになった。これにより、日食と月食が生まれたそうだ。一千年間も引っ張られたヘビは、毒を吐いてしまった。その毒は全世界に広がり、生きられるものはいないまでに強いものだった。だが、シヴァ神がその毒を全て飲み込んだ。すると、全世界に広がるのを阻止し、死者は出なかったそうだ。


 様々な壁画を見てきたが、もう一つよくテレビで放送される事がある。それは日本人の落書きが残っているという事だ。それは十字回廊の一角に書かれている。日本人の落書きは一千点もあると言われているが、その中でも一番有名な落書きは、一六三二年に侍の森本右近太夫が書いたものだ。歴史が得意な方は気付くだろうか。一六三五年に鎖国が開かれた。森本右近太夫は、その鎖国をほのめかすような落書きを残していたという。また、「ここに仏四体を奉るものなり。」とも書かれているようだ。
 そして最後には待ちに待ったアンコールワットの全体像。カンボジアの国旗でわかるように、塔は三つ。と思いきや本当は五つある。正面から見ると三つに見え、少し横に動くと四つだったり、五つだったりと、見る角度によって塔の見える数が変わってくる。また、左右対称に作られている為、とても美しい佇まいをしている。この感動は何度来ても変わらない。

  

 アンコールワットをあとにした私たちは再びバイヨンへと戻った。私は驚いた。昼と全く違う顔を見せてくれたからだ。遺跡の顔は変わるはずがない。それにも関わらず、なぜこんなにも表情が違うのだろうか。とても感慨深いものであった。
 夕暮れのバイヨンを見た後は、南大門を見に行った。南大門に行くには橋を渡る。その橋には、先程説明した古代の綱引きを表した石像が周りにある。壁画ではあまりわからなかった、神々と悪魔の表情などがよくわかる。神々は、端正な顔立ちをしているのに対して、悪魔は目が大きく厳つい顔をしている。この橋を渡ると南大門だ。夕日に照らされる南大門を見ていると、吉川さんが夕日が綺麗だと教えてくれた為、そちらを見た。すると、木々の間から、大きく、綺麗なオレンジ色の夕日がそこにはあった。そこには更に、堀と男性が。私は夢中でシャッターを切った。絵葉書やカレンダーになりそうな写真が撮れた。私は感動した。カンボジアらしさはあまり出ていないが、お気に入りの一枚になった。
 名残惜しいが、アンコールワット遺跡群を後にした私たちは、カンボジア最後の夕飯を食べ、ミーティングをし、床についたのだった。

  

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9日目



 カンボジア最終日は、児童売買春撲滅に取り組むNGO法人かものはしプロジェクト工房を訪問した。売春は、幼稚園に通っている幼い子も被害に遭っているそうだ。売春の被害が一番多いのがカンボジアである。ほとんどの子は、騙されて売春宿に連れて行かれるようだ。助けられたとしても、その後もトラウマとなって、彼女たちを襲う。私たちにはわからない世界であるが、まだこのような状況が続いている事を忘れてはならないと思う。
 ここで働いている人々は、村で最も家の状況の厳しい女性が多い。家が貧しいと、子どもが売られてしまう可能性が高まるからだ。この工房で働く事を通じて、貧困層の女性たちが経済的・社会的に自立する事を目指しているそうだ。この敷地内には、工房の他に識字教室を開いたり、給食を出したり、託児所もある。工房では、い草商品を作っている。商品ができるまでには、六つの工程がある。まずは選別の工程。い草の産地で有名なカンボジアのカンダーレ州からい草を取り寄せ、太さや色の濃さによって手作業で選別する。次に染色の工程。選別したい草を染料を入れた大きな鍋で煮て、様々な色に染める。最短で五分、最長で二週間ほどかかるそうだ。次は織りの工程。二人一組になり、手織り機を使ってマットにしていく。ベテランの女性たちは、一日に三mものマットを織り上げるのだそうだ。次はカッティングの工程。マットになったい草を、それぞれの製品の形に合わせてカットする。カットするときに必要なハサミやチャコペンなどの基本的な道具の使い方から教えているそうだ。次にミシンの工程。カットしたい草と布をミシンで縫い合わせて製品に仕上げていく。この工程は一番人気で、花形とされている。最後は品質管理の工程。できあがった製品を一つ一つ厳しくチェックする。製品にできないと判断された製品は解体し、新しいものにする。こうしてい草の製品が出来上がる。ここで働いている女性たちは皆、笑顔で楽しく作業をしていた。仕事を楽しいと思えるのはとても良いことだ。見習うべきだと思った。

 彼女たちと別れ、ホテルに戻る。出発は十八時三十分。時間がある為、ホテルの近くにあるマーケットに行った。そこでお昼ご飯を食べ、買い物をした。これがカンボジアの最後の観光となる。

 買い物を済ませ、時間になった。シェムリアップの空港で各自夜ご飯を食べ、夜の便に乗り、ホーチミンへ。ここで安田さんは羽田空港に向かう為、お別れ。日付が変わった真夜中にホーチミン発の飛行機に乗って、朝早くに日本に着いた。

おわりに



 あっという間の十日間だった。だが、とても充実していた十日間でもあった。以前カンボジアに来たときよりも少しだけ大きくなった私は、この研修できちんと学べたのだろうか。この研修では、カンボジアの歴史を学ぶことが主だった。ポルポト政権や地雷という言葉は知っていたが、詳しいことは知らなかった。今でも説明できるかはわからない。だが、少しは理解できていると信じたい。カンボジアは、素晴らしい国である一方、まだ昔の傷が癒えない人や、地雷によって苦しんでいる人などがいる。このことを絶対に忘れてはならない。同じアジアの国として、考えなければならない。そして、カンボジアの人々の笑顔も忘れてはならない。なぜ笑顔が絶えないのか。昔の傷が癒えない人が多いはずなのに。日本のほうが裕福であるのにも関わらず、笑顔はカンボジアに負けているような気がする。日本人は、知らない人には挨拶をしないし、会話をしていても目を合わせない人も多くいる。恥ずかしがり屋の人や、引っ込み思案の人が多いのかもしれない。だが、それは理由にならない。どんなに恥ずかしくても、笑顔を見せることはできるはずだから。日本という国は、優しく温かい国と他国には思われている。さらにここに、笑顔が素敵な国という考えを加えたい。私は接客のアルバイトをしている。接客では笑顔が必要である。だが、同じアルバイト先でも、違う接客業で働いている人も、素敵な笑顔をしている人は少ない。仕事が楽しくない、忙しくて気にしている暇がない、という人もいるかもしれない。だがそれは全て言い訳に過ぎない。お客様に満足して頂けるようなサービスをすることが、一番大事であるからだ。怒った顔や無表情で接したら、お客様はどう思うのだろう。私はこれまで、何人ものお客様に「笑顔が素敵」と言って頂いた。自分自身が、心の底から笑顔をしていると、他人にはそれが伝わるのだ。私は、人の笑顔を見るのが好きだ。だから、自分が人を笑顔にさせようと心掛けている。人が笑顔になる為には、自分が笑顔でなければならない。私はどんな時でも、笑顔を絶やさないようにと、胸に刻んでいる。日本に少しでも笑顔の花が増え、笑顔の素敵な国と言われる日が来ることを祈っている。

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