2005年08月01日 (月)

今日のお題:幕末志士における読書――吉田松陰をめぐる同志的ネットワーク構築の一例として(明治維新史学会『明治維新史研究8・明治維新と文化』吉川弘文館、2005年8月)

   はじめに

近年、近世における読書に関する研究が盛んである。しかしこれらの研究の多くは、「なにが読まれたか」という書誌学的な問いから出発しているのではない。むしろ、若尾政希氏の「太平記読み」に関する論攷(『「太平記読み」の時代』平凡社1999年)にも代表されているように、あるテクストが「どのように読まれたか」、あるいは、ある人物が「どのように読書をしたか」を主題としている点で、これまでの文献解釈学的な方法論とは異なった新しい分析視点を思想史の分野に提供している。この意味で、近年の近世読書研究は、読書の存在形態の研究と言うことができるであろう。

幕末志士の一人である吉田松陰(1830(天保1)?1859(安政6))が、みずからの活動の一環として、大量の書籍を読破し、その抄録を作成したことはよく知られた事実である。とくにその読書活動が活発になるのが、1854(安政1)年に際来航したペリー艦隊への密航の罪によって投ぜられた獄中・幽囚中においてであった。それは、まさに松陰が、友人で門人の桂小五郎に宛てて「僕罪を獲て以来、首を図書に埋め、以為へらく天下の至楽、以て是れに尚ふるなし」(「桂小五郎に与ふる書」1857(安政4)年10月29日、『丁巳幽室文稿』、『吉田松陰全集』(大衆版)4巻138頁)と語った通りであって、その詳細な読書記録は、1854(安政1)年10月に始まる足かけ四年の『野山獄読書記』(以下『読書記』)に明らかである。

『読書記』に計上されている全読了冊数1460冊という膨大な書籍のなかには、もとより松陰の実家の蔵書もある程度含まれていたと考えられるが、その多くは実兄の杉梅太郎や松陰の友人たちの借本という形でもたらされたものであり、その記録の一部は『書物目録』や『借本録』に残っている。借本の多くは萩城下やその近郊の友人からのものであるが、中には、諸国遊歴を続ける安芸の一向勤王僧宇都宮黙霖が来萩した際に借りた山県大弐『柳子新論』のような事例もあり、借本を通じた松陰の交友関係の広さを示している。

その他にも松陰は、江戸藩邸大番手勤務の学友である久保清太郎を通じて、書籍の蒐集を依頼している。

「先師の文集之れあるべき事に存ぜられ候。是れ亦長原〔武〕へ御聞合せ下さるべく候。総じて先師赤穂謫後のもの、尤も得難き様に存ぜられ候。」(「久保清太郎宛」1856(安政3)年7月5日、7巻430頁)

先師とは、松陰が修めた山鹿流兵学の学祖・山鹿素行のことである。松陰は1856(安政3)年頃から山鹿素行へ回帰する傾向を見せており、この書籍の蒐集依頼はその一環と言える。さらに、ここで「聞合せ」されている長原武とは、大垣藩の陪臣であり、松陰が江戸留学の際に兵学修行をした山鹿素水塾の同窓であった。このように松陰は、獄中・幽囚中にありながらも、広範な人脈を有しており、それは書籍の入手のためだけではなく、一方でみずからの志を共有する人々とのネットワークとしても機能したのである。

松陰は長州藩内でもかなり遠距離に居住する人物と書籍の貸借を行っており、本稿はまず三田尻(現防府市)の下級官吏で蔵書家の岸御園と松陰との間における書籍貸借の実態から、それがさらに藩という枠組みを越えた人的ネットワークを構築する過程を明かにし、さらに、須佐(現萩市)の育英館学頭小国剛蔵との書籍貸借を通した幕末志士の同志的連帯の形成について論ずることを目的とするものである。このことは幕末志士における公共性の基礎となったその「志」なるものが、「尊王」や「攘夷」といった単なる観念的な言説などではなく、実際の具体的な関係の中で育まれていった事実を示すことになろう。

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