金城学院大学 国際情報学部 KITカンボジア研修2015

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 何十億人の人が住んでいるこの世界で、今日もどこがで誰かが笑っている一方で同じ瞬間に飢えに耐え心を病み泣いている人がいる。どんなに人間はみんな平等だと言いたくても弱肉強食の社会でそれを実現することは難しい。しかし、力がなくたってお金がなくたって大きく社会を動かすことができなくったって、自分と同じ考えの人が現れなくても、私たちに一人でもできることはある。それは、自分が大切にしたいと思った人たちのことを忘れないでいること、そして考え続けていること。ごく当たり前だけど、どこか忘れていたようなこの2つのことを私はカンボジア研修で学んだ。

 2月11日、1日目。この日、中部国際空港から出発してホーチミン空港を経由しカンボジアの首都プノンペン空港へ到着した。肌を刺すように冷たい空気真つ只中の日本とは違い、外に出るともわんと蒸し返すような空気が立ち込めていた。天然でくせつ毛の私にとっては、ここでの私のヘアスタイルはボンバーになること間違えなしの環境。念のため、日本から持ってきたヘアゴムが必需品確定だ。空港から外に出ると、多くの現地の人が私たちを物珍しそうに眺めていた。それはそうだ、10代そこらの外国人20人ぐらいの集団目を引かないわけがない。バンに乗り込み、夕食をとるレストランへと向かう。その途中、目にする街の光景が私にはあまりにも衝撃すぎた。信号のない道路・1つのバイクに3人も4人もぎゅうぎゅう詰めでバスすれすれを走っている・屋根に人や荷物を乗せた車・砂埃・ゴミが散乱した街・・・・・。「言葉にならない、できない」という表現は、まさにこのような状況にある時に使うのだと思った。
 何も、「カンボジアを見た感想を英語で話せ。」と言われているわけではない。日本語で話せばいい。でも、それができない。喉まで言葉が出てるのに、言葉にならない。ただ、「凄い。」この3文字が、カンボジアで9日間過ごした私の言葉。私の、カンボジア研修は思いを言葉を通して伝えられないそんな日から幕を開けた。

 2日目。「カンボジアの歴史を知る日」と名付けられたこの日は、改めて人間ゆえの弱さを痛感した日であった。「キリングフィールド」「トゥールスレン刑務所博物館」を訪問しポルポト政権下において行われた残虐な行為を知り、人が人として扱われなかった時代がもう二度と起きてはならないと感じた。日本も、昨年戦後70年を迎え改めて命の大切さや戦争を起こさない平和な社会の必要性が叫ばれている。しかし、実際には日本が戦争をいつか起こしかねない道へ進んでいるとも事実だ。だが、戦争を経験したことのない人がいくら戦争経験者の話を聞き受け継いだり、穴の開くほど資料を見返したって戦争に対する思いは底知れず違う。トゥールスレン刑務所に、実際に収容されていたチュン・メイさんからお話を伺うことができた。10分ぐらいの短い間であったが、彼の表情や口調から自分たちが立っている同じ場所で何人もの命が失われたという事実を聞き、いかに今まで自分が戦争という単語を口にしてもその言葉の意味を考えていなかったか痛感した。

  

 3日目。この日は、多くの人の笑顔に触れるとこが出来た。日本のSVAに訪問しプノンペンのスラム地区で子供達に向け行っている移動図書館を見学し、日本から持ってきたおもちゃで遊んだ。私は、実際スラム地区に行くまではゴミが鬱蒼としていてひどい言葉で言ってしまえば物乞いもさせるのではないかと思っていた。しかし、足を踏み入れるとそこは確かに街で見かけた家庭よりかは苦しい生活をしているのが見えたが、住民の人は皆笑顔で突然訪れた私たちを優しく向かい入れてくれた。カンボジアでは、経済発展をするために政府がスラム地区の土地を買い取り強制退去させることも少なくはないらしい。私たちが、訪問した地区もかつて同じ過去を持つ。「それでも、みんなは笑ってる。なぜだろう。」そんな疑問が私の謝の中を離れなかった。子供達とは、塗り絵やパズルで遊んだ。その後訪問したCHAでは、指差し会話帳を片手に働いている女性の方と会話し、一緒に「糸」と「なだそうそう」などを歌った。彼女たちの歌は、おそらく歌詞を音で覚えているのだと思うが彼女たちが声にする言葉に私では耐え切れないほどの温かさをもらった。言葉は通じなくても心のぬくもりは分かち合えるものだとこの日感じた。

  

 5日目。この海外研修の目玉である、IMCCDのあるタサエン村に到着した。この村で、14年間ほどカンボジアの地雷処理活動にあたっている高山良二さんに地雷処理現場に連れて行っていただき、実際に地雷処理を見してもらった。「どーん」。という胸を叩くような爆発音が帰国して1ヶ月経った今日も忘れられない。普段地雷処理をするディマイナーさんが着ている防護服を着させていただいた。重たかった。足場も悪く、蒸し帰る暑さの中日陰のない広大な土地で何時間も重たい防護服を着ていつ発見できるかわからない地雷を探す命がけの仕事に尊敬の念と、こうしなければ安全な生活を手にいれられないカンボジアの今を知った。夜、宿舎にある日本語学校に通う子供たちと遊んだ。みんな人なつこくて可愛かった。ただ、村に滞在した2日間この子たちと遊んだのだが服が変わっていなかった子や靴やバックにねんきがかったものを使っている子も多く、私は毎月新しいものを買わないと気がすまないので自分がいかに恵まれているかをあらためて感じた。でも、その子達にとってはそれが日常であって自分たちの生活を卑下されるということはつらいことであると考えると、そういう考え方をする方がカンボジアの子供達にとって失礼なのではないかと思うようになった。でも。何が正しいのかはわからない。

 6日目。この日は、日系企業と地雷被害者訪問をした。日系企業は、現地住民を雇い技術力を養い、いずれはカンボジア人だけで、企業運営をできるようにすることが目標だという。また、給料は歩合制のため多く仕事をすればその分だけお金がもらえる。家族にとって子供は稼ぎがしらだ。カンボジアでは、18歳から働くことが法律で定めれているが政府の体制が未だしっかりとしていないため、実際は14歳でも働いている子はいるという。従業員の家族のために必死に働く姿が印象に残った。私も、バイトをしているがその給料はほとんど使ったことがない。彼らは、年齢の割には体は小さいがその瞳は力強かった。
 その後、高山さんの友人であるソプンさんのお宅へお邪魔した。彼は、元ポルポト兵士だった。それを知った時私は、1日目に訪れたキリングフィールドで目にした多くの骸骨の姿が頭によぎり、「あれだけの罪のない人を殺した悪い人なのだ。」と思った。しかし、彼自身戦争で足をなくし今は義足生活をしている。そういう人は、カンボジアには少なくはない。この日だけでも、三人の義足使用者に会った。ソプンさんは、何も好きで兵隊になったわけではないという。良い国を作ろうと村の村長さんに言われ10代で兵隊となった。世界では、「戦争で多くの人を殺した人は悪者である。」という概念がある。しかし、ソプンさんのように、自分の意思ではなく兵士になり言われるがままに人の命を奪わなくてはならなかった人もいるのだという事実を知った。「無知とは怖い。」私はその時思った。人は、あるとこをそこまで深く知らなくても、知ったかぶりをして生きていることが多い。それが時にこのような形で人を傷つけてしまうことがある。「私は知りません。教えてください。」この知りたい、もっと聞きたいという感情を出すことが今の社会では恥とされているような感じが私はする。だから、世界では偏見や差別が無知によって生み出されるのではないだろうか。本当に守られるべき・尊ばれるべき人は誰なのか今一度考える必要があるのではないだろうか。

  

 7日目。タサエン村を出る前に高山さんから地雷についての説明を受けた。対人地雷の不発弾を手に持つ女性でも握れるくらいに小さかった。衝撃だった。たった拳1つぶんの大きさしかない地雷が、人の一生を左右してしまう。地雷に目はない、心はない。ただ、埋められて踏まれたら爆発するだけ。地雷が人を傷つけるけれど悪いのは地雷じゃない。悪いのは、自分の欲に溺れ夢を叶えるためだけに何の罪もない多くの人を亡き者にしようとした権力者。そして、それをダメでと言えなかった時代。そんな時代がもう二度と来ないことを望むけれど、それが保証される確証はどこにもない。国民が政府にものを言えなくなる時代が来たら、それは覚悟の時。私は、そんなふうに思う。悲しいけれど、嫌だけど。
 その日の昼過ぎからは自由行動だった。シュムリアップに向かうバスの中で、安田さんに「希望者のみでゴミ山に行こう。」と言われた。私は、正直行きたくなかった。ここまでの6日間は、私にとってあまりにも衝撃すぎてこれ以上を受け止めきれるか不安だった。友人の中には早くも「もう一度カンボジアを訪れたい。」と話す子もいた。しかし、私は不謹慎かもしれないが「もう一度カンボジアに行きたい。」とは思えない。もう、帰国して1か月以上経っているのに私の中では消化しきれていない。それは、カンボジアに行く前にもっとこの国のことを調べておくべきだったと深く後悔しているから。カンボジアは良い国だ。日本にはない、人と人のつながりの深さ・心の暖かさがある。だからこそ、私はもっとカンボジアのことを勉強してそれから足を運びたいと思う。この国に行けてよかった。この言葉に尽きる。話が脱線したので元に戻すと、私は迷いながらもゴミ山に行った。そこは、暗くゴミが山積みでハエが飛び、子供の泣き声が響き渡る・・・そんな場所ではなかった。驚くことに。ゴミは、山積みで匂いはしたがここで生計を立てている人は笑顔だった。驚くほどに。

 8日目。アンコールワットを見学。神秘的だった。空が高いこの国で変わらぬ姿があるのだと思った。正直、カンボジアに来る前は1番楽しみにしていた場所なのに文章にするとこれぐらいしか書けない。でも、すごかった。
 9日目。人身売買に取り組むNPO法人かものはしプロジェクト工房を訪問した。人身売買は、最貧困層の家庭に多く見られるのだという。ここは、そのような家庭にいる女性を雇いい草を使った商品を作らせ技術を身につかせたり、給食を通して栄養バランスの知識を教えたりしている。ある、従業員の女性の家にお邪魔したが日本よりはるかに暑い気候の中でも家には窓はおろか空調設備はなく、家にある電球は1つのみであった。カンボジアにいた頃は、そのような家を多く見てきたため、たいしてこのような環境を気にしなかったが実家に戻ると彼女たち家族が全員で暮らしていた大きさの部屋を持ち、自分のパソコンやクーラーなどを持っている私はいかに恵まれているかを感じた。また、同時に今世界中からカンボジアにボランティアや援助金が渡っていると思うが、カンボジアがそれに頼ることなくいつの日か先進国の仲間入りができるように、国民が向上心を持って自分たちの手で国を発展させていかなくては何も変わらないのではないかとも感じた。このように感じた理由は、勤勉な国民と言われるいち日本人の目から見れば、日中もハンモックで揺られのんびりしている人の光景を多く見かけ国民の中で、時間の使い方に多くの格差があると感じたからである。国もしくは自分の経済発展のため・医療の現場で多くの人を助けるため・家族のため・国の安全のために必死に働いている人もいる中で、身体的問題等で働きたいのに働けない人がいるのも現状である。おそらく、このような人々の中には日々生きていることに価値を見出せないでいる人も多いのではないかと思う。そのため、政府が今のカンボジアをいちから見直す必要があると感じた。
 最後になるが、私はこのカンボジア研修に参加してよかった。いくら、テレビや本でその国のことについて知ろうとしても、必ず第3者の主観や権力者による封じ込めがあり必ずしも正しい情報が知れるわけではない。しかし、実際に足を踏み入れることで目で街や国民を見、その土地のものを食べ、匂いを嗅ぎ、人に触れ五感で感じることができる。こうして、知らなかったもの見えなかつたものが見えてくる。私は、今回の研修でこのことを身を持って感じた。私は、今度ベトナム人の子供達に日本語を教える活動をする。これをやろうというきっかけを作れたのは、紛れもなくこの研修に参加したからだ、できたからだ。これから先の私の人生において10日間は大きな存在になると思う。

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