金城学院大学 国際情報学部 KITカンボジア研修2015

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はじめに

 カンボジアから帰ってきて、家について、まず初めにスーツケースを開けた。服を洗濯機に入れ、お土産を引っ張り出している最中、スーツケースの中から一匹の小さなクモが出てきた。この小さなクモを外に逃がしながら、カンボジアで出会った人、行った場所、自分で感じ考えたことを思い出した。スクーターに3人も4人も乗って平然と走っている様子や、3車線ぐらいある大通りなのに速度20km制限の看板。道の脇にいる常時やる気のなさそうな犬。野生の目をしていて、目を合わせるのが怖い鶏。想像していた通りのごちゃごちゃな街並みに驚きながらも、安心感を抱いたことを思い出した。
 飛行機に乗ってカンボジアの空港に降り立ったとき、行った人にしか分からないアジア独特な匂いにびっくりした。ご飯を食べようが、どこへ行こうがアジアの匂い。行ったのはたったの10日間だが、日本へ帰ってからもずーっと鼻の奥にアジアの匂いが残っていた。

  

プノンペン初日


 キリングフィールド、トゥールスレン刑務所へ訪問した。トゥールスレン刑務所は大量虐殺が行われた刑務所で、床に無数の血痕が残っており、昔ここで大虐殺されていたという事実を突きつけられた。外は猛暑にもかかわらず、刑務所内はとても冷たかった。そして、壁に掛けられている無数の顔写真が見張るようにこっちを見ていた。
 その後、生き残りの7人のうちの1人、チュン・メイさんにお話を伺った。当時の状況や傷痕を見せてくださるなど、当時の状況など貴重なお話を聞くことができた。チュン・メイさんは私たちにいろいろな話をしてくれた。話している最中にフラッシュバックされることだってあるだろう。チュン・メイさんはとても強い方だと思うと同時に、私だったら語り部になることはできないだろうと思った。
 チュン・メイさんに質問することができる時間があった。だが、ものすごく怖かった。私の質問で傷つけてしまうのではないだろうか、失礼なことを言ってしまわないだろうか。知りたいことは山ほどあったし、聞きたいこともたくさんあった。こうして貴重な時間を無駄にしてしまった。
 その後に行った、セントラルマーケットは面白いところだった。全体が薄暗く、道が入り組んでいて、たくさんの人と物で溢れかえっていた。奥に入れば入るほど、鼻をつくような匂いが強くなっていく。角を曲がると急に現れる、即席美容室。どこから汲んできたかわからない水と、どこへ排出されるかわからないシャンプーの残り。美味しいカボチャプリンと調理された虫。まさしくカンボジアのごちゃごちゃを見た気分になった。とても面白い。

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プノンペン2日目

 朝早くからSVA(公益社団法人シャンティ国際ボランティア会)にて、玉利さんから移動図書館事業の説明を受けた。日本で勉強してきたカンボジアではなく、現地スタッフとして見てきたカンボジアの現状を知り、この数年で劇的に変化している状況を目の当たりにした。実施に移動図書館事業を行っているところを見に、スラム地区に行った。想像していたよりも暖かく、キレイな場所だった。
 しかし、話を聞いたり、事業を見させてもらったり細かいところを見ていくと、キレイにしただけで本当にスラム地区だということを思い知らされた。たまに見かける水たまりは腐っていてゴミがたくさん溜まっていた。玉利さんに「このスラムの中でも貧困の差はあるんですか?」と聞いたところ、「実際に差はある。子供達の髪の毛を見てごらん。茶髪の子は栄養が足りていない子なんだよ。」と。
 スラムの人たちは、写真を撮ってもいい?と聞いても笑顔で写ってくれた。生まれたてのかわいい犬を撮りたいと言ったら、連れてきて撮りやすいように手伝ってくれた。笑顔が素敵なで優しい人が多く、裏側にある貧困などは微塵も感じさせなかった。
 来るときや帰るとき、たくさんの子供達が列を作って見送りをしてくれた。私はそのときに違和感を感じた。1人違う言葉を言って、私に向かって小さな両手を広げていた子供がいたのだ。私はクメール語が堪能でないので、小さな彼女が何を言っていたのか正確にはわからない。だが、私には「もっとちょうだい。何かちょうだい。」と言っているように聞こえた。楽しく子供達と遊んだ後だけあって、私の中で色濃く違和感が残ってしまった。やっぱりここはスラムなんだなと実感した。

  

 CHA(ポリオと地雷被害者のためのカンボジア・ハンディクラフト協会)にも訪問した。名前の通り、ポリオや地雷被害者の女性たちが手に職をつけ、自立して暮らしていくことができるように援助するNGO団体だ。私が重要だなと思ったのは日本人が設立したのではなく、カンボジアの人が設立したことだ。TVや本などを読んでも日本人が設立したNGOの話で溢れかえっていて、恥ずかしながらカンボジアの人は受け身だなと思っていた。自国の問題点を見つめ、NGOを設立したハイ・キムタさんはとても面白い人だった。フォトジャーナリスト研修なので、今までは私たちがお願いをして写真を撮らせてもらっていた。しかし、キムタさんは一生懸命メンバーの人たちとコミュニケーションをとっている私たちを自前のデジカメでどんどん撮っているのだ。カンボジアの人に写真を撮られるのは、なんだか変に嬉しい感じがして、小っ恥ずかしかった。
 キムタさんの話の中で、何回もボランティアとして滞在していた竹村彩香さんの話が出てきた。CHAで作るものを日本で売れるように、デザインしたそうだ。私はCHAでティッシュケースを母へのプレゼント用に買って帰った。家に帰り、母に手渡すと、かわいい!と喜んでくれた。竹村さんのデザイン、CHAで作ったものは、十分に日本で通用するものだと実感した。本当は母にあげるのを渋ったぐらいだ。もう一個買って帰ればよかった。

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プノンペン3日目

 バッタンバンへの移動日。ここで、3日間お世話になった通訳のラーさんとお別れをした。ラーさんはとても明るくて愉快な人だった。クメール語を覚えようとしていると、すごく喜んでくれた。ギャグを言ってバス内を盛り上げてくれた。ツーショットを撮ろう!というと、ノリノリで写ってくれた。
 私の中で、どうしても忘れられないのは、1日目のバスの中で「皆さんにとっての幸せとはなんですか?」と問われたこと。びっくりした。日本人に問われることはあっても、カンボジアの人に問われるとは全く思っていなかった。日本人に問われたら、現状で自分なりの答えを言うことができるが、ラーさんの場合は違った。言えない。国や生活、宗教、習慣、全てが違う人に「あなたの幸せとは?」と聞かれて、自信を持って言うことはできなかった。今までの自分の中での幸せは、日本でしか通用しないような答えだったなんて。そんな自分に嫌気がさしながら、なんて甘ちゃんだったのだろうと悔しくなった。
 そしてもう一つ、ラーさんが言っていたこと。勉強をたくさんしてください、ということ。3日間だけだが、カンボジアを見てきて、たくさんの人がカンボジアの教育レベルをあげようと奮闘している姿を見た。クメール・ルージュ時代にたくさんの知識人が殺され、教育レベルがゼロになってしまったという状況を見て、危機感を覚え、たくさんの人が支援し、ここまで教育レベルが上がった。その歴史を知っていて、その歴史を持っている国で生まれ、育って日本語を勉強して、今、目の前で通訳をしてくれているラーさん。家でお母さんにしつこいぐらい言われてきた「勉強しなさい!」とラーさんの「勉強してください。」とでは受け止め方や背景の深さが全然ちがう。これから日本を背負っていくのは私たちだからこそ、の言葉なのだろう。今までの自分の行いを見直し、反省した。ちゃんと勉強します。

タサエン村1日目


 バッタンバンで一泊し、お昼頃、タサエン村に着いた。
バスを降り、これからお世話になるIMCCDの宿舎の人たちに挨拶をし、そのまま地雷処理現場を見学するため、高山良二さんとインターンでタサエン村にいる金城裕実さんと一緒に歩いて地雷原へと歩いて行った。30分ほど足元の悪い道を歩き、地雷処理の現場に着いた。そこではちょうどディマイナーさんたちは休憩中だった。自己紹介をし、美味しいお弁当とスイカを一緒に食べた。腹ごしらえが終わると、早速地雷処理を見せてもらうことになった。今回は運良く、対戦車地雷、対人地雷、不発ロケット弾の3つの処理を見せてもらえることに。対戦車地雷はものすごく貴重なものらしく、インターン3ヶ月目を迎える金城さんも対戦車地雷の処理を見るのは初めてだった。
 私たちは安全を確保するため、地雷処理現場から400mほど離れた木の下で見学することになった。対戦車地雷、対人地雷、ロケット弾の順番で処理されることになった。しばらくすると、あたりにサイレンが鳴り響いた。クメール語とタイ語で危険を喚起する言葉が何回か発された。そして、静かになった。ものすごく長く感じる静寂の後、高山さんとディマイナーさんが全力疾走してこっちに向かってきた。走ってきているのを目の端で確認し、噴煙が上がり始めたなと思った瞬間、ドンッ!ドン!ドン!と大きな音が鳴り響いた。すごい音だった。すごいという一言で済ませられるような音ではなかった。400m離れた場所にいたのにもかかわらず、腹の奥底に響く音、なんてものではなく、骨まで振動が伝わる音だった。しばらく誰も、何も、発さなかった。正確に言うと、誰も、何も、発せなかった。そこには衝撃とたくさんの想いが渦巻いていた。私は心の中で、誰かが何か言いだしてくれるのを心から願っていた。しばらくすると、裕実さんがすごかったですね、と言ってくれた。その一言から地雷処理を見たそれぞれの想いが次々と発されていった。私は特に何も言わなかったが、地雷処理を見て何も思わなかったわけではない。もちろん衝撃はあったし、私の中でいろいろな想いというものがあったが、今ここで何か言葉に出してしまうと「すごい」という簡単な言葉で片付けてしまうような気がした。それは命をかけて処理をしている高山さんやディマイナーさん達にとても失礼だ。地雷処理をあれほど近くから見学させてもらえるという貴重な体験をさせてもらったからには、「すごい」という言葉だけで片付けるのではなく、もっと深く考えなければならない。私が感じた衝撃や想いを自己完結させるのではなく、見たことがない人たちにも想像してもらえるような言葉を探さなければならない。そんな気がした。

 そんなことを考えながら、タサエン村に帰った。タサエン1日目の夜は、ミエンさんの娘さんの誕生会だった。荷物を整理していると、子供達がどこからかわらわらやってきた。気づくとIMCCDの宿舎の入り口は自転車とスクーターでいっぱいになっていた。子供達はまず、ホウキを持って掃除に取り掛かる。ふざけながら遊びながらだが、掃除と会場の飾り付けを行っていく。ある程度終わると、私たちと子供達でゲームをした。ハンカチ落としのようなゲームで、大変盛り上がる。ハンカチ落としと違うところといえば、ハンカチはないところと二人一組になって周りを走るところだ。だいたい隣が村の子になるので、村の子と二人一組になって走ったのだが、ほとんどの子が私より足が速い。私が全力疾走しても手を繋いでいる子についていけないのだ。引っ張られている状態で走る形になってしまっていた。私の体はこの時点で十分悲鳴をあげていたのだが、極め付けはその後にやったゲーム。旗あげゲームの屈伸版。鬼の子の「ドペン!アサイ!」という掛け声に合わせて、立ったり座ったりするものだ。間違えると輪の中心に立たされ、大きな声で日本の歌を歌わされる。多分、4、5回は歌った。私の膝は急な運動でガクガクに震えるほど。でも、「世界に一つだけの花」をみんなで歌ったり、カンボジアで流行っている歌が聴けたり、覚えたての日本語で話しかけてくれたり、何より楽しかった。日本で運動をサボっていたツケがきたなと日頃の反省をしながら、次の日の筋肉痛を迎えました。

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タサエン村、2日目

 実は、1日目の夜はあまり眠れなかった。初めて外でハンモックで寝たからかもしれないが、多分、宿舎にいるニワトリの鳴き声と、犬のクロとサクラのせいです。ニワトリは真夜中の12時ごろから鳴きだし、3時、4時、5時と何回も鳴いていた。ニワトリっててっきり明け方にしか鳴かないものだと思っていた。あと、クロとサクラ。ハンモックの下で喧嘩して、サクラがキャンキャン吠えていた。明け方にやらないでよ!と文句を言いたかったのだが、犬に言ってもしょうがない。起床時間よりも早く起き、ニワトリとクロとサクラに不満を抱えながらハンモックを片した。そうして、タサエン2日目が始まった。身支度を終え、みんなと合流すると、それぞれがニワトリやサクラのせいで眠れなかったと文句を言っていたので、私だけではなかったことに少し可笑しくなった。
 全員が集まり、朝の朝礼が終わると、皆でバスに乗り込んだ。2日目は主にタサエン村の見学。タサエン村にいるクメール側の元軍人の方や地雷の被害者の方の話を聞きに行ったり、村にある日系企業の工場見学、キャッサバ焼酎の工場見学、慰霊碑へ手を合わせに行ったりした。
 村内の見学が終わると、少し時間が余っていた。実は、この時、私はパンク状態になっていた。他国にいるということ。一人になれる時間がなく、考えをまとめる時間が取れないということ。社会問題や、生死について。答えがあるようで無い問題を必死に考え、自分の中で一言で片付けてしまわないようにと言葉を選ぶ作業。衝撃的なことを見たり聞いたりしたものを自分の中に落とし込んでいく作業。目を閉じ、耳を塞いで逃げることは簡単。でも、実際にあったことを自分の中で無かったことにするのは、卑怯だ。私は耐えられない。だから全力でぶつかろうと頑張ってきたが、とうとう限界が来てしまった。そうして私がとった行動とは。ハンモックに引きこもる、ということ。子供達が来るまでの1時間の間だが、その1時間でたくさんのことを整理することができた。
 プノンペンで見てきた処刑された人たちの顔写真、そして今日聞いたクメールの元軍人の方。一方的に悪いと思っていた方の話をしっかり聞いてみると、実はそうではなかったりする。そう単純に白黒がつく話ではなかった。
 そして、高山さんのディマイナーさん達への想い。地雷処理で失われた命。高山さんはとても誠実な方だった。私は高山さんが言っていた「支援は中途半端な気持ちでやるべきものではない。中途半端な気持ちでやっていると犠牲者がでる。」という言葉に、高山さんの決意と私が日本で感じていた違和感の正体がわかったような気がしました。私の友人や知人が行っている国際支援は本当に国際支援なのか、自分の履歴書に書くためのものではないのか、単位をもらうためのものではないのか。自分の日本での立身出世のために国際支援というツールを使っていいものなのか。それは、カンボジアや本当に困っている人たちに失礼だということが頭によぎることはないのか。学校側もボランティア活動で単位をあげるような仕組みを作って本当に意味があると思っているのか。もう、自分でもよくわからなくなってしまった。ボランティア活動は悪いと思わないが、そんな失礼なボランティア活動なら意味がないし、やりたくもない。そんなことを考えながら、ハンモックの中で横になっていた。

 ハンモックから出て、たたんでいる時、子供達がわらわらやって来始めた。子供達は来ると一斉に掃除を始め、教室に入っていった。私は小さい子のクラスに行き、先生をやった。先生なんて大層なものではなく、自己紹介と年齢、好きなものぐらいを言いあうぐらい。それでも、子供達は私たちに何か伝えようと頑張って話してくる。なんだか、ほんわかするような時間だった。
 2日目の夜、寝る支度をしながら、いろいろな人と話していた。その時、IMCCDの安全を確保してくれるボディーガードの人と少し話すことができた。彼は元クメールの軍人で、体にたくさんの銃弾の傷が残っていた。十分に鍛えられた腕にあった銃痕は思っていたより生々しく、笑いながら「見せてよ!」と言っていた高山さんに驚いたほど。彼のおかげで安心して眠れることに感謝した。2日目は快眠だった。

タサエン村、3日目

 最終日ということで、朝から仕事に行くディマイナーさんに感謝の言葉と挨拶を言い、地雷原へと見送った。そして、高山さんから地雷や爆弾の仕組み、日本の軍のことなど説明を受けた。改めて、日本の平和維持の方法や、これからの日本の軍事の動き、社会の動きなど考えさせられた。これからの日本を決めていく一人だからこそ、本質を見て考えなければならない。大勢のうちの一人だから、自分ぐらいいいや、なんて考えはしてはいけない。一人一人がしっかり社会を見ていないと、日本はとんでもない方向へ進んでいってしまうのだろう。
 高山さんの説明とお話が終わると、荷物の整理をし始める。とうとう3日間お世話になったタサエン村を出る時間です。 たくさんお世話になったIMCCDの人たちお別れをした。もちろん、散々迷惑をかけられたサクラにも。また、タサエンに帰って来ることができるよう、楽しみにしながら。

  

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同日、シェムリアップ1日目

 私たちはバスに乗り込み、シェムリアップへと移動をする。昼食を取り、シェムリアップのホテルに着いた私たちは、自由行動の時間になった。

 荷物を運び、一息つくと安田さんが出来れば行って欲しい場所がある、と言った。私を含め、約半数ほどの人たちで行った場所。シェムリアップのホテルからトゥクトゥクで20分。そこにあったのは、ゴミ山。そこは鼻の奥がキュッとなるようなキツイ臭いがした。そこには30分に1回ほどのペースでやってくる大量のゴミを分別する人たち。子供も多くいた。思わず鼻に手が行ってしまうような臭いの場所で働いている人たちは、笑いながら楽しそうにしていた。顔を歪ませたくなるような臭いの中で働いている彼らは、決して辛そうには見えなかった。
 私が一番驚いたことは、ゴミの出どころと政府の対処について。
 私が見た、辺り一帯が全てゴミとなってしまった光景も驚いた。でも、それよりも、そのゴミはほとんど観光客が出しているという事実に驚いた。あぁ、私もこのゴミ山に加担していたんだな。私が今日出したゴミは、あと何日後にここに来るんだろう。なんて考えていた。生活するにあたってゴミが出てしまうのはしょうがないことで、旅行なんて通常の生活よりゴミが多く出る。そんなことは分かっている。だから、この事実を知って、私はカンボジアに来たことを後悔した。ゴミ山が問題視されていることは知っていたが、まさか自分が加担するとは全く思っていなかった。私が今までカンボジアの旅中に学び考えたてきたことは、私が今まで出してきたゴミに値するのだろうか。多分、値しないだろう。悲しかった。カンボジアの人のために、なんて大きなことは言えないけど、せめて迷惑ぐらいはかけないように、って旅をしていたのに。行った時は何もできないかもしれないけど、カンボジアで学んだことを帰ってきて何かのために活かせたらいいな、なんて思っていたのに。カンボジアでの自分に、ただただ恥ずかしく、悲しくなった。
 そして、政府の対応。カンボジア以外の国でも同じようなゴミ山があり、世界的に問題になっているが、なかなか無くならない現実。今まで私はゴミ山を無くすためには、と考えることをしたことある。多分、私が考えたことが全てうまくいけばゴミ山はなくなっていくだろう。全てうまくいけば。所詮、机の上の空想論だったということがわかった。そして、この問題は一人でどうこうできる問題ではない。だが、国も人も、こうやってゴミ山があるという事実から目をそらし、なかったことにしている。なくなると困るという人ももちろんいるわけで。結局、大人の事情とやらが複雑にややこしく絡まっているせいで、何もできなくなった。あの辺り一面が全部ゴミという情景の中で、ただ受け入れることしかできなかった。とても私の手に負えるような問題ではないな、と確認しただけ。これまた、カンボジアに来る前の自分に対して、恥ずかしく、そして悲しくなった。

シェムリアップ、2日目


 この日は1日かけて世界遺産アンコールワットの遺跡を見て回った。解説をしてくれた吉川舞さんはとても面白い方だった。解説は面白いし、周りの予備知識は多く、少し分かりづらいニュアンスの話でも、たとえをうまく使い分かりやすく解説してくれた。そのたとえ話は絶妙で、感心してしまうほど。話はいきなり飛んでしまうことはなく、一歩ずつ確実に丁寧に説明してくれた。話を聞いているだけでも頭のいい方だということがすぐにわかった。あんな話し方ができるようになりたい、なんて思いながらアンコールワットを歩いた。
 アンコールワットは地球の歩き方で事前に勉強してきたので、事前知識と照らし合わせながら歩いていた。アンコールワットで一番気に入ったのは、踊り子の壁画とバイヨン。最上階の踊り子の壁画はとても繊細で美しかった。そして、日暮れ頃のバイヨンも美しかった。
 アンコールワットの中を歩いているときに、修復について話してくれた。アンコールワットの修復はたくさんの国が関わっている。それらの国は宗教や背景が様々なことから、どこを修復完了にするのか、どう修復するのかで差が出てくるそう。修復とは昔のピカピカ状態に戻すことか、それとも現状を維持し、これ以上壊れないように手を加えることなのか、つまり、積極的修復か保存的修復なのか。今までのガイドさんは、このような遺跡の見方を教えてくれる人はいなかった。とても面白い話だった。

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シェムリアップ、3日目


 児童買春撲滅の活動をしているNPO法人かものはしプロジェクト工房に訪問した。かものはしプロジェクトで働いている人にインタビューをしたり、作っているところを見せてもらったり、仕組みや取り組みを見た。特に買春撲滅からの社会復帰までの仕組みは興味深かった。
 かものはしプロジェクト工房の後は、自由行動でオールドマーケットに行った。たくさんの服やカバン、お土産の屋台が広がっていた。奥に行くと急に生臭くなり、そこにはたくさんの魚があった。魚や野菜の横に服やお土産が広がっているなんて少しおかしいなと思っていた。しかしよく考えてみたら、日本の築地も市場の中にお土産屋や飲食店がひろがっている。日本の市場もカンボジアの市場も同じようなものなんだなぁと思った。
 オールドマーケットで子供をあやしているお母さんに話しかけた。金額交渉が終わり、袋に買ったものを入れてもらった。その時、おかあさんが「うちの子もどうかしら?少しうるさいけど可愛いわよ。」と面白おかしく冗談を言ってきたので、本当に可笑しかった。他の人は「もう一枚買って行って。」とか「こっちの小物も安いよ。」と言って他の商品を勧めてくる人ばかりだった。笑わせてくれたお母さんの顔と可愛らしい子供の顔は忘れられなくなりました。
 オールドマーケットで買い物を済ませた後、ホテルをチェックアウトしてカンボジアから日本に帰るため、空港へと向かった。空港内に吉野家があった。外国にいるのに、そこで日本食を食べるのはあまり好きではなかったが、なぜか無性に吉野家の牛丼が食べたくなって食べてしまった。カンボジアで出てくるお米はタイ米のような長細くて少し硬いお米だった。空港の吉野家のお米はいつも日本で食べている日本のお米で懐かしく、日本のお米はおいしいことを実感した。やっぱりいいですね、日本人。
 最後の最後に、日本食の素晴らしさを噛み締めながら日本へ帰りました。

おわりに

 私はこの研修でたくさん考え、たくさん想い、たくさんのものを見てきた。研修中は夜にミーティングがあり、そこで感じたことを話し合った。同じ空間で同じものを見てきたからこそ話せる話もあった。ここに書いていないことももちろん話した。私はその時間をとても大切にしていたし、他の人が同じものを見てどう感じたのか、すごく興味があった。私が考えることなど、もうすでに他の人が考えただろうし、知識も少なく浅知恵であるのは知っている。だから私は自分だけが感じたことを大事にしようと思っていた。でも、私にとって感じたことを言葉にして他人に伝える作業はとても苦痛だった。衝撃的な光景を見て、なんだかモヤモヤした気持ちになったとしても、その光景を見ていない人はわからない。同じ光景を見たとしても、私と同じモヤモヤを感じているかどうかもわからない。だから言葉で人に伝えなければならない。私だけの言葉で、私だけのモヤモヤが伝わるように最大限の努力をしなければならない。それが一番辛かった。
 それに加え、言葉の壁が重くのしかかった。マーケットや訪問先で英語の通じる人には自力で喋っていた。しかし、自分の英語能力の無さを実感した。一番実感したのは、カンボジアのイオンに行った時だった。たまたまイランの人と話しかけられ、頑張って話していたが結局伝わらず。そして最後のオールドマーケットの時も。屋台にいたお姉さんに話しかけ、英語で交渉をしていたのだが、うまく言葉が出ない上に伝わらない。できれば最終手段を使いたくなかったのだが、もう我慢できなかった。私が使った最終手段とは。「日本語話せます?」と聞くこと。あぁ、情けない。本当に。母国語ではない英語を話してくれているお姉さんに、さらに母国語から離れた日本語を話せるかどうか聞いてしまったのだ。本当に情けない上に、恥ずかしい。 私はこの研修を経て、日本へ帰り、自分に何ができるか考えてみた。考えてみたが、答えは出なかった。だからと言って、この研修が無駄だったとは決して思わない。いろいろなことに興味関心を持つことができたし、それ以前にカンボジアという国をこの目で見ることができた。それだけで十分意味はあったのではないかと思えた。本を読んだだけでは分からないし、映画を見ただけでも分からない。実際にカンボジアに行かなければ、アジアの匂いもご飯も、気温も音も、五感でカンボジアを感じることはできなかった。そう考えると、とても面白い。
 大学1年生という時期にカンボジアに行くことが出来て良かったと思う。今までの生活で培われてきた「自分のものさし」ではなく、もう一本新たな「ものさし」を手に入れることができた気がする。私自身、これから勉強していく上で、今までより広い見方ができるようになるのではないかと期待している。
 まだ自分の中で整理するのに時間がかかってしまうと思う。だが、時間をかけてでも自分の言葉で、カンボジアで考えたことや感じたことを言えるようになりたい。そんな思い、一心です。

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