2005年03月01日 (火)

今日のお題:幕末における普遍と固有――吉田松陰と山県太華(日本思想史研究会『年報日本思想史』第4号2005年3月)

 東漸する西洋列強を中心とした「国際社会」の確立という世界史的状況を現前にした一九世紀後半の東アジアにおいて、そのいわゆる「国際社会」なるものの認識において、朱子学的普遍主義がはたした役割の大きさについては、しばしば論及されるところである。すなわち、「万国公法」(international law)の受容において、その根幹を支える「自然法」(natural law)の概念に関し、それが「性法」と訳されたことも相俟って、朱子学の「性即理」の観念が大きく貢献した。この点を早い時期から指摘した人物に、丸山真男がいる。

「この〔国家平等観念受容の〕媒介の役を果たしたのがほかならぬ儒教哲学である。とくに旧幕時代に正統的教学として君臨した朱子学の論理構成がこうした役割を果たした、ということは一つの歴史的イロニィに属する。ちょうどヨーロッパにおける国家平等の観念がストア主義とキリスト教に由来する自然法思想の背景の下に形成されたように、わが国において朱子学に内在する一種の自然法的観念が、諸国家の上にあって、諸国家を等しく規律するある規範(ノルム)が存在することを承認する媒介となった。」(1)

 もとよりこれは、丸山が朱子学を近世の正統イデオロギーであると考えていた時期の論攷であるが、その朱子学理解が改められたのちにおいても、朱子学を経由した「万国公法」・「国際社会」の受容という図式は残り、今日に至っている。

 たしかに、東アジアにおける「万国公法」(2)の理解に朱子学が果たした役割は否定できない。しかし、「万国公法」の基礎をなしている自然法が、「個人」における自然法のアナロジーとして構成されているという法思想的史背景を閑却し、ただその「公理」性をのみを受容してしまったことは、「万国公法」を人間が定めた法としてではなく、超越的な真理として理解することともなり、それゆえ、現実の「万国公法」の運用に際して、多くの問題を生じさせることとなったことも否定できない事実である(3)。

 すなわち「万国公法」の運用には「公理」としての普遍性と同時に、その法を実践する主体たる諸国家の固有性が理解されることが不可欠であった以上、その受容の問題は、単に普遍性の承認を照準とするのだけでは十分ではない。むしろ「日本」という自己を、「国際社会」において、他者たる「万国」に対峙させていこうとする自他認識の転回こそが問題とされなければならないのである(4)。

 本稿は、幕末の思想家である吉田松陰(一八三〇〈天保元〉?五九〈安政六〉)における普遍と固有の問題を、老朱子学者山県太華(一七八一〈天明元〉?一八六六〈慶応二〉)との論争から論ずることを目的とするものであり、このことは、幕末日本が「国際社会」という一箇の普遍に対し、いかに対応しようとしたのかを明らかにすることに資するものとなろう。

   註
(1)丸山真男「近代日本思想史における国家理性の問題」一九四九年、丸山真男『忠誠と反逆』一九九八年ちくま学芸文庫二四九頁。
(2)W・マーティン漢抄訳の『万国公法』(H・ウェートンElements of International Law 6ed.1855.)は一八六四年刊、翌年和刻。
(3)この傾向は、とくに朝鮮において強かった。それは、「万国公法」に裏切られるまでに、比較的時間を要したためでもある。金容九「朝鮮における万国公法の受容と適用」、『東アジア近代史』第二号一九九九年参照。
(4)幕末維新期における自他認識の転回については、拙稿「幕末維新期における自他認識の転回――吉田松陰を中心に」(『年報日本思想史』創刊号二〇〇二年)参照。

2005年03月01日 (火)

今日のお題:吉田松陰の「神勅」観――「教」から「理」へ、そして「信」へ(日本倫理学会『倫理学年報』第54集2005年3月)

   On YOSHIDA Shōin's view of “Shinchoku”(the divine Edict of Amaterasu Ōmikami or the Sun Goddess)

The purpose of this paper is to explicate a formation process of YOSHIDA Shōin's (an activist and royalist in the last days of the Tokugawa-regime 1830-1859) philosophy concerned with Shintō (the way of the gods), especially “Shinchoku”.

"This Reed-plain-1500-autumns-fair-rice-ear Land is the region which my descendants shall be lords of. Do thou, my August Grandchild, proceed thither and govern it. Go! And may prosperity attend thy dynasty, and may it, like Heaven and Earth, endure for ever"(“Nihongi” Trans. W. Aston. 1924. 1:77.) .

This is what is called “Tenjō-mukyū-no-Shinchoku” (the divine Edict of eternity as heaven and earth) promulgated by Amaterasu Ōmikami, who sent her grandson from heaven to earth (Japan) to found a dynasty “to rule eternally”. Shōin believed in “Shinchoku”, asserting that “every way of Kōkoku (the Empire of Tennō) originated in the age of the gods; therefore all Japanese subjects should believe in this myth (‘Kōmō-Sakki-hyōgo-no-hanpyō').” This paper provide an answer to the question as to why he came to believe in it.

In Shōin' s early period, he considered Shintō and “Shinchoku” an ideology to rule people. The reason why he came to believe in “Shinchoku” was that Kokugaku (Japan's “Native Studies”) had exerted a strong influence upon his thought. He read in MOTOORI Norinaga's (a pivotal scholar of Native Studies 1730-1801) “Naobi-no-Mitama” (the Spirit of Renovation) that “Shinchoku” had been the sacred promise which assured eternal independence of Japan. Since then, he came to regard “Shinchoku” not as a mere ideology but as the thesis that everyone has to believe in. It was this belief, that lay in his thought at the foundation of his Sonnō-jōi (Revere the Emperor and Expel the Barbarians) movement. Although it is generally accepted that “Shinchoku” was a political ideology in modern Japan's Emperor system, for Shōin the meaning of “Shinchoku” was completely different from that of modern Japan.


    吉田松陰の「神勅」(天照大神の聖勅)観について

本稿の目的は、吉田松陰(幕末の活動家・尊王家、1830-1859)の思想形成過程を、神道――とくに「神勅」に関して詳論することである。

「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治せ。宝祚の隆まさむこと、当に天壌と窮り無けむ。」(坂本太郎他校注『日本書紀』岩波文庫1994年、1巻132頁)

これが、天照大神によって発せられたいわゆる「天壌無窮の神勅」である。この神は、みずからの孫を、永遠に統治される王朝の樹立のために、高天原から大地(日本)に降したのであった。松陰はこの「神勅」を信じ、それゆえ次のように主張したのである。「皇国の道悉く神代に原づく。則ち此の巻〔『日本書紀』神代巻〕は臣子の宜しく信奉すべき所なり」(「講孟箚記評語の反評」)と。本稿は、彼がなぜ「神勅」を信じるに至ったのかという疑問に解答を与えるものである。

初期松陰において、神道や「神勅」は人民統治のためのイデオロギーと考えられていた。彼が「神勅」を信じるようになった理由は、国学が彼に強い影響を与えたからである。彼は、本居宣長(著名な国学者、1730-1801)の『直昆霊』を読み、「神勅」が日本に永遠の独立を保証する神聖な約束であることを知った。それゆえ彼は、「神勅」をたんなるイデオロギーとしてではなく、すべてのものが信ずべきテーゼとして考えるに至ったのである。この「信」こそが、彼の思想においてその尊王攘夷運動の基礎をなした。周知のように、「神勅」は近代日本天皇制の政治的イデオロギーであった。しかし松陰にとっての「神勅」の意味は、近代日本のそれとは全く異なっていたのである。

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