金城学院大学 国際情報学部 KITカンボジア研修2015

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はじめに

 2016年2月11~20日、金城学院大学国際情報学部の研修プログラムとして、カンボジアを訪れた。フォトジャーナリストの安田菜津紀さんに同行していただき、“伝える”ことについて学んだ。研修では写真と言葉を使って、ミーティングなども交えながら、各々感じたことを共有した。今回は、研修で感じたことを中心に、レポートとしてまとめた。

伝えることの難しさ


17階建ての塔に8985体の遺骨が並ぶ

  シャッターを切ることにためらった。
 2月12日、私たちはプノンペンにあるキリングフィールド、そしてトゥールスレン刑務所博物館(通称S21)に訪れた。悲劇の処刑場となったキリングフィールドは全国で388か所、刑務所は196か所に上る。私たちが訪れたこの場所も、その中のひとつ、たったひとつなのである。刑務所、ここではS21、に収容された者は、多くの拷問を受けた後、やがてキリングフィールドで処刑された。
 キリングフィールドでまず向かうのは、高くそびえ立つ慰霊塔である。安田さんに習い、一人ずつ線香をあげ慰霊者と向き合った。そしてゆっくりと、静かにその建物に入った私は、その瞬間何も考えることができなかった。
 これは一体なんだ。知識として頭にあったことは何も私の思考には働かなかった。そこにある現実を受け止めることが精一杯であった。カメラを構えるのに、ファインダー越しに見えるその光景に、シャッターを押すことができない。ようやく写真に収めることができたが、それまでにどれだけの時間と気力を要したかは定かでない。とても長い時間だったように思う。その後は、場内を回りながら、この場で起こったことを、現実のものとして少しずつ受け止めていった。受け止めるといっても、受けることでいっぱいで、出てくる言葉はほとんどなかった。当時、場内では楽しげな音楽を大音量で流していたという。外からは“楽しそうな場所”と思われていたと聞いたときは、知らないことの怖さを感じた。

  
*左:衣類が地面と一体化している。右:幼い子供はこの木に打ちつけられた。

 午後にはS21に向かった。ここではチュンメイさん(85)にお話を伺うことができた。チュンメイさんは戦中、実際にこの場所に収容されていた。当時、縫製機械の修理士であった彼は、車の修理を理由に政府軍に連れて行かれた。身長を測り、写真を撮り、そして目隠しをされて房に入れられた。想像する強制収容のあり方とは全く違うのである。その多くは、現実で何が起きているのか知らないままに、巻き込まれていくのである。チュンメイさんは当時のことを私たち一人一人と向き合うようにして話続けてくださった。「質問はありますか」話の最後で彼は問いかけた。しかし私たちのほとんどは思うことを伝えられなかった。最後に彼は自分の経験を綴った本を紹介してくれた。“伝えたい”その気持ちがひしひしと感じられた。
 その夜の全体ミーティングでは、全員堰を切ったようにその思いを吐露した。「通常の観光地とは違う、ここは実際に悲惨な出来事が起きた場所で、果たしてバシャバシャと写真を撮っていいものなのか。当時の心境はどうであったのか、現地に行くからこそ知りたいことは沢山ある。でも、これだけつらい思いをした経験者にそのまま疑問をぶつけるのは、相手の傷をえぐるのではないか。そう思うと何を聞いていいかわからない。とにかくショックが大きい。」そうした中で出たある言葉があった。「つらいし、ためらう。けど写真を撮らなきゃ、何を伝えるの?」
 当時のポルポト政権下では、誰しもが自分を守ることで精一杯であった。政府が絶対の存在であり、逆らえば即、犯罪者とされる。自分の命を守るには、家族すらも見棄てなければならない。無関心を装うことが彼らの防御であった。政権下では宗教も教育も法律すらなかった。そのことは、民衆から知識を奪い、倫理や道徳も享受されなかっただろう。知識もなく、自分の身は自分で守るしかなかったことは、無関心に拍車をかけた。
 無関心が人を殺す。他人との距離が希薄になってきた現代日本でも、同じことが起こりうるのではないか。いじめ問題も、加害者と被害者という対立ばかりに目を向けるが、実際はその周りに大多数の傍観者がいる。大多数の無関心が少しでも関心を持って歩み寄れば、知らずに起こってそして気づいた時には取り返しがつかない、そんな悲劇は免れるのではないか。当事者が発する言葉の力は計り知れない。しかし、彼らのことばをより広く伝えるためには、大多数の第三者の力が必要である。
 しかし興味も関心も、何かのきっかけがなければ湧き起こらない。子供の頃に読んだあの本が、たまたま見ていたTV番組が、何がきっかけになるかはわからない。私たちは、受け止めることでいっぱいで、持ち帰ることができたのはほんの一部で、もどかしい気持ちを今も抱えている。しかし、写真を撮り、話を聞き、生活をし、感じたことは沢山ある。この写真が、この言葉が、自分のそして誰かのきっかけになればいい、その思いを抱いてからは、まっすぐ向き合ってシャッターを切ることができた。
 無関心であることは楽だけど、その末路はここにある。ここは単なる悲劇の場所ではない。

正義とは、悪とは

 2月15〜17日は、タイ国境近くのタサエン村に滞在した。NPO法人国際地雷処理・地域復興を支援する会(IMCCD)の代表、高山良二さんが生活する宿舎にお世話になった。高山さんにこの村で生活する地雷被害者の方を紹介していただいた。
 一人目はケインさん(60)戦時中に地雷により片足を失った。義足をつけて生活をしている。空芯菜や豆を育てており、義足での仕事は苦労が多いという。しかし、踊ることが大好きで、お酒の席ではずっと踊っているほどだそうだ。
 二人目はコイデーンさん(68)両足とも地雷により失っている。片足は戦時中、もう片方は戦後、畑仕事を行っている時だった。多くの果実を栽培しており、その知識はほとんどが独学で手に入れたものだという。経験を重ねながら、土地を広げている。奥さんのことをとても愛していて、笑顔に溢れていた。

  
*左:ケインさん 右:コイデーンさんと奥さん

 彼らは地雷により大切なものを失った被害者である。しかし、彼らは世間が悪とするポルポト軍の兵士であった。このタサエン村は、首都から敗走してきたポルポト軍の最後の地ともいわれる。元ポルポト兵が多いのだ。世間一般から見れば、彼らはあの残虐な行為を行った軍の一員とされる。しかし、彼らにはそんな残虐性は一切感じられない。いきなりやってきた私たちをあたたかく迎えてくれた。
 望んで軍に入ったのではない。当時、10代の若い男性(と予想される)は、勉強ができるという名目で寺などに集められた。そこで行われたのはいわゆる思想教育であった。アメリカを始めとする先進国の思惑でカンボジアは戦火に巻き込まれる。そうした先進国から自分たちの手で自分たちの国を守ろう、自分たちの国を良くしよう、そうした内容だったという。国のため、そのために必死だったのだ。結果として方法の方向が間違っただけである。日本で得た知識と、プノンペンで見た光景から、ポルポト軍=悪とずっと感じていた。しかし、タサエンでであった人たちを前に、その考えに歪みが生じた。自分が想像していた悪はここでは見当たらない。未だに地雷処理は毎日行われ、人々はそこで生活を営む。私たちはとかく白黒をつけたがる。国際化が進み、日本人の曖昧さが非難されることもある。悩むことは優柔不断と欠点にされ、良いものとされない。しかし、白黒はっきりしないことで世の中は溢れている。世界は平面ではない。一方的に見るだけでは何も理解できないのである。ある面だけみて知ったような気になってはいけない。私たちは人と人が関わって成り立っている。
 正義と悪が白と黒のように明確ならば、みんな正しい方を選べばいいのだ。正義と悪に正解がないから、私たちは悩み、対立するのである。どちらの視点も大事にできるように、そのためには興味をやはり興味を持つことではないだろうか。

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おわりに

 私はこの研修で、多くのものを見たと同時にまだその中身を整理できていない。しかし、無関心がいかに人を傷つけるかを、その究極の姿を見た。カンボジアでは、教育の整備が十分ではない。教師に対する賄賂が横行していたり、日本のように教員の質が均等でないため、教育格差が起こっている。子どもたちは、自国の歴史を学ぶことができていないのだという。日本では大学生のボランティア団体を中心に、学校建築のプロジェクトが幾つか行われている。しかしそれだけでは、カンボジアの教育が整ったとは言えない現状がある。そうした現状を含めて、国内国外に発信していきたい。
 また日本国内も経済や社会保障など問題は山積みである。海外協力だけが、支援ではないはずだ。私たちは本来、より身近なところから関心を持つべきである。そして、発信する力、受信する力をもっと磨くべきである。知らない、では済まされない現状がたくさんある。見ないふり、無関心を装うことほど怖いものはない。
 最後に、研修に同行していただいた安田さん、山池さん、カンボジアで出会った皆さん、岩崎先生、大学の仲間たち、そして快く送り出してくれた両親に感謝いたします。

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