2011年07月02日 (土)

今日のお題:三次元の復興

先日人間ドックに行ってきました。

なにが驚いたかと申しますと、眼が異常に悪くなっていたことです。右1.2の左0.8というどう考えてもあり得ない状態で、先日眼鏡屋さんに参りました。いつの間にこんなに悪くなってしまったのでしょうか。やはり震災時の不摂生の賜物でしょうか。>多分違います。

とりあえず、いま使っている強度の近乱眼鏡を見せて、ちょっと調整していただいて、現状の視力を計っていただくことに。

結果は……両目とも1.2でした

なんだそれ。

どうも、メガネが曲がっていたせいだったようで、調整していただいたら普通に見えるようになったようです。眼鏡屋さんにも「作り直す必要はありませんね」と太鼓判を押され、新しいメガネを作る気満々だった心が一気にしぼんでしまいました。

そういや3.11のとき、机の下に逃げ込むときだったかメガネを強打した記憶があります。あのときからおかしかったんだろうなぁ、と思い返してみる次第。

で、メガネを直し、視力が戻った所、全国の私一人の皆さんから喜びの声が。

あのしつこかった右まぶたのケイレンが無くなりました!(仙台市Kさん・36歳)
左腕のしびれが消えました。ありがとうございます。(仙台市Kさん・36歳)
生まれて初めて肩凝りを経験していたのですが、全くなくなりました!(仙台市Kさん・36歳)
腰痛からさよならです(仙台市Kさん・36歳)
原稿が書けるようになりました! 締切は過ぎてますが、頑張ります。(仙台市Kさん・36歳)

両眼の復興でふたたび学究生活に戻れます。ありがとう、眼鏡屋さん。他の眼鏡屋(仙台からは撤退済)で買ったものなのに、本当にありがとう。つねに感謝の心です。

2011年05月23日 (月)

今日のお題:二次元の復興

引っ越しをして、以前より少々広い所に来たせいか、テレビの画面が小さく感じていたのですが、最近なぜか画面が大きくなったような気がしてきました。

何でだろうなぁと思っていたのですが、画面をL字型に区切っていた震災情報が無くなったせいでした。

嗚嗟、テレビも復興したんですね。

しかし、これで情報を得られなくなる人はいないのか、それが気がかりです。

2011年05月19日 (木)

今日のお題:引っ越しました

引っ越しました。

今まで住んでいた大学の宿舎が、危険とか要注意とか少々怪しげな感じになっていたのが最大の理由です。

まさか、地震で引っ越すことになるとは思いませんでした。家族が増えたとかそういう理由なら、嬉しいのですがね。

新居は福祉大駅の近く。仙台に来て11年、ついに広瀬川を越えたところに居を構えることになりました。いままでは、1週間とか川内に籠もりきり――「川内籠もり」と言います――とかザラにあったのですが、ついに越えましたよ。ルビコンほどの川かどうかはしりませんが、とにかく文字通り画期的なことではあります。

2011年05月07日 (土)

今日のお題:心の相談室 - 【記録】心の相談室設立記念講演会「祈りの心―東日本大震災に宗教はどう向きあうか?」

心の相談室 - 【記録】心の相談室設立記念講演会「祈りの心―東日本大震災に宗教はどう向きあうか?」(1)
http://www.sal.tohoku.ac.jp/kokoro/diary.cgi?no=12

随分たくさんの方がお越し下さいました。ありがとうございます。

当方は、ひたすらプロジェクタとアンプにかじりついてました。大体こういうときはいつもそうです。

2011年04月27日 (水)

今日のお題:心の相談室

心の相談室
http://www.sal.tohoku.ac.jp/kokoro/

というものが始まりました。


*設立の理念

今回の大震災では、宮城県に限った死者だけでも2万人にのぼると予想されています。そのような状況において、弔いから悲嘆ケアまで、一貫した切れ目の無いご遺族に対する支援を行うことを目的に「心の相談室」は設立されました。

 これまでの日本では、死者の弔いは宗教者の責務と位置づけられてきました。しかし今回のように未曾有の大量死に直面した時、その弔いは宗教者にとって、宗派教派を越えて広く取り組むべき大きな課題となっているものと思われます。もちろん弔いの儀礼が継続的に行われる一方で、残された遺族に対しては悲嘆ケア、さらには生活の再編に至る包括的な支援が必要になってくることは言うまでもありません。

 その意味で、ご家族に不慮の死者が出てしまったご遺族に対しては、宗教者だけではなく、悲嘆ケアの専門家、さらには医療や生活支援の専門家が一体となって支援していかなければなりません。「心の相談室」では、宗教者による弔いを手始めに、ご遺族に対する包括的な支援を提供する仕組みを構築していきます。


今後の活動につき、どうぞ宜しくお願いいたします。

2011年04月18日 (月)

今日のお題:書類地獄

仙台は被災して諸事不如意ですが、中央はそうではなく、出さないとイケナイ書類であるとかが少なくはありません。

多少は配慮してくださっているのが本当に有り難い。

2011年04月17日 (日)

今日のお題:花見

西公園の方で花見の設営が始まったと以前お話しいたしましたが、今日は日和も良い日曜日で、前を通ったところ本当にたくさんのお客さん。ああ、みんな花見がしたかったんだなぁと思った次第。

まぁ、地下鉄工事だかでずいぶんとサクラが可愛くなってしまったのですが、それでもしっかりと咲いております。

戦時中は花見なんかやらなかった、あの一体感はスバラシイと仰った方がおられるそうですが、実際どうなんだろうと見てみますと、『朝日新聞』の1942年12月19日朝刊には、「花見などは戦争後だ 帝都の薪に桜の木 近県から温い友情供出」といった見出しでもって、こんな記事を載せております。


茨城県那珂郡瓜連町などは早速町常会を開き、花見は戦争が済んでから役場の構内の桜の木まで枝を払つて薪にしたり、日雇のお婆さんさへ、一束二十五銭で買ひ求め五銭損して供出値の二十銭で提出するなど、数々の美談を生んだ。


なるほど、確かに一体感でございます。しかしながらコレは、自発的にというわけではなく、次のような背景があったことを見逃してはいけません。


寒さに向かつて薪不足に悩む帝都市民への親心から内務省では近県に事務官を派遣草鞋履きで薪の援軍を求めさせたところ、農民の熱誠により、茨城県が十二月末まで二百五十万束、栃木県が十三日から二十日までに五十万束の大量供出を約束。初めの予想量三十万束をはるかに突破するといふ地方と都会を結ぶ美はしい実を結んだ。


つまり内務省の音頭でこういう「美談」が生まれた訳でございます。とは申しながら、「親心」――これは『朝日』が勝手に言っているだけですが――からコトが始まったのも事実です。翻って、はたして今や親心なるものがあるのだろうかと考えてみると、なんとも寂しい感じも致します。

ちなみに『読売新聞』では、1942年4月3日朝刊に「一枝を戦線へ 感謝にひらく桜花」といった記事を載せております。


桜が咲いた。年々歳々かはらぬ花だが、戦捷の春見る心は格別である。「この花の一枝を戦線におくりたい…」と花見る人がいふ。何はなくとも爛慢〔ママ〕たる花の下なら人は楽しい


まぁ、まだ連戦連勝の時期なので、のんきに花を見ているのかも知れません。何はなくとも花を見たいというのは人情と言えば、人情ですかね。

2011年04月16日 (土)

今日のお題:存在への不安

$FILE1_l地震が来たので本棚から本が落ちました。

落ちた本を戻したら、また地震が来て本が落ちました。

また本を戻したら、耐震作業をするために本をはずしてくださいと言われました。

どうも、このところ本棚は本を収納するという機能を果たしておりません。本を置くことが出来ない本棚は、本棚ではないのか、それでも本棚なのか、そういった存在の不安定さを感じながら、自分で本を下ろす日々。(写真は専門研究室の方)

2011年04月15日 (金)

今日のお題:第三のセカイ

今回の震災を「第三の敗戦」と言っている方がおられるそうです。というか、堺屋太一氏なんですが。もうすでに、オープンソースでは見られなくなってしまったので、一応こんな感じで、世間様では話題になっているということをご案内しておきましょう。

東日本大震災は、日本にとって「第三の敗戦」である。 - Google 検索

で、どのようなことをおっしゃったかと申しますと、だいたいこんなことです。


*[論点]大震災からの復興 「それ以前の日本」に戻すな 堺屋太一氏(『読売新聞』2011年04月12日付朝刊07面)

東日本大震災は、日本にとって「第三の敗戦」である。第一の敗戦は、1863年の薩英戦争と、翌年の四か国艦隊による下関砲撃、馬関戦争だ。この敗戦で、強いと思われていた武士が実は弱い、身分と様式美に守られているだけだということがわかり、5年後に明治維新が起こった

第二の敗戦は、1945年の太平洋戦争の敗戦だ。大日本帝国というコンセプト(概念)が間違っていたことがわかり、軍務官僚や内務官僚の主導をやめて、経済官僚主導で業界協調体制を作った。その結果、一時は、世界で最も完璧な近代工業社会を実現した。

過去2回の敗戦で、日本はそれ以前よりずっと素晴らしい国になった。それは、「それ以前の日本」に戻そうとしなかったからだ。

〔中略〕

私たちは今、これまでの体制とか、その根本にある倫理観とかを捨てて、全く新しい国づくりをしないといけない。

〔以下略〕



「全く新しい国づくりをしないといけない」というのは、その通りだと思いますが、「第三の敗戦」というのは、はたしてどこからやってきたことばなのでしょうか。私どもは、いつどこで戦争をやっていたのか、というのがどうにも心に引っかかります。

実際のところ、この「第三の?」という表現は、「第三の開国」とペアになっているのではないかと思うのです。

つまり、

-第1回 ペリー浦賀来航(1853年)
-第2回 マッカーサー厚木来着(1945年)

に続く、「第三の開国」でございます。

アメリカによる占領とこれに続く復興を「第二の開国」ととらえる見方は、今日、随分広く受け入れられてるように思いますが、そもそもマッカーサーは、来た当初から自分とペリーを重ねていたようで、降伏文書の調印式を行ったミズーリ号の甲板には、ペリー艦隊の掲げた星条旗が飾られており、さらにこんな演説までしております。


今日われわれは、92年前のわれらが同胞たるペリー提督を想起reminiscentしながら東京に立っている。彼の目的は、日本に啓蒙と進歩の時代をもたらし、世界の和親と交易そして通商に対する孤立のベールを引き上げることであった。しかし、已(やん)ぬる哉(かな)、これによって西洋科学から得た知識は、弾圧と奴隷化の装置へと変造されてしまったのである。
**Douglas MacArthur, Reminiscences New York : McGraw-Hill, 1964. pp.276.


「回想記Reminiscences」と題する著作の中で「想起reminiscent」するなんて、マ元帥シャレたことをするものですね。

まぁ、それは置いておくとして、この第一・第二に対して、「第三の開国」を喧伝することで、なんらかの社会変革改革を提議する言説というものが、1970年代頃から現れて参ります。

つい最近で申しますと、今年のアタマに日本の首相



一つ目の国づくりの理念、それは「平成の開国」です。……この第三の開国には過去の開国にはない困難も伴います。価値観が多様化する中、明確なビジョンを提示し、国民の総意を形成する努力を地道に積み重ねていかねばなりません。

**菅内閣総理大臣 平成二十三年 年頭所感



と申されております。

およそ「第三のほにゃらら」と申しますと、第一・第二の経験や反省が生かされているような感じがしますが、他方でそこには、日本が「負けている」とか「鎖国している」といった自己認識の存在を看取することが出来ます。

負けないと何も出来ないのか、あるいは万年引きこもりの国が日本なのか、という感じがとても致します。

なお、「第三の開国」言説については、論文を書いたのでそのうち出るはずです。いま、初稿の直しをしています。とはいえ、地震の前に書いたので、ずいぶんと色あせて見えるのですがね。

2011年04月14日 (木)

今日のお題:「踏ん張る」と「頑張る」

$FILE1_l大学のある川内から離れて、久しぶりに広瀬川を越えると、西公園のあたりにテントがいくつか列んでます。

炊き出しにしては、場所がおかしいですし、まず人気(ひとけ)がありません

どうやら花見の出店のようだと理解できたのは、数秒後のことでした。

花見ですか?。あの東京ですらやらなかった花見を、仙台はやるのです。
 
 
$FILE2_l大学でも、気分転換も兼ねて来週あたりに花見でもやろうかと言っていたのですが、仙台はヤル気です。このままでは春を終わらせないという熱気が感じられます。

花見会場の脇にあった立看には、「踏ん張ろう東北! 踏ん張ろう宮城! 踏ん張ろう仙台!」とありました。

「頑張ろう」という、どこに向かって放たれているのかよく分からないことばより、「踏ん張ろう」の方が力強い感じがします。いまここで踏ん張るしかないのですから。

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