2017年05月15日 (月)

今日のお題:湯島聖堂探訪(2016年12月24日)

前日の研究会に続けて、以前からの懸案であった湯島聖堂を訪問。

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湯島聖堂門前

「今まで行ったことなかったんですか〜。」と言われると、まことに忸怩たる所ではございます。

もとより、むかし行った気もするのですが、当時はそこまで意識が高くなかったので、たんなる物見遊山であったようで、まるで記憶がございません。

じゃぁ今回は物見遊山ではないのか、と言われますと何とも返す言葉がございません

なんにしましても、改めての訪問でございます。

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仰高門

東側から参りますと最初にあるのが仰高門でございます。事務所前を素通りして、右手に鎮座ましましておりますのが、世界最大の孔子銅像だそうでございます。

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孔子像

まぁ、こちらの銅像でございますが、毎度思うのは、こういう所にも写真が置いてあるのですが、正面の写真だけ見ても大きさが分からないというところでございまして、何か対比できるものがないとどうにもいけません。ということで、こういう写真も撮ってみた次第。

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孔子像対比

孔子にせよ観覧者にせよ顔が隠れておりますが、その大きさはおわかりいただけただろうか

などと、怪力乱神を語らないと言う孔夫子に怒られそうな――怒られるのはそこじゃないだろう――フレーズをのたまいながらさらに階段を上ると、

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入徳門前

入徳門がございます。

「徳に入れるのか〜」、と不徳の致すところ満載の当方としましては、誠に有難い気持ちになりながら、結構な段数の階段を恨みつつさらに上る次第でございます。

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入徳門

ちなみにこの入徳門は、関東大震災で被害を受けなかったそうで、聖堂のなかでは唯一の木造建築物なんだそうであります。1704年に作ったと言うことは、元禄越えたあたりですな。まだ徳川綱吉は生きてます
(追記:元禄末年でした。改元して宝永元年になります。適当に記憶だけで書いてはいけませんな)。


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杏壇門

杏壇門をくぐりますと、遂に大成殿となります。

関東大震災で全部焼失して、コンクリで復元したとは言え、かつてここで儒学者と国学者とが学神祭論争を繰り広げたり、そのせいで大学本校自体が消滅したり、さらには、今日の東京国立博物館の出発点となる日本初の官製博覧会が開かれたり、さらには新聞縦覧所になったりと、文教の中心地なんだろうけど、絶対にそれって大成殿でやってはいけないよねということをやりまくったことに想いを馳せ、胸が熱くなった次第でございます。

というか、その前に、そもそも昌平坂学問所だったということに想いを致しなさい、と申し上げたい。

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大成殿でございます。

寛政改革で大成殿を作る際には、朱舜水の「学宮図説」(1670)に基づいて徳川光圀が作らせたミニチュア(1/30スケールの木製模型)が参考になったそうです。できれば光圀も大成殿を作りたかったのでしょうが、『大日本史』とか作ったりして財政的にも体制的にも厳しくなったんでしょうね。

ちなみに後年、水戸に弘道館が作られたときは、この模型はまったく参考にされなかったわけで、神儒一致のまことに不思議な藩校になった次第。

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大成殿に入ります。

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釈奠器配置図でございます。ははぁ、こんな感じなんですねぇ。大変に参考になりますよ

真ん中にある「俎(そ)」は、所謂「俎上の魚」の俎でございまして、ここにお肉とか載せて差し上げるわけですが、さすがに平時には載せてございません。

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全体を眺めますと、こんな感じでございます。孔子像に加えて孟子とかの継承者4人の像もございます。

とまぁ、まことに堪能しながら、ノンビリと出て参りますと、川を挟んで――嗚嗟、これが神田川なんですな――向こうの方になにやら不思議なドームが見えます。

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これが水道橋なら東京ドームということで済むのですが――なにが済むんだか――、コトはそう簡単ではございません。

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まぁ、なんのこたぁない、ニコライ堂なんですけどね。

正式名称「日本ハリストス正教会教団・東京復活大聖堂教会」ですから、こちらも立派な「聖堂」でございます。

立派どころか「大」まで付く聖堂ですので、まったくもって立派でございます。

今は色々と間に建屋やら駅舎やらが入っていますが、かつては聖堂の辺りからよくよく見えたモノなのだろうなぁとなんとも不思議に思われたり致します。

すくなくとも、大門と東京タワーですとか雷門とスカイツリーとかいうような、単純な新旧対峙とは異なる何かがそこにはあったんだろうと思ったり致します。まぁ、それ以前に、釈奠再開以前の文明開化満面の状況を考えますと、新旧対峙以前の何かがあったとも申せますが。

とは言え、釈奠と申しますか、孔子祭典会が再開されたところで、本当にそれがかつての孔子崇拝を意味したのかというとそうでもないようでございます。

イノテツこと井上哲次郎(1855-1944)先生がおっしゃるには、孔子は「平凡の非凡」なんだそうでございます。平凡なんだけど、どえらい平凡と言うことで。

孔子の人格を見ると何処か果して孔子の欠点といふ所でありませうか。私は色々考へて見たが孔子の欠点を挙げるといふことは余程困難であります。孔子でも絶対的に完全なりといふことは無論言へませぬ。

けれ共(ども)孔子は人間中最も欠点の少ない人であります。是が孔子のいけない点だといふ著しい所を挙げて言ふことは余程六つかしい。さう云ふ様な訳で。孔子はあらゆる方面を揃へてズッとヅ抜けて大きくなった。即ち平凡が非凡になった。平凡の非凡。そこが一番六つかしい

マァ孔子の経て来た所の道筋は能く分って居ります。貧賤なる学生からやり上げた。何でも無い様であるがそれならばどの学生でも孔子の様になれる。なれる訳だがさてやって見るとナカナカ大変なものであります。そこで益々孔子の偉大な所が分る。

大変な六つかしい所をズッと高い所までやつた。併しナカナカ入り易い所があるからして誰でもやればやれる筈であります。

井上哲次郎「孔子の人格に就いて(孔子祭典会講演)」1907年、『日本朱子学派之哲学(増訂五版)』富山房、1915年、726〜727頁、改行引用者


孔子の聖は徹底的に平凡を行き詰めたものであり、だから我々もこれに倣って孔子のようになれるんだ。まぁ、難しいんだけどもね――と哲次郎先生はおっしゃる。

「聖人、学びて至るべし」というのは昔からあるお話なのですが、しかしながら「平凡の非凡」という話になりますと、「聖人」というお話はどこかに行ってしまう。孔子を聖なる地位から引きずり下ろして、さらにこの身と地続きなところに据えて、拳拳服膺して咸(み)な其の徳を一にせよということになります。

結局の所、儒学はそうやって近代化――国民道徳化――されていったんだなぁということをぼんやり思いながら、帰途についた次第。

※訪問してからこの文章を書き上げるのに、どういうわけか半年近くかかりました。せっかく写真を撮ったので、たまにはupしてみようとか思ったのが間違いでした。

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