金城学院大学 国際情報学部 KITカンボジア研修2015

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はじめに

あなたの夢は何ですか。
あなたにとって大切なものは何ですか。
あなたは今幸せですか。

 私が今回の研修でカンボジアを選んだ理由。それは、好奇心だ。
カナダ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ハワイ、台湾、インドネシア、カンボジア。楽しそうな6都市の中に、いかにも発展してなさそうなカンボジアが混ざっていた。私のカンボジアに対するイメージは、発展途上・貧困・アンコールワットだった。だから、カンボジアだけは絶対に行きたくないと思っていた。逆に、誰がカンボジアに行くのだろうと思った。
 でも、考え方を少し変えてみた。今カンボジアに行かなければ、きっと一生行くことはないだろう。学校の研修だから、危険な目に遭うことはないだろう。そう考えたら、いい機会なのだからカンボジアに行こう。いや、カンボジア以外どこに行くのだ。となっていた。

1日目

 いざ行くと決めたはいいものの、カンボジア組を前に、既にカナダ組やサンフランシスコ組が研修に飛び立っていた。彼女たちのTwitterやInstagramなどのSNSには毎日楽しそうな写真がアップされていた。私はなぜカンボジアを選んでしまったのだろう。そんな後悔をしながら、初の海外となるカンボジアへ私も飛び立った。
ベトナムのホーチミンを経由し、飛行機に乗ること約6時間でカンボジアの首都・プノンペンに到着した。空港を出て待っていたのは、驚きの連続だった。
 まずは気温。日本は真冬なのに、カンボジアは真夏。でも、日本の何もしていなくてもジワジワと汗が出てくるような感じとは違って、長袖を一枚羽織っていても問題がない程度の、割と過ごしやすい暑さだった。

 次に景色。都会だった。日本ほどではないが、街には背の高い建物も建っていて、整っていた。ネオンもキラキラと輝いていた。
 そして交通事情。とにかくバイクが多い。右を見ても、左を見てもバイクばかりだ。しかも三人乗りが当たり前。中学生くらいの子が運転していたり、まだ生まれたばかりの赤ちゃんをお母さんが抱いて乗っているバイクもいたり、見ているこちらがハラハラした。それだけならまだいいのだが、交通ルールが全く守られていない。私が住んでいる名古屋では、名古屋走りと呼ばれる荒い運転が存在するが、カンボジアではそんなの比でもない。追い越し・追い抜きは当然のことであり、車線があるのかすら分からない状態で、逆走してくる者もいた。私がカンボジアで運転したら、一瞬で事故をすると思った。
 そんな目に映るもの全てが新鮮な景色を眺めながら、夕食会場のお店に向かった。カンボジアで心配していることの一つがごはんだった。結論から言えば、まずくはないが私の口には合わなかった。スープを飲んだときに、虫除けの味がした。衝撃的だった。虫除けの味がする原因はレモングラスをはじめとする香草だった。10日間も生き延びられるのか…。餓死しないか…。日本から食料を持ってこればよかったと心の底から思った。しかし、激安でおいしいスムージーが私の命をつないでくれた。スムージーには感謝してもしきれない。
 日本との違いにただただ驚いた1日目から、カンボジア研修は幕を開けた。

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2日目

 この日はカンボジアの歴史を学ぶ1日で、午前はキリングフィールドを見学した。キリングフィールドとは、ポルポト政権下に大虐殺が行われた刑場跡だ。
 皆さんはポルポト、そしてクメール・ルージュのことを知っていますか?私は知りませんでした。
 クメール・ルージュとはそんなに遠い昔の話ではない1975年、今から約40年前に存在したポルポト率いる政治勢力のことである。クメール・ルージュが誕生したいきさつ。それは当時隣の国のベトナムで起きていたベトナム戦争が関係している。ベトナム戦争でなかなか落ちないベトナムに、アメリカはカンボジアに目をつける。クメール・ルージュができる前の政権であるロン・ノル政権は、ベトナム戦争中のアメリカ軍によるカンボジア領域内の侵攻と爆撃を許可した。その結果、農村部を中心に空爆にさらされ、カンボジア国民の反政府感情が高まった。そんな中“無関係である人が死んでいくのはおかしい、農民たちを救いたい”としていたのがクメール・ルージュであり、圧倒的な支持を獲得していく。
 しかし、クメール・ルージュは当時の全人口800万人のうち300万人を殺した。それは5つの家庭に1人は犠牲者がいるということなのである。
 キリングフィールドはカンボジア全土に380箇所あり、今回見学させていただいた場所はその1つに過ぎない。だが、それでも今回見学させていただいた場所だけで2万人が殺されたのである。

 門を入って正面に慰霊塔がある。近づいていくと、慰霊塔の中に入る前から無数の骸骨が見えていた。17階建ての慰霊塔に8985体のご遺骨が納められている。こんなにたくさんのご遺骨があるのに、まだ塔には入らないお骨や見つかっていないご遺体もたくさんあるという。手を合わせてから、慰霊塔の中に入った。どうしても直視することができない。怖くてカメラを持つ手が震えた。ここでシャッターを切ってもいいのだろうか。だけど、大虐殺があったという現実を日本に持ち帰って伝えていかなければいけないことだけは確かだった。やっとの思いで1枚だけ撮らせていただいた。
 慰霊塔を出ると、ガイドさんが説明をしてくれた。反逆者として恐れられた教師や医者、政治家などの知識人から目をつけられ、中にはめがねをかけていただけで狙われたこと。拘束された人々は、新しく住む場所に移動すると伝えられキリングフィールドにつれてこられたこと。苦しませて殺すために、切れ味の悪いヤシの葉を使い、首を切ったこと。叫び声が周りに聞こえないように、大音量で楽しそうな音楽を流していたこと。遺体がむくんでばれないように、殺した後は胃を切ったこと。子どもは足を持って、頭を木に打ち付けて殺したこと。
 説明を聞いてから、キリングフィールドの中を歩いた。たくさんの穴が掘られており、その中に遺体を埋めていたのだという。穴は129個あるが、まだ80個しか見つかっていない。残りの穴は池の中に埋まってしまっているらしい。そして、歩いていると白いものを目にする。人骨だ。人の骨がまだ埋まっている上を歩く事は、ただただ申し訳ない気持ちでしかなかった。説明でもあった、子どもが打ち付けられた木も残っていた。苦しかった。なぜ人々を救いたいと思っていたポルポトは、罪のない人々を殺してしまったのだろう。そんな疑問を残したまま、私たちはキリングフィールドを後にした。
 お昼ごはんのお店に向かうときにハプニングは起きた。バスが急に故障して、止まってしまったのだ。だが、ガイドさんや近くのお店の男3人係りでバスを押したら普通に走り始めた。カンボジア、はちゃめちゃすぎている(笑)キリングフィールドの雰囲気の重たい感じであったバスの車内は、ハプニングのおかげで一気に楽しくなった。
 次の見学まで時間が少し余ったため、セントラルマーケットに寄った。ここで食べたカボチャプリンがとてもおいしかった。なんとも、カボチャは14世紀頃にポルトガル人がカンボジアの野菜として日本に伝えたことから、カンボジアがなまってカボチャになったらしい。気になる人は、カンボジアと10回言ってみてください。
 和やかな時間はあっという間に過ぎ、午後は再びカンボジアの歴史を知るために、トゥールスエン刑務所博物館を見学させていただいた。
 ここは午前行ったキリングフィールドへ殺される人を送り出す施設である。1975年以前は高校であった建物を刑務所にしたものだ。当時はS21と言っており、周りの人には分からないようにされていたため、カンボジアでもこの刑務所があることは誰も知らなかったらしい。ここに入る者は反政府的であると思われた者であり、ポルポトの1人逃がすより10人間違えて逮捕したほうがいいという考えから、女性や子どもも関係なく約2万人が収容された。その中で生きて出てこられたのは7人だけであった。
 元高校だっただけあり、建物はA棟、B棟、C棟、D棟の4つに分かれていた。A棟は実際に使用されていた拷問器具やベッドが置かれていた。床は黒く染みついている箇所があったが、これは血痕だという。壁にはベトナム軍によってトゥールスエン刑務所が発見された時に残されていた遺体の写真が展示してあった。白黒なのに生々しかった。1秒でも早く外に出たかった。外に出ると、太陽の光がまぶしく感じた。それだけ棟の中が薄暗かったのだ。棟の中は暑い気候であるカンボジアであるにも関わらず、窓もなかった。理由は、叫び声が周りに聞こえないようにするためと、暑さで弱らせ無実の人でも「私は反政府の者です。」と言わせるためであった。なぜそんなに残忍なことが考えつくのだろう。同じ人間だと思いたくなかった。
 B棟には、収容されていた人たちの写真が壁いっぱいに展示されていた。皆痩せ細っていて、瞳の輝きはなく、写真からでも絶望感が伝わってきた。ただ、そんなたくさんの写真からなにかを訴えかけられている気がした。私たちがここに来た意味は何なのだろう。何を日本に持ち帰ればいいのだろう。そんな事を考えながらB棟を出た。
 C棟からは実際に収容され、生存者7人のうちの1人であるチュン・メイさんにお話を伺うことができた。チュン・メイさんはオールドマーケットで縫製の先生をしていたところ、車の修理の名目で刑務所に連れられた。身長を測られ、顔写真を撮られて、両手足を縛られて、目隠しをされたという。刑務所に入ってからは、つめをはぎ取られ、耳に電気ショックを与えられていた。そのため今左耳は聞こえないと教えてくれた。ごはんは少量のおかゆのみで、空腹から虫も食べていたらしい。また、排泄の際に床を汚してしまうと、自分の舌で舐めてきれいにしなければならなかったという。彼は実際にC棟の独房に入り、足かせをつけて説明をしてくれた。とてもではないが見ていられなかった。人々を救いたかったポルポトはなぜこんなことをしたのだろうか。クメール・ルージュはどんな気持ちで虐殺をしていたのだろうか。彼に質問をする時間があった。だけど、知識がない私には何も聞くことができなかった。軽い気持ちで来るような場所ではなかった。もっと勉強してこればよかった。心の底からそう思った。
 今、カンボジアから帰国してちょうど1ヶ月が経ち、ようやくこのレポートを書いている。1ヶ月も経つと、だんだんと楽しかった思い出だけが残る。でも、このレポートを書くに当たって、メモや資料を見た。一瞬でキリングフィールドやトゥールスエン刑務所の嫌な記憶が戻った。1ヶ月経っても、まだ消化ができていない。書くのも辛い。できれば思い出したくなかった。だけど、絶対に忘れてはいけない。カンボジア語でお話してくれたチュン・メイさん。でも、その目からは言語は違っても熱い思いが伝わってきた。チュン・メイさんは辛い思い出を掘り起こして、私たちに過去を伝えてくれてくれた。その思いを、私もまた伝え、過去を繰り返してはいけない。そして、無知・無関心ではいけない。どんなことでもいい。常に周りに目を向け、現実を広い視野で受け止めること。どんなに小さな事でも、私たちに出来ることは必ずある。だから、他人事にしないで、出来ることを考え続けていかなければならない。それがカンボジアに行って1ヶ月経った今、私が考えていることである。

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3日目

 この日のテーマは、カンボジアの今日を知る日。
 午前はSVA(公益社団法人シャンティ国際ボランティア会)にお世話になった。この団体は、スラムでの移動図書館活動を行っている。スラムに実際に行く前にSVAの事務所で、現在のカンボジアやカンボジアの教育、そしてスラムについて説明していただいた。日本でのカンボジアのイメージは発展途上国だが、現在のカンボジアは経済成長が年7%で、中低所得国になった。しかし、教育にはまだまだ課題が残る。小学校就学率は高くなったが、教育の質に問題があり、読み書きが4年生になってもできない子もいるらしい。その原因として、2部制で午前と午後に分けて行う授業スタイルで、十分な授業時間がとれていないことや、教員の知識も約5割が中卒レベルであることなどが挙げられている。また、教育以外にも都市部と地方の広がる格差も問題となっている。スラムも例外ではない。そもそもスラムとは、見た目にみすぼらしく、土地利用計画外で社会慣習上に沿わない場所に立っている10世帯以上の家屋のことを指す。具体的な例を挙げれば、厳しい自然環境上に立地していたり、一部屋あたりの居住数が3人以上であったり、安全な水が適切な値段で手に入らないことだ。このようなスラムは、カンボジアの首都プノンペン近郊に340〜570カ所あるといわれており、プノンペンの人口約150万人のうち、約25万人がスラムに居住している。今回お邪魔したアンロン・カガンのスラムは、2001年に、市街中心部のスラムで大火災が発生し、3000世帯以上が消失した。その被害者が半ば強制的に移転し、現在約1500人が生活している。

 都市部から、車で1時間もしない場所にあるスラム。覚悟はしていたが、本当にここで住んでいるのかと疑うくらいにボロボロな家が建ち並んでいた。でも、住んでいる人々はとても幸せそうであった。私たちがチュムリアップスオ(こんにちは)と挨拶をすると、満面の笑みで挨拶を返してくれる。なんてポジティブな人たちなのだ、そう思った。どんな状況でも笑顔を絶やさないこのスラムの人みたいになりたいと思った。スラムの家を見た後は、子どもたちが集まる場所へ合流した。子どもたちはSVAのスタッフの方に環境について教えてもらった後、紙芝居の読み聞かせを真剣なまなざしで聞いていた。その後に子どもたちと遊んだ。なわとび、シャボン玉、折り紙、携帯のインカメラでの自撮り…。子どもたちは、どんなことにもキラキラのまぶしい笑顔で、目の前にあることを全力で楽しんでいた。私も久々に何にも考えずに笑った。楽しかった。ただ楽しかった。
 お昼はプノンペン市内にできたイオンモールを訪れた。ここで抑えておきたいのは、イオンが出来る前はスラムがあったということ。不審火が起きて、スラムにいた人々は強制移転させられたこと。イオンが出来たことによって雇用も生まれたが、余計に厳しい生活をしなければいけない人々も生まれたこと。SVAのように日本からカンボジアに来てボランティアをしている人がいても、日本の企業がカンボジアの人々の生活を苦しめてしまっているという現実を知ってから、イオンで自由時間を過ごした。イオン内は、日本と同じだった。むしろ、日本より豪華かもしれない。日本で人気な吉野家や銀たこなどのチェーン店も入っていた。久しぶりの日本食をおいしくいただき、集合時間になったので集合場所に行った。そしたら、なんと、安田さんが不敵な笑みを浮かべ、コオロギを持っていた。おいしいと言うので騙されたとおもって1匹だけ口に運ぶ。恐る恐る噛んでみる。おいしい!カンボジアでスムージーの次においしい!甘辛く炒めてあるコオロギは、小エビのようで何匹でも食べられた。
 コオロギも食べておなかいっぱいになったところで、午後はCHA(カンボジア・ハンディクラフト・アソシエーション)にお邪魔させてもらった。ここではポリオや地雷被害者の女性がビーズや編み物などで、キーホルダーや髪飾り、名刺入れなど様々なものを作っている。他にも縫製の技術を学んだり、英語や日本語の勉強をしたり、自立して生活するために必要なスキルとして料理なども学んでいる。CHAにいる女性たちは、この施設に来るまでは障害があるということから、家でふさぎ込んでいたそうだ。しかし、代表のハイ・キムタさんが施設に連れてきて、同じように障害を持つ人と共同生活をしていく中で、彼女たちは明るくなっていったそうだ。
 実際に彼女たちとお話をさせてもらった。カンボジアの言語であるクメール語が分からない私は、指さし会話帳を使ってなんとか話をしようとしていた。すると、彼女たちは勉強した英語と日本語を使って、「名前は?」「何歳?」「好きなことは?」など、いろんなお話をしてくれた。帰るときには、日本語で涙そうそう、さんぽ、糸を歌ってくれた。彼女たちの楽しそうにニコニコ歌うその表情からは、家でふさぎこんでいた過去があるなんて全く感じられなかった。一期一会。彼女たちがキムタさんやCHAのメンバーに出会って変わったように、どんな出会いでも1つの大切な出会いなのだと感じた。
 夜はNGOのお店でごはんを食べた。また安田さんが不敵な笑みを浮かべ、追加注文をしていた。その時は何を頼んだのか分からなかったが、店員さんの“こいつらクレイジーだ”そんな顔をしたのを鮮明に覚えているし、恐怖でしかなかった。しばらくして出てきたのは、クモだった。それも日本で見るような小さいものではなく、5㎝ほどあるようなものがクモの形そのままで出てきたのだ。おまけにアリのスープまで出てきた。結論から言えば、クモもアリのスープもおいしかった。日本ではそもそも生活の中に虫がいないから、小さな虫ですら騒がれがちだが、カンボジアでは虫なんてなんてことない。むしろ食料だ。日本は発展して綺麗すぎるのではないか、そう思った1日だった。
 夜ごはんを食べた後、バスで川沿いへ向かった。川沿いまで行く途中、独立記念塔なども見た。私が想像していた発展途上国なんかではなく、大都会かと勘違いするほどにキラキラして綺麗な街並み。もっと見ていたいと思っていても、バスはだんだんと灯りのない場所に入っていく。私たちが川沿いに来た理由、それは売春宿を見るためだった。昔ほどではないと言うが、今でもマッサージ店と見せかけて、売春宿が建ち並ぶ。内戦が終わって、カンボジアは観光業が盛んになってきた。しかし、観光業に就くことの出来る人は、裕福な家庭に生まれ、英語などの語学が出来る人に限られている。今でも身体を売ることでしか、生きていけない人もいる。貧富の差が開いているのがカンボジアの現状だった。
 この日は、カンボジアの笑顔に包まれた日だった。貧富の差という課題はあるものの、カンボジアの人の温かさに、カンボジアに来て良かったと思った。
 だが、夜のミーティングで、反省しなければならないことがあったことに気がついた。ある1人の子が言った。スラムについてのことだった。「急に行って、少し遊んで帰ってきて、私たちは何かできたのだろうか」と。ハッとした。
 この旅に同行してくれているフォトジャーナリストの安田菜津紀さんが、カンボジアに行く前の事前学習で「行く」のではなく、「行かせてもらう、頂く」という心で行くことを忘れないでと言われていた。私はその時、特に何とも思っていなかった。でも違った。スラムで住んでいる人々にとっては、スラムが日常である。考えてみてほしい。私たちが住む住宅街に、いきなり外国人がやってきて写真をバシャバシャと撮ったらどんな気持ちになるか。私なら不快でしかないと思う。スラムの人々は、私たちをどんな気持ちで受け入れ、笑顔をみせてくれたのか。スラムの人々の心の広さは尊敬以外の何物でもない。私たちはたかが数時間スラムにいて、写真を撮り、子どもたちと遊んだだけで、何かできたのだろうか。しかし、スラムの人は私たちにたくさんのことを教えてくれた。私たちは「行った」のではない、「行かせて頂いた」のだ。この気持ちのまま、明日からの研修をすごそうと決めた。

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4日目

 この日は、プノンペンに別れを告げ、ただひたすらバスでバッタンバンの街まで移動した。ゴトゴト・ガタガタして揺れるような道を通って、窓の外の鮮やかな緑色と白色の牛を見ながら走り続け、カンボジアに電車はないのかと思い始めた頃。9時間ほど掛かって、ホテルに到着した。
 夕食を食べ終わって、安田さんから、明日から泊まらせて頂くタサエン村について説明があった。お手洗いはセルフウォシュレットであること。もしかしたら、コオロギやクモを超えるゲテモノが出てくるかもしれないこと。そして、内戦時代はほとんどがポルポト派の村であったこと。お手洗いや食事の事は、もうどうでもよかった。他にも村はたくさんあるだろうに、なぜわざわざ大量虐殺をしたポルポト派の村に行くのか。この時はまだポルポト派が悪い人たちだと信じて疑わなかったし、村にも行きたくなかった。

5日目

 お昼前にはタサエン村に着いた。これから2日間お世話になる宿舎では、事前学習の時から怖いと安田さんにすり込まれていた、NPO国際地雷処理・地域復興支援の会(IMCCD)の高山良二さん、焼酎工場のミエンさん一家、宿舎でのごはんを用意してくださるハウスキーパーのマオちゃんたちが出迎えてくれた。
 荷物を置くと、すぐに地雷源に歩いて向かう。タサエン村はタイとの国境に位置しており、ポルポト最後の駐屯地である。そして、未だに400万〜600万もの不発弾が埋まっている。
 皆さんは地雷源が実際にあるなんて信じられますか?テレビの中だけの話だと思っていませんか?
 私は信じられなかった。それは実際に地雷源まで歩いているときもまだそうだった。目の前の景色は穏やかで、まさかすぐ近くに地雷があるなんて想像もつかない。しかし地雷源は本当にあるのだ。それも、人々が生活している場所から歩いてたったの30分の場所に。
 地雷源に着くと、そこではディマイナー(地雷処理の班員)さんが待っていてくれた。みんなで大きな木の下でお弁当を食べた後、いよいよ地雷の説明を高山さんがしてくれた。高山良二さんは元自衛隊員で、1992年にPKOで来たカンボジアがずっと忘れられず、36年間勤めた自衛隊を定年退官すると、1人でカンボジアに来て、自衛隊で習得した技術を使い、地雷除去・地域復興に努めている。その高山さんが先頭を歩いて、地雷がある場所へと進んで行く。そして地雷が現れた。初めて見る地雷。これが地雷か…という感じで、本当に人を傷つける物だとは、まだ信じられなかった。マスメディアでは地雷は人を殺す物ではないと伝えられているが、殺す目的で作られていると高山さんは話す。実際に最近も子どもが乗ったトラクターが対戦車地雷を踏んで犠牲になったそうだ。

 一通り地雷についての説明が終わり、ついに爆破するときがきた。今回爆破処理するのは、2つの対人地雷と1つの対戦車地雷の計3つだ。私たちは導火線に火をつける前に、お弁当を食べた大きな木よりも遠い場所へ避難した。爆破場所からは500メートル以上は確実に離れていた。サイレンが鳴り響いて、高山さんとディマイナーさんも避難するのが見えた。サイレンが鳴り始めてから2分ほど経った時。1つめが爆破し、続けて残りの2つも爆発した。激しい爆発音と振動で、心臓がドーンっと強く衝撃を受けた。怖い。臆病な私には絶対に出来ない仕事だと感じた。でも高山さんは言った。「臆病にしか出来ない仕事だ」と。この言葉を聞いた時、同じ人間なのだと思った。同時に自分がとても情けなく感じた。地雷処理の仕事には1か100しかない。誰かが少しでも怪我をしたら、それは失敗だ。命がけの仕事だから、きっとプレッシャーもあると思う。でも地雷をなくす。その目標だけを、高山さんとディマイナーさんで共有することで信頼関係を高め、危険な仕事でも事故なく活動できている。平和な日本で暮らしているとこのような現実は忘れてしまって、他人事のような気がするけれど、20年前に埋めた地雷でも、未だに被害を受けてしまう人がいて、決して過去のものにはならない兵器であること。そして、命がけで地雷を除去している人たちがいること。この現実をしっかりと受け入れ、多くの人に伝えていかなければならないと感じた。
 爆破処理も終わって緊張感が解け、高山さんがタイ国境を案内してくれた。島国である日本には隣が他の国というのは想像しにくいが、細い川を一本挟めば反対側はタイなのだという。とても不思議な感じだった。
 高山さんの車に乗って宿舎に戻る。高山さんは地雷処理の現場でこそ厳格な人だが、普段はとてもファンキーなおじさんだということが判明し、村での生活が楽しめそうだと思った。
 宿舎に帰って水浴びをする。シャワーがないなんて…と初めは思ったが、たくさん汗をかいていたので、冷たい水がとても気持ちよかった。
 水浴びを終えると、高山さんが開く日本語教室にたくさんの子どもたちが来ていた。子どもたちは元気いっぱいで、自己紹介をするとマイマーイと叫んでくれた。マイという名前はカンボジアでもポピュラーらしく、村の子どもにも3人のマイちゃんがいた。マイ同士でお話をしたり、子どもたちと日本でいうハンカチ落としの激しいバージョンをしたりして楽しんだ。村の子どもたちは本当に人なつっこくて、シャイな子がいない。なぜだろうと考えたときに、安田さんがヒントとなる言葉をくれた。「村全体が親戚のようで、子どもは誰が親なのか分からないくらい大人がみんなで面倒を見ていて素敵だよね」と。そうか、小さい頃からたくさんの人に愛されてきたからか。納得できた。この日は焼酎工場のミエンさんの娘さんの誕生日パーティーも開かれた。子どもたちとケーキを囲んでハッピーバースデーの歌を歌う。夜の10時過ぎまでみんなで食べたり、踊ったりしながら過ごした。お祝いする方も、される方も、その場にいるみんなにとって幸せな時間だったように感じた。盛大にお祝いするのがカンボジアの当たり前だとしても、幸せをたくさんの人と共有できるこの国だから、たくさんの笑顔に出会うことができるのだと思った時間だった。

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6日目

 昨日のパーティーではしゃぎすぎたおかげで、初のハンモックでもぐっすりと眠ることが出来、宿舎で飼っている犬とニワトリのうるさいくらいの目覚ましで朝5時半に起床した。澄んだ空気を吸って、朝日を浴びて、とても気持ちが良い1日の始まりだった。
 この日は高山さんがタサエン村を1日かけて案内してくださった。村にある日本企業や、学校や、タイ国境を見に行いった。中でもこの日印象的だったのは、元ポルポト派として戦っていた方のお話だ。3人にお話を伺うことが出来たが、今回はココナッツおじさんと呼ばれる方の事をみなさんにお伝えしようと思う。

 ココナッツおじさんことコイ・デンさんは両足がない。1本はポルポト兵として戦っていたときに地雷を踏みなくした。もう1本は兵士をやめ、畑を耕している時だった。彼は、地雷除去をして、自分の土地が広がっていくことに喜びを感じていた。もう十分に広くなった土地に、妻のジェ・ランさんは地雷除去なんて危険なことはやめてほしいと思っていたそうだ。しかし、彼は土地が広がっていく喜びの虜になっていた。妻の不安は現実のものとなってしまった。両足を無くした時、彼は自殺を考えたそうだ。思いとどまることができたのは、妻と息子のおかげだという。今、彼は義足で生活している。義足は私たちから見ればハンディキャップだと思う。だが、彼はそんなことは一切感じさせない。彼が2本目の足を犠牲にしてまで手に入れた畑には、たくさんの果物がなっている。そして、彼はそれだけで収入を得て、完全に自立して奥さんと幸せに暮らしている。
 今回はココナッツおじさんをピックアップしてお伝えしたが、もう1人の方も戦争で片方の足をなくしている。私は、彼らに会ってお話を伺うまで、ポルポト派は全員が悪い人たちだと決めつけていた。でも、ポルポト派として戦っていた人たちも殺さなければ殺される状況にあった犠牲者なのだ。彼らは、本当にカンボジアを良くしたかったのだ。アメリカに支配され、関係のない人たちが殺されていくのが嫌で変えたかっただけなのだ。また、中には14歳頃に教育を受けた方がいいのではと村の者に言われ、寺に入るとそのままポルポト兵として戦わざるをえなかった人もいる。だから、ポルポト派の人でも虐殺があったということを知らない人も多い。信じられないかもしれないが、これが事実なのである。“虐殺”という単語を切り抜いてしまえば、それはもちろん許されることではない。しかし、なぜ虐殺までしなければいけない状況まで追い込まれてしまったのか。ある人が「戦争は正義と正義のぶつかり合いだ」と言った。果たして、ポルポト派の人々にとって正義とは何だったのか。双方の話を聞き、物事を引いて広い視野で、様々な角度から見たときに初めて紐解けてくる物があると実感した。何もこれはポルポトの話に限ったことではなく、今世界で起きている問題にも当てはめることができると思う。先入観や決めつけがどれだけ相手を傷つけ、知らぬ間に自分も加害者になっていたことに気づいた。これは2日目にも感じた事だが、やはり無知・無関心ではいけないと。
 宿舎に戻ると、たった1日しかいないのに、家に帰ってきたような安心感があった。スタディーツアーも気付けばあっという間に半分を過ぎていた。少し疲れもでてきていたので、宿舎の方にコクチョールというカンボジア伝統のマッサージをしてもらった。これがびっくりするほど痛い。背中にはあざができる。でも不思議と身体がとっても軽くなった。
 マッサージをしてもらって元気になったところに、昨日のようにまた日本語教室へ子どもたちがやってくる。今日は遊ぶ前に勉強をする。黒板に「まい」と書くと、一生懸命ノートに書き写してくれる。スラムの子どもたちもそうだったが、子どもたちの目は本当にキラキラしていた。勉強することが楽しそうだった。
 日本語教室が終わった後、残った生徒たちと一緒に焼き肉パーティーをした。
 私は2人の女の子と一緒にごはんを食べていたのだが、質問をされた。「あなたの夢は何?」と。彼女たちにとってはきっと素朴な質問だったのだと思う。でも私は答えることができなかった。だから同じ質問を聞き返した。すると、1人は日本語の通訳になりたいと答えた。もう1人は日本語の先生になりたいと言った。彼女たちは限られた学びの場で、夢をかなえるために最大限に努力している。私は、高いお金を親に払ってもらって大学に入れてもらったのに、目標すらない。ましてや、授業もほとんど寝ている。自分が情けなかった。そして考えた。いつから夢がないのだろうと。小学校3年生くらいまでは夢がころころ変わっていた覚えがある。彼女たちみたいに会話の中で自然に「夢は何?」がでてきていた。それが少しずつ大人になっていく過程で、夢を語るのが恥ずかしくなってきて、夢よりも現実を見るようになった。年収や地位など周りからの見方ばかりを考え、夢なんてみなくなった。もしかしたら、それは当たり前のことなのかもしれない。大人になるってそうゆうことなのかもしれない。それでも彼女たちには絶対に私みたいにはなってほしくないと思った。キラキラしたまま、真っ白なまま、夢に向かってまっすぐに歩んでほしいと思った。そして、私は夢を語れる彼女たちがうらやましかった。まぶしかった。私も何か1つでいいから、ひたむきに頑張れることを見つけようと思った。

7日目

 いよいよ村を去る日が来た。出発までの時間はミエンさんの焼酎工場の見学などをさせて頂いた。焼酎はキャッサバから造られている。この原材料となるキャッサバは、地雷処理が終わり、広大な空き地にキャッサバの木を植えてできたものだ。地雷処理をするだけではなく、そこからまた雇用を生み出すことが復興だと教えて頂き、奥の深さに感激した。
 出発の時がやってきた。たった2日だったけれど、タサエン村で得たものは多かった。村の人とお別れするのはさみしいけど、また必ずこの温かい笑顔のもとに帰ってこようと決め、私たちはシェムリアップへと向かった。
 シェムリアップはタサエン村と同じ国とは思えないほど、観光地だった。そして観光地であるがゆえに直面している問題がある。それをシェムリアップに着いて一番初めに、見に行くことにした。

 トゥクトゥクと呼ばれるバイクタクシーに乗ること40分。周りには何もない。私たちが着いた先。それは、シェムリアップ中のゴミが集められている場所だ。着いた瞬間に漂う臭いに、思わず鼻を覆いたくなった。でも、それだけはしたくなかった。なぜならば、そこで生活をしている人たちがいると知っていたから。そうは言っても私の顔は明らかにゆがんでいたと思う。そして、ゴミ山を進んで行った先に目を疑う光景があった。地平線や水平線といえば分かりやすいだろうか。どこまでも果てしなくゴミしかない場所が、そこには存在した。呆然と立ち尽くしていると1台のトラックがやってきた。大量のゴミを下ろして帰って行く。そして、そのゴミに群がり、ゴミを漁る人たちがいた。子どもの姿もあった。彼らはゴミの中から金属やプラスチックなどの金目になるものを探して、生計を立てている。ゴミ山にいることで嗅覚に問題があったり、ゴミで足を怪我してしまったりするらしい。このようなリスクがあり、これだけカンボジアが観光地になった今でも、ゴミを集めることでしか生きていくことができない人たちもいるのが現状だ。
 ゴミ山の上に家なのだろうか、お父さんとお母さんと赤ちゃんがいる簡易的な建物があった。その家族に、私は写真を撮ってもいいですかと尋ねた。こんなところに観光客がやってきて、何をしに来たのかと怒られるかと思っていた。しかし、私の頭の中で考えていた事が起こることはなく、家族はにっこりとほほえんだ。びっくりした。シェムリアップの人口は18万人で、観光客の人数は約300万人である。だから、このゴミ山のゴミは、ほとんど300万人の観光客が出したものなのである。それなのに、なぜ300万分の1である私に、そこで笑顔を向けてくれたのか、全く意味が分からなかった。きっと怒られた方がスッキリしていた。
 疑問を抱えたままホテルに戻る。それは私だけではなく、やはり皆同じだった。ミーティングの時間に、安田さんがまたヒントとなる言葉をくれた。「何も無いカンボジアで、最後に残るのは人と人との繋がり。人との繋がりが自分の価値」これは安田さんが昔カンボジアで出会った女の子に言われた言葉だそうだ。また自分が情けなくなった。私は、自分勝手すぎている。家族も友達も全然大切にできていない。私の価値はない。瞬間的にそう思った。

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8日目

 この日は世界遺産であるアンコール遺跡群を、ガイドさんに案内してもらいながら回る。初めに行ったのは、アンコール・トム。アンコール・トムはジャヤバルマン7世が作った、昔の都だそうだ。外から少しだけ見て、次の遺跡へ移動する。
 2つめの遺跡タプロームは、ジャヤバルマン7世が母のために作った寺院である。テレビやインターネットなどでよく目にする、樹木が絡みついている遺跡だ。樹木の絡みつきが、長い年月を経て今ここにあることを感じさせる。そして、作った当時は仏教寺院だったが、後にヒンドゥー教寺院になった為、像の顔が彫ってなくなっていたのが印象的だった。

 お昼ごはんを挟み、知名度も人気もナンバーワンのアンコールワットへ向かう。アンコールワットは、12世紀前半に、30年もの歳月をかけてスーリアバルマンが造った寺院である。アンコールワットの第三回廊に上らせて頂いた。階段はとても急で怖かったが、上から見た景色は私を王の気分にさせてくれた。下に戻り、第一回廊の神話・乳海攪拌や、天国と地獄や、ラーマーヤナ物語の壁画をガイドさんが説明してくれる。どれもとても細かく彫ってあり、同じ人間が彫ったものとは思えなかった。1600年代に日本人が訪れた際に残した落書きも見ることができた。
 夕暮れの時間になり、朝にも行ったアンコール・トムへ戻る。夕日が当たると、朝見た時とは違って、優しい印象になっていた。時間によって遺跡の見え方が変わるのは非常におもしろいと感じた。アンコール・トムの中心に位置するバイヨン。バイヨンには尊顔が173体ある。この尊顔はジャヤバルマン7世しか創っていないものだという。遺跡にも造った人のオリジナリティがあるのだ。
 正直に言うと、私は遺跡にはあまり興味がなかった。しかし、ガイドさんがいろいろ教えてくださったおかげで楽しむことが出来た。遺跡からは歴史を知ることが出来、歴史を知ることが遺跡に対しての敬意を払うことであり、歴史を知ってこそ楽しめるのだなと感じた。

9日目

 最終日の午前中は、かものはしプロジェクトの見学をさせて頂いた。かものはしプロジェクトは児童売買春撲滅に取り組んでいる日本のNPOである。売られてしまう子どもたちは、収入の乏しい農村部から出ていることが多いらしい。そこで農村部で、カンボジアで取れるいぐさを使用して商品を作り、安定した収入を得ることで、児童売春問題解決と、親や子どもの経済的な自立も目指している。

 ここでは、ただいぐさ商品を作るだけではなく、女性が快適に仕事をするための様々な取り組みがある。まず、小学校を退学してしまった女性のための識字教室。日記を書くことで、未来志向も身につけている。次に、給食制度。栄養バランスの偏った食事を取っていた為、風邪をひいて欠勤する女性が多かったらしい。その改善策として設けたのだが、今は女性たちの楽しみの1つである。最後に貯金制度。病気や事故に遭ったときに、治療費を払えず借金をすることを防ぐために毎日$0.25を給与から天引きし、かものはしからも同額を上乗せしている。女性たちはいつでもそのお金を無利子で引き出すことが出来る。
 この制度を教えてもらったとき、本当に働く女性のことを1番に考えているプロジェクトなのだなと、胸があたたかくなった。そして、女性たちが作ったいぐさ商品も買わせてもらったが、本当によくできていて、かわいらしいし、実用性のあるものばかりだった。
女性たちにお別れを告げ、午後は自由行動の時間だった。オールドマーケットへ出かける。ズボンやお椀など、いろいろなものがあって目移りしてしまう。お店の人に、ギリギリまで安くしてもらうために交渉するのが楽しかった。とは言うが、カンボジアは元から物価が安いと改めて思った。自由時間は束の間の観光タイムだったけれど、お土産をたくさん買うことが出来た。
 ついに帰国の時がやってきた。この9日間は、駆け抜けるように一瞬で過ぎ去ってしまったが、19年間生きてきた中で、一番濃い時間だったことは間違いない。安田さんが、帰ってからが本当のスタディーツアーの始まりと言ってくださった。まだまだカンボジアに残っていたいが、成長して戻ってこよう。そう誓った。

10日目

 日本に到着後、1番初めに思ったことは、トイレが綺麗だと言うこと。ほんとにトイレに布団を引いて寝られるくらいに、日本のトイレは綺麗だと思った。 こんな感じで、空港で解散をして、私たちのカンボジア研修は幕を閉じた。

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帰国後

 帰ってからがスタディーツアーだという安田さんの言葉は本当だった。今まで当たり前だったこと一つ一つに、違和感を感じるようになっていた。初めて違和感を覚えたのは帰国してすぐの、家に帰るために乗った電車の中だった。大きなキャリーケースを持って電車に乗る。電車の中ではみんなスマートフォンを触っている。他人にはまるで関心が無い。どこ行ってきたの?そう聞いてくれる人はいなかった。さみしかった。日本人は優しいと思っていたし、日本は平和で、豊かで、食べ物もおいしくて、日本ほどいい国はないと思っていた。でも帰国して、私は少し日本が嫌いになっていた。日本人は気遣いができるのであって、優しいわけではないと感じた。
 違和感はその後もずっと続いた。東京に1人で出かけたある日。東京は素敵な街であるにも関わらず、みんな歩きながらスマートフォンを見て、自分の世界に入り込んでいた。駅員さんに道を尋ねてお礼を言っても、ニコってしてくれなかった。悲しかった。カンボジアなら、1人でいたら絶対に声かけてくれただろうなと思いながら歩く。そして、ふとあることに気づいた。カンボジアなら言葉が分からなくても“こんにちは”と“ありがとう”と“大丈夫”だけ分かれば過ごしていけるくらい“ありがとう”ばっかり言っているのに、日本人は“ごめんなさい”ばかりだなと。日本人は自ら幸せを捨てているのではないかと思った。
 私が行き着いた疑問。豊かって何だろう。経済が豊か。心が豊か。日本はどうだろう。どちらがいいのだろう。そんなことを考えるが、きっとその答えは1人1人違うし、違って良いものなのだと思う。
 このように日常の中でいろいろな事を考えるようになった。カンボジアから帰国して1ヶ月を過ぎた頃、私はまた少しずつ日本が好きになっていた。それは、他人に無関心な日本でも、世界は一長一短で、それぞれの国の良いところと悪いところが組み合わさって世界なのだと思えるようになったからだ。日本人の真面目さが、世界の役に立っていることも知った。カンボジアに行かなければ、このようなことを考えることはなかったと思う。母国である日本の良いところをこれからも見つけていきたいと思う。また、1つの地球に住む1人の人間として、日本から世界の事にも目を向けて、考えることをやめずにいたい。そう思っている。

最後に

 あなたの夢はなんですか。私の夢はまだ見つからないけど、今1つ目標ができた。それは、生きていくことに苦しさを感じている人たちに、ボランティアをすること。カンボジアに行く前からボランティア活動はしていた。だけど、半分は就活のため、自分のためだった。よくないことだとは思っていたが、それでも何もしないよりは少しでも役に立てているからいいと思ってやっていた。でも、カンボジアに行って、私たちが貧しい暮らしをしていると思っていた場所では、貧しいけれど笑顔があふれる幸せな生活をしていた。すぐ結果が出る事の方が、支援者もお金も集まりやすいけど、それって本当に必要な支援なのか疑問になって、しばらくずっとモヤモヤしていた。だけど、ようやく答えが出た。私は、相手の“タメ”になることではなく、相手の“喜ぶ”ことがしたい。ボランティアを受ける方は、ボランティアによって喜び、幸せを感じてほしい。ボランティアをする方は、受けた方の喜んだ顔を見て幸せを感じたい。お互いが幸せを感じ、「明日もまた生きよう。」そう思えるボランティアをしたい。今はまだ学生の私に、何が出来るか分からないけれど、心からこのボランティアを成功させたいと思っている。これが今の私の目標だ。
 あなたにとって大切なものは何ですか。私にとって大切なものは、家族・友達・先輩など、私に関わってくれる全ての人だ。私は、少し自分とは合わないなという人に出会うと、自ら距離をとったり、冷たく接したりしていた。でもそれは違うと分かった。人には、人それぞれに価値観がある。たくさんの人がいるから、価値観が合わない人がいるのは当たり前だ。ただ、それを合わない人だからといって関わらないのではなく、合わないからこそ意見交換をしたいと思えるようになった。いろいろな人と関わって、自らの価値観を広げたい。出会いは一期一会だ。私と関わってくれる全ての人に感謝をしていきていきたい。
 あなたは今幸せですか。私はとっても幸せです。
 朝。目が覚めてカーテン越しに届く日差しと、布団のぬくもりに気持ちよさを感じる。平日。学校に行けば、時にはふざけた話や馬鹿なことをして笑い合い、時には真剣に話し合える友達がいる。そして、勉強することができる。アルバイトに行けば、頼れる先輩や、頼ってくれる後輩、悩みを聞いてくれる同期がいる。仕事をすることは、責任を伴い、大変なことが多いけど、やりがいがある。休日には、昔話に花を咲かせたり、近状報告をしたり、しばらく会っていなくても変わらず仲良くしてくれる友達がいる。1日の終わり。帰りが遅くなると心配してメールをしてくるお母さん。家に帰ると、眠たそうなお母さんと、家族のために一生懸命に働いて疲れているお父さんと、部活で疲れている妹と、遊んでほしいと足にすり寄ってくる猫がいる。キッチンには夜ごはんが準備されていて、食べ終わるとお風呂に入る。お風呂から上がると、リビングにいる家族とその日あったことを話しながらテレビを見て、しばらくするとベッドへ向かい、眠りにつく。そして、また朝を迎える。毎日似たようなことの繰り返し。私は、どこにでもいる普通の女子大学生だ。
 特別なことなんて何も無い。普通の毎日。そんな毎日に、実は小さな幸せがちりばめられている。たとえば今日は天気がいいとか。お化粧がきれいにできたとか。友達との話が面白かったとか。コンビニでお会計をするときに、ぴったり出せたとか。かわいい猫に出会えたとか。アルバイトでお客様に褒めてもらえたとか。ごはんがおいしかったとか。大きな幸せではないけれど、毎日の中にある見逃しそうなほど小さな幸せ。そして、たまに訪れる大きな幸せ。大きな幸せなんて思いつかないけれど、きっと私は、たまに訪れる大きな幸せに、特別を感じる。
 だけど、特別は“普通の毎日”があるから、“特別”だと感じることが出来る。普通の毎日が当たり前だから気づきにくいけれど、本当は小さな幸せがちりばめられている普通の毎日の方が特別で、幸せなのかもしれない。そう気づかせてくれたのは、カンボジアだ。
 カンボジアは日本より貧しい。貧しいけど、幸せそうだった。私もカンボジアにいるとき幸せだった。カンボジアにいるときは、携帯は自由に使えなかった。インターネットも、テレビも見ていない。カンボジアでは、日本の生活では欠かせない現代的な電子機器などは使っていないのに幸せだった。理由は簡単だ。小さな幸せにたくさん気がつくことができたから。小さな幸せはとても原始的で、普通の毎日の中のそこら中にちりばめられていると知った。カンボジアだからとか、日本だからとかは関係ない。小さな幸せを見つけるのは、自分次第なのだ。私は、小さな幸せをたくさん見つけたい。小さな幸せを見つけることが、いつもニコニコして前向きに生きていくことへの近道だと思うから。生きていれば、嫌なことや悲しいことは絶対にあるけど、小さな幸せさえあれば、きっとどんなことでも乗り越えていけると思うから。だから、今日も普通の毎日を生きよう。1度きりの人生を、後悔しないように精一杯楽しもう。今日も、明日も、明後日も。小さな幸せを見つけて、毎日幸せに過ごせますように。

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感謝の気持ち

 私が今回カンボジアに行くことが出来たのは、クメール・ルージュの悲しい過去を知っていても、私の行きたいという意志を尊重し、高い旅行代金を出してくれた両親のおかげです。ありがとうございました。
 そして、今回のカンボジア研修を意味のあるものにすることが出来たのは、プランをたててくれた方や、ガイドをしてくださった方、常に私たちのことに気を遣ってくれた先生達と、現地で私たちを温かく迎え入れてくれた高山さんをはじめとするカンボジアのみなさんのおかげです。ありがとうございました。
 最後となってしまいましたが、今回のカンボジア研修が充実したのは、カンボジアを通し自分の人生について考えるきかっけをくださったフォトジャーナリストの安田菜津紀さんのおかげです。安田さんがご同行してくださらなければ、こんなにカンボジアに惹き込まれることはなかったのかなと。アジアという大きな分野にはなってしまうけど、やっと大学でやりたい勉強も見つかりました。これから、いつも笑顔で自然と周りに人が寄ってくるお陽様のような安田さんみたいになれるように、また会える日まで私も頑張ります。本当にありがとうございました。

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