金城学院大学 国際情報学部 KITカンボジア研修2015

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はじめに

 研修先が複数ある中で私がカンボジアを選んだ理由はごく普通で、「きっと今行かなければ今後行く機会はないだろう」という理由であった。特に目標もなく大学へ入学した私は、何かを得ることに必死だった。以前からメディアに関する分野に興味があった私は、このスタディーツアーの目的の一つが取材であることを知り、この国へ行こうと決めた。
 カンボジアと聞くと、貧困が思い浮かぶ。支援されている国という認識が強かった。
 そんなイメージを抱きながらたどり着いたカンボジアは、私のイメージを覆した。プノンペン空港を出て初めて吸ったカンボジアの空気は、モワッとした暑さと、行き交う人々や車の風が入り交じっていた。同時に、地球の大きさを直に感じることができた。なぜなら、ついさっきまで厚いコートを羽織って日本から飛び立ったのに、数時間経っただけで半袖のシャツが恋しくなったからだ。たった数時間空を飛んだだけで、こんなにも気温の変化があることが新鮮だった。
 空港からバスに揺られながらホテルへ向かう最中、私の気分はますます高揚し、敷き詰めたように走るバイクや車に目を奪われた。一台のバイクに3、4人乗って、行き交う車をすり抜けるのだ。日本ではありえない光景が、ここでは当たり前になっている。これからどんな旅になるのだろう。すべてが未知だった。
 カンボジアと日本の時差は2時間。時差ぼけもなく、2日目の朝を迎えた。ポルポト政権時代、大虐殺が行われていたキリングフィールドを訪問した。そこで私が目にしたのは、数え切れないほどの遺骨であった。ガラス張りの柱に敷き詰められた頭蓋骨。その光景を目の当たりにした私は、これが私に何を伝えているのかわからなかった。そのときにできたことと言えば、シャッターを切ることだった。ただただ、見たことのないものをカメラにおさめる作業をしていた。一緒に行動をしていたスタディーツアーメンバーは、シャッターを切ることをためらい、敷き詰められた頭蓋骨をみて、何かを感じているようだった。私は何も感じることができず、それは次第に焦りへと変わっていった。
 昼食をとった後、トゥールスレン刑務所博物館へ訪問した。そこには、当時収容所として使われていた実際の部屋が、当時のまま残されていた。とても寝る場所とは思えない鉄製のベッドの下には、血痕が滴った痕が残っていた。ここでどれだけの人が拷問を受け、命を落としていったのだろう。見るに絶えなかった。私の気持ちは、ますます複雑になるばかりだった。
 収容所では、当時拷問を受けていたにもかかわらず唯一生き残った7人のうちの1人の方からお話を聞くことができた。彼の名前はCHUM MEY(チュン・メイ)さん。拷問の際に電気ショックを受けた影響で、右耳が聞こえない。御年85歳であるが、私たちのためにお話をしてくださった。日本語は話せないため、通訳の方を通してお話を聞いた。チュン・メイさんによると、当時この収容所は秘密とされており、周りは畑や田、湖でうめつくされていた。外へはわざと楽しそうな音楽を流していたため、周辺に住む人たちは、何か楽しい場所であると思っていた。毎日拷問を受け、排泄の際に汚した床は、自分の舌で掃除をしていたそうだ。私は、通訳の方ではなく、チュン・メイさんの話す姿を見ていた。彼の口からはクメール語しか話されないが、なぜか、表情や身振りで伝わるものがあった。そのときわたしは、言葉の壁を一瞬越えたような気がした。日本語に訳さなくても、本当に伝えたいことは伝わるのではないか。そう思った日であった。
 3日目、日本のSVA(シャンティ国際ボランティア会)による移動図書館を訪問するため、スラム地区へと向かった。首都圏での生活が厳しくなった人たちが、この地区で生活している。私たちがバスで到着すると、たくさんの子供たちが列を作って私たちを迎えてくれた。列を通りながら、スラム地区を歩いた。家が建ち並び、日差しを浴びて楽しく世間話をしている大人たちに出会った。家族ではなくても、近くに住む人同士でひとつの家に集まって世間話をし、子どもの世話をしている光景は、日本ではあまり見られないものであり、ほっこりした。
 移動図書館では、「はらぺこあおむし」の紙芝居が行われていた。子どもたちは目を輝かせながら紙芝居を楽しんでいた。純粋で綺麗な眼差しは、とても印象深かった。
 その後、子どもたちとふれあう時間を設けていただき、少しの間、子どもたちと遊んだ。日本から持ってきた折り紙やおもちゃでの交流は意外と難しく、特に折り紙は言葉が通じないのもあり、非常に難しかった。それでも私はあきらめることなく、表情を意識しながら思いっきり交流を楽しんだ。目的の作品が作れなくても、そこまでの工程を楽しめればそれでいいし、言葉は足らなくても、伝えたいという気持ちがあれば大半は伝わると改めて感じた。
 4日目、バッタンバン州にあるタサエン・コミューンに行くため、一日かけて移動をした。
 5日目、タサエン・コミューンの宿舎へ到着した。タサエン村は、かつてポル・ポト軍が住んでいたこともあり、地雷の影響を大きく受けていた。住みにくい村であったが、2005年頃から復興、発展を遂げた。宿舎は木でできており、木と木の間に紐をひっかけ、洗濯物が干されていた。私たちはこのタサエン村で、ひとまわり大きくなった。まず、トイレの水は自動ではなく、浴槽のようなところから自分ですくって便器へ流す。トイレとお風呂は一緒になっているため、裸足で入る。日本では考えられず、わりと何でも適応できる私であったが、さすがに裸足でトイレに入る勇気はなく、草むらに隠れて野ションした。一気に野生化した自分がなぜか輝いて見えた。そして、洗濯物は大きな桶に入れて洗剤を入れ、手で洗う。洗っているうちに、なんだかひとつひとつ手で洗うのが面倒くさくなり、桶の中に入って足踏みをした。となりのトトロに出てくるサツキとメイのような気分だった。
 昼間は、地雷処理現場を訪問した。タサエン村では5人で地雷除去作業を行っており、常に危険と隣り合わせで仕事をしている。監督は、カンボジアでの地雷処理における管理、マネジメント能力は日本のほうが精密であるということから、日本人で元自衛官の高山良二さんが担当している。
 地雷除去の方法は世界共通で、導線に火をつけて爆破をしている。日本の安全性の高さ、緻密さで36年間失敗をしていないという。
 高山さんは、地雷除去において大切なことを私たちに教えてくださった。まず一番大切なことは、公私ともに信じる力を培うということ。普段から地雷処理メンバーとの交流を深めることで信用を積み重ね、仕事に生かしていく。日本の安全な地雷処理の仕方を教えるには、そういった積み重ねが必要になってくる。また、意見が違うときは徹底的に議論をするようにしているそうで、プライドを捨て、知らないことは知らないと言う重要性を教えているそうだ。すべては事故につながってしまうため、勇敢ではなく、常に逃げ腰で行い、100%を追求している。そのおかげでタサエン村はまた豊かな生活を取り戻すことができ、今も高山さんは「タサエン村の子どもたちに貢献できるように」と活動を続けている。
6日目、日系企業工場を訪問し、その後地雷ビクティムの方、元ポルポト軍兵の方の取材を行った。タサエン村には、100円ショップの下請けである水引工場がある。日本の綺麗さを伝えるため、庭は芝生で整えられており、日本仕様になっている。その綺麗さから、新婚夫婦の撮影スポットにまでなっている。カンボジアでは、30ドルで5〜6人の家族の、3分の1の生活費を賄うことができるが、ここの水引工場では月に100〜300ドルの安定した収入を得ることができる。採用試験も設けられており、賃金は歩合制である。子どもを側に置かせたまま仕事をすることができ、主婦や女性に人気の仕事場である。
 次に、ポル・ポト政権時代、軍兵として徴兵されていたケインさんからのお話を伺った。タサエン村はポル・ポト派であったため、今もこうして昔軍兵だった人たちが住んでいる。今回私たちがお話を聞いた方は、14歳で何も知らないまま徴兵され、国のために政権のために戦っていたという。ポル・ポト派は後に大虐殺を行ったために、悪を背負うこととなったが、当時はどちらも国や政権のために必死だったということを知った。また、「タサエン村には日本の会社がたくさんあるので、日本と、日本の政府には感謝しています」と彼は私たちへ丁寧に仰った。私は工場関係者でも何でもないが、同じ日本人として、日本の頑張りが伝わっている気がした。
 次に、高山さんの監督の下地雷処理を行っていた際に、事故を起こしてしまった方の慰霊塔を訪問した。慰霊碑には「2007年1月19日 8:45am オーチャムロ村の地雷原で、対戦車地雷の爆破事故により、以下7名の者が殉職をした。」とあった。高山さんは、声を震わせながら私たちへこの地雷事故のことを話された。「すべての責任は私にあります」。高山さんは何度もそう言いながら、私たちに訴えた。命を落として謝るかとも考えたそうで、安全に対する妥協が事故につながると繰り返した。この事故を受けて高山さんは、村が復興すれば遺族が助かると考え、今も支援を続けている。慰霊塔へ入ると、7人の遺影の隣に、1枚空白があった。後に高山さんが入るつもりであけてあるという。この慰霊塔を建てるにあたって、日本のJMAS理事長は大反対し、継承できないとした。100年間供養してくれたらいいと訴えるも、JMASからの応援は一切なく、高山さんの出身地である愛媛県の方々からの支援で作られた。そのとき高山さんは、「日本は責任回避社会、権利主張社会である」と強く思ったという。カンボジアを見て、いかに日本が責任を逃れる国であるかというのを痛感したという。私はそのお話を聞いて、胸が痛かった。自分にも責任回避や権利主張ばかりしている部分があるのではないかと考えた。自分が原因で起きたことの責任は自分で取ることが果たしてできているのだろうか。自分に問いかける機会となった。
 夕方になると、タサエン村の子どもたちが日本語学校へ続々と集まってきた。この日は、私たちが実際に先生となり、日本語を教えることとなった。遠くから教室をのぞくと、子どもたちはキラキラ目を輝かせ、私たちに教えてもらうことを心待ちにしているようだった。出会って2日目であるのにもかかわらず、子どもたちは私たちに最高の笑顔を向けてくれていた。授業はほんの少しであったが、ホワイトボードに数字を書き、その下にひらがなで日本語を書くと、子どもたちは必死に板書をし始めた。書けたと言って素早く持ってくる子や、何度も書き直しながら丁寧に板書している子、それぞれであったが、みんなが輝いて見えた。ほんの数十分の授業であったが、子どもたちがこれで数字を日本語で言えるようになってくれたら、それ以上にうれしいことはない。国境を越えた素敵な授業であった。
 7日目、畳紙の工場(株)キンセイを訪問した。こちらも出来高制で、女性は月に120〜200ドルの収入がある。一方、男性は90〜160ドルの固定給で、プノンペン大卒の初任給と同じくらいだという。ここでは、着物を包む紙となる畳紙を造っているが、はじめて間もない頃は、「まあいいや」という国民性で日本に出荷し、クレームの嵐だったという。今はそれが改善され、ひとりひとりが丁寧に作業をしている。
 昼を過ぎると、高山さんがタイ国境へ連れて行ってくださった。タイのバンレム国境とカンボジアのドン国境。出稼ぎのために行き来する人たちで溢れていた。
 8日目、9日目はシエムリアップに戻り、アンコールワットをみた。遺跡内を散策すると、壁はひとつの物語になっている。天国と地獄で分けられており、繊細な造りにひたすら目を奪われていた。
 10日間の研修を終えて、10日で考えがまとまったかというと、そうではなく、むしろこれから考えていく必要がある。研修前や研修初日の頃は、何が正しくて何が間違っているのか、支援とは何なのか、自分に問いかけることが多くてパンク寸前だった。しかし、カンボジアで10日間過ごして、たくさんの人と出会い、ふれあい、吸収したことは本当に貴重な経験であった。多面的にものごとをみること、両方を聞かないと真実は見えてこないということ、ひとつのことを鵜呑みにしてはいけないということ。殺さなければ殺されていた時代、ひとりひとりが幸せになるためにがんばっていたことを、忘れてはいけない。だからこそ、今この時代のわたしたちが、それを継承していく必要がある。研修のはじめの頃、あまりに大きい問題に直面し、ただシャッターを切ることしかできなかった私に、安田さんはこう仰った。「吸収される時間は人それぞれで、焦らないでゆっくり自分のものにしていけばいい」。この言葉を聞いて、私は、実際に見て聞いて感じたことを日本へ持ち帰って伝えたいと強く思うことができた。これは私たちの今後の課題である。行ったから終わりではなく、行ったことが始まりでありたい。数週間後かもしれないし、数年後、数十年後かもしれない。それでも、何が正しくて、何が間違っているのだろうと、模索し続けることが、この研修の本質である。
 街ゆく人たちが異国の私たちに手を振り、笑っている。この国の幸せは、今までもこれからもずっと、人とのつながりであるだろう。

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