金城学院大学 国際情報学部 KITカンボジア研修2015

← 目次へ

はじめに

 私は、大学の海外研修の授業「KIT」でカンボジアに行きました。カナダやハワイなどの数ある選択肢の中からカンボジアを選んだのは、単に珍しい体験をしたかったからです。そんな考えを持っていた私ですが、10日間の研修でいろいろな体験をし、カンボジアが大好きになるのでした。

1日目(2月11日)

 日本からカンボジアへ旅立ちます。まずは飛行機でベトナムのホーチミンへ。飛行機から降りると暑い。日本の気温は約15度でベトナムは約35度。久しぶりの夏を感じながら、続いてカンボジアのプノンペンへ。
 空港から出ると、想像通りのカンボジア。アジアンな色と柄の服を着た人達。沢山のお坊さん。道路には2人乗りは当たり前のバイクの海。そんな中をバスに乗ってくぐり抜けてレストランへ。カンボジア初のご飯を食べました。パパイヤが嫌いな食べ物の1つに加わった日でした。

2日目(2月12日)

 カンボジアに来て最初に訪れたのは、キリングフィールド。ここは、かつてカンボジアが先進国の勢力争いに巻き込まれたとき、内紛が起こり、多くのカンボジア人(カンボジアに住む人)がカンボジア人に殺された場所です。キリングフィールド内の慰霊塔にあるガラスケースの中には、8985体の死体が頭蓋骨や様々な部位の骨となって入っています。
 私は慰霊塔の前に線香をあげ、手を合わせて中に入りました。慰霊塔自体は狭くて、壁の際に立って手を伸ばしたら届く距離に沢山の骸骨が入ったガラスケースがありました。パシャパシャ写真を撮って、一息つきます。このときの私は、沢山の骸骨が目の前にあっても落ち着いていました。それは、事前学習でキリングフィールドのことを学び、骸骨の写真を見ていたからです。「あ、ネットで見た通りだ。多いなぁ。そろそろ出ようかな。」と思ってふと上を見上げて、私は絶句しました。骸骨が入ったガラスケースは慰霊塔の天井まで届いていて、視界の全てが骸骨で埋まったのです。無数の骸骨が私を見ているようでした。恐怖と圧迫感が私を襲い、頭が痛くなりました。
 慰霊塔を後にして、私はキリングフィールド内を歩きました。すると、木で作られたアスレチックのような足場がありました。これは近年作られたもので、足場の下にはまだまだ数え切れない骨が埋まっており、それらを踏むのはいかがなものか、と作られたのです。雨期になると土が掘り返されて骨が見つかるそうで、私は腕の骨と子どもの頭蓋骨の骨を簡単に見つけることが出来ました。
 足場はいろいろな方向に伸びており、その1つを選んで進むと木の柵で囲まれた場所と、それを覆う屋根がありました。それはいくつもあり、その柵の中で殺された人々の種類(役人や子ども、女性など)によって分けられていました。柵の1本1本にはいくつものミサンガが掛けられており、亡くなった方達が幸せな来世を生きることを願い、訪れた人が掛けたのでした。子どもが殺されたそれの隣には大きな木が立っており、その木の剥がれた皮にもミサンガが掛けられていました。その木はキリングツリーといい、足を掴まれた子どもが木に頭を打ち付けられて殺されたのでした。木を見ていると、頭を打ち付けられる子どもが浮かんできて不快感と恐怖と怒りがこみ上げました。他にも、殺された人が着ていた服や、ギザギザの鈍い刃をもつヤシの葉(鈍い刃なので切りにくく、すさまじい痛みを与えながら人の首を切っていた)があり、本物なので全てが生々しく、言葉に表せないほど恐ろしかったです。

  

 続いて、午後に訪れたのは、トゥールスレン強制収容所です。ここは、キリングフィールドに連れて行かれる前の拷問施設で、AからDまでの棟があります。ここには、人を収容するための建物と様々な拷問器具がありました。
 まず私はA棟に入りました。A棟は部屋がいくつかあり、その中にはベッドと鉄製の足枷と箱がありました。入って最初に感じたことは、とにかく暑いということです。窓が機能しておらず、空気の入れ替えがされていませんでした。これは、拷問のときに叫ばれて、拷問施設の存在が明るみに出てしまうのを防止する目的があったそうです。ここでは、ずっとベッドに寝たきりで1から6ヶ月おり、その間大便は箱の中でします。箱から漏れて床を汚してしまったら自分の舌で掃除します。この説明を聞き、気持ち悪さがこみ上げました。その光景が浮かび、人としての尊厳が失われたような悲しみと、屈辱を感じました。
 次にB棟に入りました。ここには犠牲者の写真が張り出されています。全員が痩せており、黒いユニフォームを着ていました。また、女性は髪がおかっぱのように短いという共通点がありました。数え切れない数の顔に、キリングフィールドで沢山の骸骨に見られている様な恐怖感が再び私を襲い、目をそらしたくなりました。写真の中に、無表情の女性が生まれたばかりの子どもを抱えている写真を見つけました。この子どもはここで生まれたのか、性的な拷問によって生まれた子どもなのか、生まれた後どうなったのか、という考えが頭を巡りました。女性の無表情が悲しくてしかたありませんでした。
 最後にC棟です。C棟は全体に鉄くさびのカーテンが掛けられていました。これは、犠牲者達の自殺防止のためです。拷問に耐えかねて、転落死(自殺)をする犠牲者が後を絶たず、設置されたものでした。先に述べましたが、ここは拷問しかしてはならず、犠牲者に自殺されるのはガードマンの責任となり、ガードマンが犠牲者となってしまうのです。このとき、ガードマンはしたくて拷問をしていたのではなく、しないと自分が犠牲者になってしまうから、という理由があったことを知りました。なんとも言えない気持ちでした。
 一通り見終わった後、約2万人が収容されたこの施設で生き残った7名の内の1人の男性に話を聞かせていただきました。彼は、自身のトラウマと言えるこの施設へ通い、数少ない生き残った1人として当時のことを伝え続けています。
 彼は、私を2度目の棟内へ案内しました。まずA棟へ。ベッドの周りの床にある黒ずみが血であることを教え、実際に足枷を嵌めているところを見せてくれました。続いてC棟へ。C棟の部屋の中は、レンガで壁が作られ、1畳弱ぐらいのスペースがいくつかあり、その正体は独房でした。152㎝の私が独房に入ると、圧迫感を感じ、入っていたのはほんの少しの間でしたが、頭がおかしくなりそうでした。
 彼が施設に来るきっかけを話してくれました。彼は修理屋で、車の修理を依頼され、連れて来られたのがトゥールスレンだったのです。2万人近くも収容された施設があることが、カンボジア内で噂にもなっていなかったのか、と聞くと、全く知らなかったそうです。それもそのはず、トゥールスレンもキリングフィールドも、常に上がる悲鳴をかき消すために爆音で楽しげな音楽を流し、施設の周りに住む住人たちは「楽しい施設」と思い込んでいたのですから。
 「キリングフィールド」や「トゥールスレン」という名前だけは勉強してきた私に、彼は自分が受けてきた拷問や屈辱の数々を話してくれました。それらは、忘れてしまいたい、知られたくない、思い出したくないことだと思います。それにも関わらず、足枷を嵌め、独房の中に入って説明をしてくれました。言葉は直接通じませんが、彼の目がギラギラと私に伝えようとしてくれているのがわかりました。彼は「若い人達が勉強してくれて嬉しい」と言っていました。なんだか泣きそうになりました。
 キリングフィールドとトゥールスレンにはポルポト派が大きく関わっています。ポルポト派は、ポルポトという人物を中心に、アメリカとソ連の代理戦争でいいように利用されているカンボジアの状況を打破しようとした人々が、いいなりのままの人々や頭がいい人(頭がいい人は抵抗できるから)を虐殺していき、良い国を作ろうとしたのです。良い国にしようとした結果200から300万人の人が亡くなりました。どうして知らなかったのだろう。どうして知ろうとしなかったのだろう。今日訪れた施設を私の周りにいる人々は知っているのだろうか。私は知らなかった。もしカンボジアを訪れなかったら知っていただろうか。知った自分はこれからどうすればいいだろうか。伝えなければいけない。大量の頭蓋骨に見られていた恐怖を。拷問部屋の暑さを。私の拙い写真に文字を添えて伝えなければいけないと思いました。

↑ PAGE TOP

3日目(2月13日)

 今日は、カンボジアを拠点とするボランティア団体を訪れました。スラムを中心に活動するSVAでは、まずカンボジアについて少し勉強しました。世界的にはもう発展途上国ではないということ(GDPに基づく考え方でいうと)。主な産業は縫製で、ナイキやGAPなどのブランドが進出しており、70万人ほどが縫製の仕事をしていること。政治はまだまだで、世界で最も森林減少率が高い国であること。ここ2、3年で給料が倍になっていること。1500万人中100万人がタイへ出稼ぎに行っていること(特に農家は、乾期は仕事がなく、出稼ぎに行く)。GDPからみる考え方では発展途上国ではない、というカンボジアですが、とてもそうは思えませんでした。都市はどんどん発展していき、煌びやかなネオンやイオンもあります。しかし、もともとイオンがあった場所は巨大なスラム街があったのです。そこに住む人々は、政府に強制的に追いやられてしまったのでした。その移動させられたスラムの人々に私は会いに行きました。

 

 スラムまで乗ってきたバスを降りると、子ども達が2列に別れて通路を作っており、私を出迎えてくれていました。そして、スラムを見て回りました。しっかりした木造の家が並んでおり、どこの家にも子どもがいます。あるお家を見せてもらうと、1人のお母さんが4人ぐらいの子どもに囲まれており、子ども達の話を聞いていると、「この子は私の子、○歳。あとは知らない。いつのまにか居た」との事でした。きっと他の子ども達の親は今留守にしていて、遊びに来ているのかなと思いました。それにしても、知らない子どもの面倒をみているお母さんにびっくりしました。しかし、カンボジアではそれが普通なのです。家族という概念がものすごく広い。スラム全体で子どもを育てているという感覚かな、と思いました。
 SVAは、教育を受けることが出来ないスラムの子ども達に、紙芝居を用いてゴミ捨ての大切さなどを教えています。その様子を見せていただきました。小学校3年生以下に見える子ども達がずらっと5、60人程。写真に写っている人数を数えてびっくりしました。皆、紙芝居にかじり付いてみていました。紙芝居で勉強した後は、日本から持ってきた遊び道具を使って子ども達と遊びました。鞄から出した瞬間子ども達が楽しそうに寄ってきます。大縄飛びをしたり、シャボン玉をしたり、カメラで写真を撮ったりしました。言葉が無くても子ども達と楽しく遊ぶことが出来ましたが、子どもの名前や年齢を尋ねる言葉ぐらい覚えておけばよかったな、と思いました。
 スラムを離れ、今度はCHAというボランティア団体を訪れました。ここは、病気で仕事に就けない女性、家庭内で暴力を受けているような女性に手に職をつけさせて、自立させるといることを目的としています。
 働いている女性達とカンボジア語の本とジェスチャーを使って交流しました。女性の名前の発音が難しくて、満足に呼ぶこともできませんでしたが、話し続けて笑顔が生まれて嬉しかったです。
 街に戻って夜ご飯を食べた後、カンボジアに根強く残る売春の現状を見ました。カンボジアでは、お金のない親に売春宿のバイヤーが近づき、良い仕事がある、と女性を連れて行きます。中には幼稚園生の年齢の女児も連れて行かれます。需要があるからです。彼女達は1万円程で売られます。驚きすぎて何も言えませんでした。1万円程度で売ってしまう親に。でも、教育を受けていないと、娘を売春宿に売ってしまったことにも気づかないというのです。娘は売った両親を憎みません。売春をやめようとも思いません。なぜなら、自分が稼いで仕送りしないといけない、と家族のためを思うからです。なかにはHIVなどの病気にかかってしまう売春婦もいます。病気にかかると売春宿は女性をクビにします。それでも女性は売春婦をやめず、立ちんぼ(買ってくれる人を待つ行為)をします。どうして他の仕事をしないのか。それは、売春しかお金を稼ぐ手段を知らないからです。それしか選択肢が無いからです。親の世代が教育を受けず、仕事に就けず、結果売春宿に売られるということがまだまだカンボジアには蔓延しています。売春宿を巡るツアーも存在します(もちろん公にはされていません)。
 実際に立ちんぼをしている人を見て、今まで名前だけ知っていた「売春」を初めて身近に感じ、自分が生きている世界に存在しているのだな、と思いました。もしカンボジアに生まれていたら、私にも立ちんぼをする人生があったのかもしれない、と考えましたが、あんまり頭が回りません。確か20時ぐらいだったのですが、子ども達と遊びすぎたか、2日目、3日目といろいろな事を考えすぎてパンクしてしまったのかもしれません。ホテルに帰って友達と考えをぶつけ合いました。上手く言葉にできなかったけれど。でも話さずには居られませんでした。何も出来ないから、何とか言葉にして、もどかしい思いを吐き出さないと、教育にもお金にも本当の意味で不自由な思いをしたことのない私は、立っていられなくなりそうだったのです。

↑ PAGE TOP

4日目(2月14日)

 今日は、タサエン村に行くために大移動の日でした。バスに7時間程乗ってプノンペンからバッタンバンへ向かいます。都市から離れるにつれて、道路は舗装されておらず、でこぼこ道になり、窓の外は土埃が舞っていました。1日中寝ていたようなものでしたが、何も考えなくて良かったので、救われました。頭の中が軽くなりました。

5日目(2月15日)

 2時間程かけてバッタンバンからタサエン村に到着。村に住む日本人の高山さん(以下ターさん)にお会いしました。ターさんは、自衛隊員の仕事でカンボジアに訪れ、定年退職した後にカンボジアへ戻り、タサエンを中心に地雷処理の活動をしています。村に着いて1番最初にターさんのお仕事を見させていただきました。
 村から30分程歩いて地雷原に着き、ターさんと共に働くデマイナー(地雷処理をする人)さんに出会いました。ここで、地雷処理の場面を見せていただくので、ターさんに続いて地雷原の中に入っていきました。もちろん地雷除去済みの場所を歩いているのですが、もしかしたら、という恐怖が襲ってきて、ターさんが踏んだ場所を一歩も違えずついて行きました。除去済みの場所で足がすくむ程怖かったので、ターさんやデマイナーさんたちが感じている緊張感をほんの少しですが味わうことが出来ました。そして、目の前に地雷がある状況がありました。ほんの3mぐらいの距離です。現実的じゃなさ過ぎてすこし落ち着いていました。ロケット、対戦者用地雷、対人用地雷の3種類を見せていただき、ついに爆破処理です。最初に予定されていた位置ではまだ危ない、とデマイナーの方が十二分に安全を考えてくださって、更に離れた場所から爆破処理を見守ります。カメラの準備をして、待ちます。導火線に火をつけて地雷から走って離れるターさん達。そして約2分後。パァン!という痛い破裂音が耳に刺さりました。その音はお腹の奥に、心臓に響き、重くて、「うっ」と声を漏らしてしまうぐらいでした。爆破処理後、土はえぐれて捲れ上がっていました。
 爆破処理の現場は、普通見せてくれるところなんてありません。しかし、ターさんが何かあったときの全責任を負う、ということで見せていただけたのでした。本当に貴重な体験でした。ありがとうございました。

 


 村に帰り、夕方。日本語教室に通う子ども達と遊びます。クメール語(カンボジアの言葉)での挨拶はお手の物で、自分の名前、年齢も話すことが出来るようになりました。そして、子ども達とめいっぱい遊びました。走り回って、しゃがんで飛んで、クタクタです。今日が誕生日の子どもをお祝いするための色鮮やかなケーキが振る舞われ、それを皆で食べると思ったら大間違い!クリームを手にとって顔に付けられるのです!またまた大はしゃぎで、さっき走り回って疲れた私は沢山のクリームをお見舞いされるのでした。ケーキで遊んだ後、おいしいご飯を頂いてからハンモックで眠りにつきました。

↑ PAGE TOP

6日目(2月16日)

 今日は、ターさんにタサエンの周りにある日本企業に連れて行って頂きました。まず、日本で有名な100円ショップの下請け会社へ行きました。従業員の9割が女性で、子どもを連れて仕事をしている女性もいました。ここは、基本給プラス歩合制で、本来は休みの日曜日も働きたい、と従業員がやってくるそうです。
 一生懸命働いている姿を見せていただいた後、ターさんと親交のあるポルポト派だった方にお話を聞きに行きました。その方は現在5、60代の男性で14歳の時に寺に連れて行かれ、思想教育を受けて兵士になったそうです。兵士になってからは自分達の手で、カンボジアを良い国にしようと命をかけて本気で戦っていました。
 「どっちが悪いか」という問題に私は答えを出すことが出来ません。ポルポト派は人を殺さず、反抗したとして、自分が殺される。キリングフィールドやトゥールスレンがあるプノンペンでは、ポルポト派は悪とされ、タサエンの方では、ポルポトさんは良い人という意見がある。ポルポトは本気で良い国を作ろうとしていた、その結果が何百万人もの死人をだしてしまった。もし、この方のお話を聞かなかったら、私はポルポト派が悪い、と決めつけていたと思います。ポルポト派の人の言葉に耳を傾けようとしなかった。このような、物事の一面しか見ない事は日本のマスメディアでも良く起こっていることだと思います。身をもって学びました。無知ほど恥ずかしくて恐ろしいことはありません。とんでもないことをしている、と気づいたとき、良い国にするために戦っていた兵士達は何を思ったのでしょうか。私には想像することも出来ません。

 続いて、またまたターさんのお知り合いのケインさんにお話を聞きに行きました。ケインさんは地雷によって片足が吹き飛び、治療が後れたために膝上から足を切断しました。膝上から切ってしまうと、義足の実用化が難しく、手先が器用なケインさんはお手製の義足を使っています。そんなケインさんもまた、かつてポルポト派の青年でした。2人ともとても優しい方で、とてもとてもそういうことをしているように見えません。私は、どう質問すれば良いのかわかりませんでした。どこまで踏み込んで良いのかわかりませんでした。
 次に、ターさんがタサエンで地雷処理の活動をしていて、過去に1度起きた事故によって亡くなった7名の方が入っている慰霊碑を訪れました。事故は、ターさんが村を離れたときに起こりました。この事故を踏まえ、地雷処理の編成を変えるなどのよりいっそうの改善に努めました。最終的にターさんも仲間の1人として慰霊塔の中に入ろうと思っているそうです。
 まだお昼の時間です。ターさんのお友達のコイ・デンさんの家にお邪魔しました。彼は両足が義足で生活をしています。現在の職業はなんと農家さん。広大な畑は、広げるのに15年ほどかかったそう。デンさん自ら畑に出て、義足でココナッツの木に登り、実を収穫します。義足をしているデンさんは、いわば身体が不自由な方です。私の中では、身体が不自由な人と農家という職業が結びつきませんでした。しかし、障がいがありながら、完全に自立して生きていました。こんな光景、日本にもあるのでしょうか。日本の障がいのある方の就職について興味をもった一件でした。いつまでもご夫婦仲むつまじく暮らしてください。

 本日2つめの日本企業訪問です。日本で有名な着物会社の畳紙を作る会社にお邪魔しました。この企業も女性がほとんどで、子どもを連れているお母さんが働いていました。本格的に活動して1年と少しだそうですが、開始当初は不良品ばかりで、1年かけてやっと安定してきたのだと日本人社員の方はいいます。完全出来高制で、1人あたりの収入はだいたプノンペンの大卒の初任給と同じくらい。日本の企業が雇用を生み出しているということが、まるで自分が良いことをしているような気持ちになって、嬉しい。
 朝からいろいろな所を見て回って、夕方にタサエン村へ。今日は、日本語学校で子ども達の先生をしました。勉強した後はまたまた遊び。走ってしゃがんでクタクタ。そして、少し驚いたことがあって、積極的に話しかけてくれた子ども達が私の将来の夢を聞いてくる。私だけじゃ無くて、友達にも。あまりにキラキラした目で聞いてくるから、無いなんて言えず、かつて志していた夢を話すと更にキラキラした目で今度は自分の夢を話してくれた。先生、通訳、歌手。皆が何かしら夢を持っていた。少しだけ自分が情けなくなった。

7日目(2月17日)

 今日はさよならタサエンの日。朝食を食べた後にターさんが処理したいろいろな種類の地雷を見せていただいた後、村の名産品になる予定のキャッサバのお酒(ソラークマエ)の製造施設を見て、ついにお別れ。タサエン、一時はどうなることかと思ったけれど、1番楽しかった。またいつか、今度は自分の夢をしっかり持って来たい。
 バスに乗って揺られてシェムリアップへ。今日の日程は、その後自由行動だったのですが、急遽希望者のみでシェムリアップ中のゴミが集まるゴミ山に行くことになりました。トゥクトゥクで40分ぐらい。ゴミ山が遠くで見えてきた状態になると、鼻が曲がりそうな生ゴミのにおいがしてきました。目の前まで来ると、視界がゴミで埋まります。ゴミ山とゴミ山の間の道を進んで行くと、大人達がトラックから運ばれてきたゴミを囲んで、棒などで選別しています。これは彼らの仕事で、ゴミの中からお金になるペットボトルなどを探しているのです。ゴミは10、20分くらいの間隔でまた運ばれてきました。このゴミは、ほとんどがカンボジアに訪れた観光客が出したものです。18万人の都市に300万人の観光客が訪れるので、自然とそういうことになります。私が出したゴミもここにやってきます。
 どうしてゴミが溜まっていくのかというと、カンボジアにはゴミを処理する施設がないからです。ゴミがなくならないまま新たなゴミが積まれ、山が出来ます。政府は、最貧困層の彼らがゴミを漁って生活をしていることを隠したいので、何もしないまま。今日も彼らはゴミを漁って生活しています。この生活には、危険が伴います。ゴミの中にある鋭利な物によって傷が出来、そこから感染症になってしまう。ゴミ山が崩れて、多くの人が押しつぶされるという死亡事故も過去にありました。そして、お話を聞いた中で最も衝撃だったのは、子どもの臓器売買です。大人達は皆一生懸命仕事をしていて、子どもがポツンとしている状況を見ました。そのときを狙って、バイヤーが子どもを連れて行ってしまうのです。親はすぐに気づくことができません。過去にあった一例では、臓器売買の被害に遭った子どもの遺体が、ゴミ山の中から見つかったそうです。それでも、働き続けます。

 

 ここを訪れた後に、ホテルに戻って少し友達と話し合いました。友達の考えは、「自分があのゴミ山を作った内の1人だなんて。荷物を軽くするために物を捨てようとしていた自分が恥ずかしい」。私の考えは、「今日、私が捨てても捨てなくても、彼らの生活に何も変化は無い。私が出来ることは何もないし、もし捨てた物の中にお金になるような物があれば彼らにとっては良いのかもしれない」。どれも間違っていないけれど、正解なのかはわかりません。でも、考えることをやめてはいけない。直接的に関わっていることを前に、現状を1mmも動かすことができない私は考え続けることにしました。

↑ PAGE TOP

8日目(2月18日)

 今日は、遺跡巡りの日です。沢山の顔が特徴的なバイヨン、自然の中にあるタプローム、壁画が美しいアンコールワットなどを日本人ガイドの吉川さんと共に訪れました。その中で、吉川さんがいろいろなお話をしてくださるのですが、彼女の考えは、私のもやもやした頭の中を少しスッキリさせてくれました。

 「答え合わせをする日本の文化。違っても良いから、それを見せるのが大切。何でもタブーにしてしまうと、歩み寄れなくなってしまう。例えば、物ごい(のような質問しづらいこと)について聞いちゃいけないわけじゃない。聞いて、「どうして」とか次に繋げることが大切。」
 答えが違っても良いのか、「どうして」と疑問に思ってもいいのか、と頭の中がパッと晴れました。
 その夜、今までのカンボジアでの生活で学んだこと、思ったことを発表するミーティングが行われました。言葉にすることが難しいことを思い思いに熱く話して、思わず泣いてしまった子もいました。ほぼ毎晩、その日の総まとめをするミーティングがあったのですが、そのたびにカンボジアが好きになり、一緒にツアーに参加した皆を好きになりました。熱くなって、友達と話し合ったりするのです。泣きながら話し合うのです。今まで学んだことは、知らなくても困らないこと、でも、知ることを選んだ私は、考えることをやめないのです。やめることができないのです。もう何も知らなかった頃に戻れないのです。

9日目(2月19日)


 朝から、かものはしプロジェクトというボランティア団体を訪れました。かものはしは、貧困のために娘を売ってしまうほど貧しい家庭の女性を雇用し、売春に泣く人々を減らす活動をしています。ここで働く女性の多くは、義務教育も満足に受けることが出来なかった人ばかりなので、就業時間の他に、勉強する時間があり、勉強して他に夢をもった女性が、かものはしから巣立って行くこともあるのだとか。
 かものはしで働く同い年(19歳)の女性のお家にお邪魔しました。彼女の家は、しっかりしたよう見えましたが、安い素材を使っているので熱が逃げず、室内は高温になってしまうそうです。特に乾期の昼間は家の中に居られず、外のハンモックで日が落ちるまで過ごすのだとか。また、家の近くにある井戸を見させて貰うと、水は濁っていてとても飲めません。これを飲んでいるのか、と思いきや、石や砂利などが入った浄水器に濁った水を入れると、チョロチョロと透明な水が出てきました。これを見たときに、最終日ということもあって、今までの思いがこみ上げました。日本だと当たり前のことが、カンボジアでは当たり前ではない。私は日本に帰ってもカンボジアの事を思っていることができるだろうか。思い続けたい、考え続けたい、けれど時が経つと忘れて、風化していってしまうのだろうか。カンボジアへ来る前の自分にいつのまにか戻ってしまうのではないか。怖い。そんな思いでした。

 

 最後に自分自身へ恐怖を感じ、かものはしを後にしました。その日の夜に、向かうは空港です。長かったのか、短かったのか、とにもかくにも充実した日々を過ごしたカンボジアから、日本に向かって飛び立ちました。

10日目(2月20日)

 朝、日本に到着してすぐにトイレへ。皆日本のトイレに大感動。すごいすごい、と興奮気味。日本すごいなぁ。
 10日間過ごした皆と解散。私は帰る方向が一緒の友達と電車を待ちました。その間話していたのは、「誰とも目が合わない」ということ。カンボジアでは、知らない人でも、目が合ったらニコッと笑って手を合わせ「チュムリアップスオー(こんにちは)」と挨拶をし、何があったという訳でもなく、また手を合わせて「オークン(ありがとう)」と言っていました。それがカンボジアでは当たり前だったので、日本では当たり前では無いということを思い出した時に、心が寂しかったです。
 友達とも別れ、寂しい気持ちのまま家へ向かいます。その時、すれ違った名前も知らないおばあちゃんに私は、「こんにちは」と挨拶をしました。すると、「こんにちは」と返ってきました。普通のことです。挨拶に挨拶が返ってきただけ。でも、そのときの私にとっては特別で、嬉しくてにやにやしながら家に帰りました。

おわりに

 カンボジアから帰国して1ヶ月あまり。私は、毎日カンボジアのことを考えています。大したことではありません。例えば、このカンボジアのレポートの事とか、友達にカンボジアへ行ったことを話す度に思い出す、とかそんな感じです。9日目に感じた不安をよそに、毎日カンボジアのことを考えているので、私の中で全く色褪せることがありません。その理由に、毎日が貴重な体験だったから、ということもあると思いますが、私は、このKITカンボジアの目的が「世界の撮り方・伝え方を学ぶ」ということだったからだと思います。カメラだけでなく、自分の目に、心に焼き付いているから、色褪せない。KITでカンボジアへ行くことが出来て本当によかったです。「私は、カンボジアへ行ったことがあります」と誰かに話すことができるのは、私の最高の自慢です。

← 目次へ