2008年09月09日 (火)

今日のお題:高杉暢夫墓誌(1867年10月15日)

君諱春風。字暢夫。高杉春樹男也。有故別賜祿。稱谷氏。名潛藏。而東行其號也。君夙晣尊攘之大義。及長果斷勇決。用兵如神。去歳小倉之役。督諸軍。毎戰奏功。城遂陷矣。後留扗亦馬開。管兵馬之事。今茲丁卯四月十四日以疾卒。享年二十有九。而奇兵隊君所樹。故遺囑以同月十六日。葬於其屯處吉田村清水山墓。去萩城十五里。乃收胎髮臍帶。��諸城東護國山。以爲招魂之場云。

   慶應三年丁卯十月十五日
                 友人杉修道誌

2008年09月09日 (火)

今日のお題:日米修好通商条約批准におけるアメリカ合衆国大統領宛将軍親書(1860年1月18日)

うやうやしく、亜墨利加合衆国の大統領の、みもと〔御許〕にまをす、さきに、下田奉行、信濃守源清直、目付、肥後守藤原忠震等に於〔を〕をせて、そのくにの欽差全権、巴児利斯〔ハルリス=ハリス〕とはかり、むつひののり〔睦びの則〕をさた〔定〕めて、ものうりかふ〔売買〕べき、ちぎりのしるしふみ〔条約〕、をあたへ、江戸のつかさ〔司=将軍〕に、ゆきかひ〔行き交い〕せしむ、いままた、ことに、奉行、豊前守源正興、淡路守源範正。目付、豊後等源忠順等に。ちぎりのしるしふみ〔調印書〕、をもたしめて。華盛頓のつかさ〔司=アメリカ大統領〕、に、いたらしむ。このこときはめて〔極めて〕、いたりふかくこゝろ、いとねもころ〔懇ろ〕なり。かれ〔故〕こののち、ふたくに〔二国〕の、したしみ〔親しみ〕も、いよいよあつく、まゝうひは、世々にかはらさるへし。いまこのつかひ、みたりの於み〔三人のをみ=臣〕は、さらに、ゑらひまうけ〔選び設け〕たるものにしあれは、ともに、まこゝろをのへて、ことはかられよかし。すへて、したしみをあつくし、またそのくに、たひらけく、やすけからむ〔泰平〕ことおもふにとそ。
  安政七年正月十八日
    源御諱  御判

これは日米修好通商条約批准に際して、1860(万延元)年1月に特派した使節団に、将軍が与えた親書です。このときの正使が新見豊前守正興、副使は村垣淡路守範正、総勢80余名でした。で、この親書は漢・英・和文のいずれにしようかという話になりまして、伊井直弼の一断で和文と決定しました。まぁよくもよくも和文にしたもんだという感じが致します。


修好 むつひののりをさためて、
通商 ものうりかふべき
条約 ちぎりのしるしふみ

そりゃ確かにそうでしょうけども、しかしそれはないんじゃないですか、という感じです。でも、前島密の「漢字御廃止之議」がまかり間違って通ってしまったらこうなる可能性もあったわけです。そういや、中央アジアの某国では母国語復興運動とかでそれまでロシア語とかで表記していた新語を忠実に母国語で表現してみたら大変なことになったと可ならなかったとか。たしか、電車が「カミナリの気を以て走る車」とかになったとか。気じゃダメか。漢語だからなぁ。「カミナリのちから」かな。

まぁべつに漢字の肩を持つわけでもなく、且つ漢字を排撃するわけでもありませんが、簡便であることは切に望みます。最近の漢字の民主化ってのは、新聞表記なんかがそうですけども、熟語をカナ漢混じりで書くことが民主化ってことになっているようで、どうにも気持ちが悪いです。おかげでボクらは「啓蒙」すら書けなくなったんですからイヤになってしまいます。ちなみに「啓もう」だそうです。分からない漢字をわざわざ平仮名でかいても、もともと分からない漢字なのだから書き換えるだけ無駄だと思うのですが、そこのところどうなのでしょう。昔のようにルビを振りまくれとは言いませんが、そういう配慮も必要だろうと思うのです。なんのはなしをしているんだか。

2008年09月09日 (火)

今日のお題:皇室典範(1947年5月3日施行)

【第一章―皇位継承】
第一条皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。
第二条皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。
(一)年皇長子 (二)年皇長孫 (三)年その他の皇長子の子孫 (四)年皇次子及びその子孫 (五)年その他の皇子孫 (六)年皇兄弟及びその子孫 (七)年皇伯叔父及びその子孫
第二項 前項各号の皇族がないときは、皇位は、それ以上で、最近親の系統の皇族に、これを伝える。
第三項 前二項の場合においては、長系を先にし、同等内では、長を先にする。
第三条皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる。
第四条天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。

【第二章―皇族】
第五条皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃及び女王を皇族とする。
第六条嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を内親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、女を女王とする。
第七条王が皇位を継承したときは、その兄弟姉妹たる王及び女王は、特にこれを親王及び内親王とする。
第八条皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。
第九条天皇及び皇族は、養子をすることができない。
第一〇条立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する。
第一一条年齢一五年以上の内親王、王及び女王は、その意思に基き、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。
第二項 親王(皇太子及び皇太孫を除く。)、内親王、王及び女王は、前項の場合の外、やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。
第一二条皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。
第一三条皇族の身分を離れる親王又は王の妃並びに直系卑属及びその妃は、他の皇族と婚姻した女子及びその直系卑属を除き、同時に皇族の身分を離れる。但し、直系卑属及びその妃については、皇室会議の議により、皇族の身分を離れないものとすることができる。
第一四条皇族以外の女子で親王妃又は王妃となつた者が、その夫を失つたときは、その意思により、皇族の身分を離れることができる。
第二項 前項の者が、その夫を失つたときは、同項による場合の外、やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。
第三項 第一項の者は、離婚したときは、皇族の身分を離れる。
第四項 第一項及び前項の規定は、前条の他の皇族と婚姻した女子に、これを準用する。
第一五条皇族以外の者及びその子孫は、女子が皇后となる場合及び皇族男子と婚姻する場合を除いては、皇族となることがない。

【第三章―摂政】
第一六条天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。
第二項 天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。
第一七条摂政は、左の順序により、成年に達した皇族が、これに就任する。
(一)年皇太子又は皇太孫 (二)年親王及び王 (三)年皇后 (四)年皇太后 (五)年太皇太后 (六)年内親王及び女王
第二項 前項第二号の場合においては、皇位継承の順序に従い、同項第六号の場合においては、皇位継承の順序に準ずる。
第一八条摂政又は摂政となる順位にあたる者に、精神若しくは身体の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、摂政又は摂政となる順序を変えることができる。
第一九条摂政となる順位にあたる者が、成年に達しないため、又は前条の故障があるために、他の皇族が、摂政となつたときは、先順位にあたつていた皇族が、成年に達し、又は故障がなくなつたときでも、皇太子又は皇太孫に対する場合を除いては、摂政の任を譲ることがない。
第二〇条第一六条第二項の故障がなくなつたときは、皇室会議の議により、摂政を廃する。
第二一条摂政は、その在任中、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は、害されない。

【第四章―成年、敬称、即位の礼、大喪の礼、皇統譜及び陵墓】
第二二条天皇、皇太子及び皇太孫の成年は、一八年とする。
第二三条天皇、皇后、太皇太后及び皇太后の敬称は、陛下とする。
第二項 前項の皇族以外の皇族の敬称は、殿下とする。
第二四条皇位の継承があつたときは、即位の礼を行う。
第二五条天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う。
第二六条天皇及び皇族の身分に関する事項は、これを皇統譜に登録する。
第二七条天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を陵、その他の皇族を葬る所を墓とし、陵及び墓に関する事項は、これを陵籍及び墓籍に登録する。

【第五章―皇室会議】
第二八条皇室会議は、議員一〇人でこれを組織する。
第二項 議員は、皇族二人、衆議院及び参議院の議長及び副議長、内閣総理大臣、宮内庁の長並びに最高裁判所の長たる裁判官及びその他の裁判官一人を以て、これに充てる。
第三項 議員となる皇族及び最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官は、各々成年に達した皇族又は最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官の互選による。
第二九条内閣総理大臣たる議員は、皇室会議の議長となる。
第三〇条皇室会議に、予備議員一〇人を置く。
第二項 皇族及び最高裁判所の裁判官たる議員の予備議員については、第二八条第三項の規定を準用する。
第三項 衆議院及び参議院の議長及び副議長たる議員の予備議員は、各々衆議院及び参議院の議員の互選による。
第四項 前二項の予備議員の員数は、各々その議員の員数と同数とし、その職務を行う順序は、互選の際、これを定める。
第五項 内閣総理大臣たる議員の予備議員は、内閣法の規定により臨時に内閣総理大臣の職務を行う者として指定された国務大臣を以て、これに充てる。
第六項 宮内庁の長たる議員の予備議員は、内閣総理大臣の指定する宮内庁の官吏を以て、これに充てる。
第七項 議員に事故のあるとき、又は議員が欠けたときは、その予備議員が、その職務を行う。
第三一条第二八条及び前条において、衆議院の議長、副議長又は議員とあるのは、衆議院が解散されたときは、後任者の定まるまでは、各々解散の際衆議院の議長、副議長又は議員であつた者とする。
第三二条皇族及び最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官たる議員及び予備議員の任期は、四年とする。
第三三条皇室会議は、議長が、これを招集する。
第二項 皇室会議は、第三条、第一六条第二項、第一八条及び第二〇条の場合には、四人以上の議員の要求があるときは、これを招集することを要する。
第三四条皇室会議は、六人以上の議員の出席がなければ、議事を開き議決することができない。
第三五条皇室会議の議事は、第三条、第一六条第二項、第一八条及び第二〇条の場合には、出席した議員の三分の二以上の多数でこれを決し、その他の場合には、過半数でこれを決する。
第二項 前項後段の場合において、可否同数のときは、議長の決するところによる。
第三六条議員は、自分の利害に特別の関係のある議事には、参与することができない。
第三七条皇室会議は、この法律及び他の法律に基く権限のみを行う。

【附則】
第一項この法律は、日本国憲法施行の日から、これを施行する。
第二項現在の皇族は、この法律による皇族とし、第六条の規定の適用については、これを嫡男系嫡出のものとする。
第三項現在の陵及び墓は、これを第二十七条の陵及び墓とする。

2008年09月09日 (火)

今日のお題:治安維持法違反被告事件大審院判決事項並びに判決要旨(1929年5月31日)

治安維持法違反被告事件大審院判決事項並びに判決要旨(1929年5月31日)

○治安維持法違反被告事件(昭和4年(れ)第389號・同年5月31日第4刑事部判決 棄却)
【上告人】

 被告人 山名正實・松岡二十世・荒 量太郎・吉田吉之助・伏見武夫

 辯護人 神道寬次・中村高一・荒 量太郎・上村 進・布施辰治

【第一審】旭川地方裁判所 【第二審】札幌控訴院

   ○判示事項
治安維持法二所謂國體ノ意義

   ○判決要旨
我帝國ハ萬世一系ノ天皇君臨シ統一治權ヲ總攬シ給フコトヲ以テ其ノ國體卜爲シ治安維持法二所謂國體ノ意義亦此ノ如ク解スヘキモノトス

2008年09月09日 (火)

今日のお題:ポツダム宣言受諾の勅令(1945年)

朕ハ昭和二十年七月二十六日米英支各國政府ノ首班カポツダムニ於テ發シ後ニ蘇聯邦カ參加シタル宣言ノ掲クル諸條項ヲ受諾シ帝國政府及大本營ニ對シ聯合國最高司令官カ指示シタル降伏文書ニ朕ニ代リ署名シ且ツ聯合國最高司令官ノ指示ニ基キ陸海軍ニ對スル一般命令ヲ發スヘキコトヲ命シタリ朕ハ朕カ臣民ニ對シ敵對行爲ヲ直ニ止メ武噐ヲ措キ且ツ降伏文書ノ一切ノ條項竝ヒニ帝國政府及ヒ大本營ノ發スル一般命令ヲ誠實ニ履行セムコトヲ命ス

裕仁 (御璽)

2008年09月09日 (火)

今日のお題:中野正剛「戦時宰相論」(『朝日新聞』1943年1月1日)

   国民の愛国熱と同化

西郷南洲曰く「仏蘭西三十万の兵,三年の糧ありて敵に降りしは,余り算盤に精しかりし故なり」と。

 老虎クレマンソウ曰く「今やロシヤは吾人を裏切つた。されど余は戦争を行ふ。憐れむべきルーマニアは敵に降つた。されど余は戦争を行ふ」と。又「巴里を喪失せば,ロアール河の線に拠り,ロアール河支へずんば,ピレネイ山脈の線に拠り,断じて敵を反撃撃滅せん」と。ナポレオン三世の屈服せし所,クレマンソウは見事に之を克服した。戦時宰相たる第一の資格は絶対に強きことにある。戦は闘争の最も激烈にして大規模なるものである。闘争において弱きは罪悪である。国は経済によりて滅びず,敗戦によりてすら滅びず。指導者が自信を喪失し,国民が帰趨に迷ふことによりて滅びるのである。前大戦の際帝政ロシヤは滅びた。されどブレストリトウスクの屈辱講和の後,レイニンは昂然として曰うた。

「ペトログヲードを失はばモスクワに拠り,モスクワを失なばシベリアに,シベリアを失なば,カムチャッカの一角に,同志と共に理想社会を建設して世界革命を指導せん」

 と。これは武力戦,経済戦が絶望となりたる後,猶ほ思想戦によりて積極的抗戦の強行を決意したのである。然るに今次大戦に於て,「巴里の文化を救はんが為に」仏蘭西は降伏した。西郷南洲をして之を目撃せしめば何と嘆ずるであらう。巴見の「建物」を以て「文化」なりと解する所に,人民戦線以来の誤れる唯物的世界観が覗はれる。

 非常時宰相な絶対に強きを要する。されど個人の強さにな限りがある。宰相として真に強からんがためには,国民の愛国的情熱と同化し,時にこれを技舞し,時にこれに激励さるることが必要である。カイゼルは個人として俊敏であつた。されど各方面の戦況少しく悪化すると,忽ち顔色憔樺し,何時もの颯爽たる英姿は急に消え失せた。ヒンデンブルグ,ルーデンドルフは個人としては固より強かつたに相違ない。されど彼等が真に強さを発揮したのは,タンネンベルヒの陣中,戦他を煙硝の臭に浸して居た際である。全軍の総指揮権を握つた利耶,彼等は半可通の専制政治家に顛落した。独逸の全国民があれだけ愛国心に燃え,最前線の少年兵が虚空をつかんで斃れても,猶ほ巴里の方向ににじり寄らんとした光景,それが彼等の限には映らなかつたのか,彼等は国民を信頼せずして,之を拘束せんとした。彼等は生産能力に対して何等の認識なく,「補助勤務案」なるものを提出し,「満十五歳より六十歳に至る全男女に労役義務を課する」ことを強行した。これが所謂「ヒンデンプルグの絶望案」である,それは国民の自主的愛国心を蹂躙して,屈従的労務を要求するものであり,忽ち生産力を滅退して,随所に怨嗟の声を招き,遂に思想の悪化による国民的碩廃を誘致したのである。ヒンデンブルグとルーデンドルフとは,戦線の民衆即兵士と共にある時には強いが,国民感情から遊離し,国民から怨嗟せらるるに及びては,忽ら指導者としての腰抜けとなつてしまつた。あれだけの権勢を把握しながら,政治屋どもに嚇かされ,遂には政治家の真似して「名誉ある休戦」など言ひ出し,やがて左翼敗戦論者に死命を制せられたのは,軍服に似合しからぎる一大醜態である。彼等は黔首を愚劣にし,卑怯にし,遂に敗戦主義を醸成して,自らその犠牲となつたのである。


   尽忠の至誠を捧げよ

大日本国は上に世界無比なる皇室を戴いて居る。忝けないことには,非常時宰相は必ずしも蓋世の英雄たらずともその任務を果し得るのである。否日本の非常時宰相は仮令英雄の本質を有するも,英雄の盛名を恣にしてはならないのである。日本の非常時宰相は殉国の至誠を捧げ,匪躬の節を尽せば自ら強さが出て来るのである。山崎闇斎の高弟浅見絅斎は,日本主義に徹底した儒者であるが,幕府を憚り「靖献遺言」を著して支那の先烈を話り,日本武士に節義を教へた人である。玄洋社の創設者頭山満翁の如きはこれを昧読して部下の青年を薫陶した。その「靖献遺言」の劈頭には,非常時宰相の典型として諸葛孔明を掲げてゐる。固より国体は違ふが,東洋の一先烈として我等に非常時平相の必須条件を教ゆるものがある。藷葛孔明が兵を用ふること神の如く,民を視ること慈父の如く,文武の大宰相として蜀漢の興廃を担ひて起ち,死を以て節を全うせし所は,実に英雄にして忠臣の資質を兼ねる者である。彼が非常時宰相たるの心得は出師の表にも現はれて居る。彼は虚名を求めず,英雄を気取らず,専ら君主の為に人材を推拠し,寧ろ己の盛名を厭うて,本質的に国家の全責任を担つてゐる。宮中向きは誰々,政治向きは誰々,前線将軍は誰々と,言を極めてその誠忠と智能とを称揚し,唯自己に就いては「先帝臣が謹慎なるを知る」と奏し,真に臣たる者の心だてを語つてゐる。彼は謹慎である。それ故に私生活も清楚である。彼は曰く

「臣は成都に桑八百林,瘠田十五頃がある,これで子孫の衣食は余饒があり,臣は在外勤務に就いてゐて私の調度は入りませぬ。身に必要な衣食は皆な官費で頂き,別に生活の為に一尺一寸も増す必要はない。臣が死するの日,決して余財ありて陛下に負くやうなことはありませぬ」

 と。彼は誠忠なるが故に謹慎であり,謹慎なるが故に廉潔である。


   謹慎にして廉潔たれ

南宋の忠臣岳飛が「文臣銭を愛まず,武臣命を愛まざれば天下平かならん」と言うた言葉が偲ばれる。彼は誠忠,謹陳,廉潔なるが散に百姓を労なりおきてを示し,赤誠を開き,公道を布き,賞する時には遠き者を遺れず,罰する時には近親に阿らず,涙を呑んで馬稷を斬つたが,彼に貶黜せられた者も,彼の公平無私にして温情あるに感動し,彼の死を聞きては泣いて嘆息した。彼の信賞必罰は誠忠より発するが故に偏私なくして温情がある。孔明の強さは比辺から出発する。彼の仕へたる蜀は敵国たる魏や呉に対して,土地狭小,資源貧弱であつた。彼は智計を出して天下三分の略を立て,殆ど中原を制せんとして未だ成らず,盟邦に背かれ,名将関羽に戦死せられ,先帝は崩じ,精鋭は尽くるといふ窮境に立つた。されど窮境に立ちて絶対強硬方針であつた。彼は安易を調和に求むるが如きは絶対に反対であり,所謂五月瀘水を渡りて不毛の雲貴を攻略し,挺身軍を提げて魏と雌雄を決せんとし,敵地に屯田して短期決戦の策を廻らしながら,陣中病を得て五丈原頭に歿した。彼は難局に当り,「今や民窮し兵疲るるも,事息む可らず。則ち住まると行くと労費相等し」と言ひ,クレマンノウやレイニンの如き絶対不屈の意気を示してゐる。


   天下の人材を活用

日露戦争において,桂公はむしろ貫禄なき首相であつた。彼は孔明のやうに謹慎には見えなかつたが,陛下の御為に天下の人材を活用して,専ら実質上の責任者を以て任じた。山県公に頭が上らず,井上侯に叱られ,伊藤公を奉り,それで外交には天下の賢才小村を用ひ,出征軍に大山を頂き,聯合艦隊に東郷を推し,鬼才児玉源太郎をして文武の聯絡たらしめ,倣岸なる山本権兵衛をも懼れずして閣内の重鎮とした。而して民衆の敵愾心勃発して, 日比谷の焼討となつた時,窃かに国民に感謝して会心の笑みを漏らした。桂公は横着なるかに見えて,心の奥底に誠忠と謹慎とを蔵し,それがあの大幅にして剰す所なき人材動員となつて現はれたのでないか。難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ。強からんが為には,誠忠に謹慎に廉潔に,而して気宇広大でなければならぬ。

2008年09月09日 (火)

今日のお題:ソ連邦の対日宣戦布告についての陸軍大臣布告(1945年08月10日)

   陸軍大臣布告

 全軍将兵に告く、「ソ聯」遂に皇国に寇す、明分〔名分カ〕如何に粉飾すと雖も大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり、事茲に至る、又何をか言はん、断乎神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ。

 仮令、草を喰み土を噛り野に伏すとも断して戦ふところ死中自ら活あるを信す、是即ち七生報国「我一人生きてありせは」てふ楠公救国の精神なると共に、時宗の「莫煩悩」「驀直進前」以て醜敵を撃滅せる闘魂なり、全国将兵宜しく一人を余さす楠公精神を具現すへし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すへし。

2008年09月09日 (火)

今日のお題:大塩平八郎檄文(『日本経済大典』1837〈天保8〉年)

四海困窮せば、天禄永絶えん、小人に国家を治しめば、災害並到ると、昔の聖人深く天下後世の、人の君、人の臣たる者を誠め被置候故、東照神君も、鰥寡孤独におゐて尤憐を加へ候は 仁政の基と被仰候し、然る処、此二百四五十年、大平の間に追々上たる人、驕奢を公に授受して、贈貰ひ致し、奥向女中の因縁を以て、道徳仁義もなき拙き自分として、立身重役に歴上り、一人一家を肥し候工夫のみに心運し、其領分知行の民百姓共に、過分の入用金申附、是迄年貢諸役に甚敷苦む上、右の通無体の儀申渡、追々入用かさみ候故、四海困窮に相成侯に付、人々上を怨ざる若無き様に成行候得共、江戸表より諸国一同右之風儀に落入、天子は足利家以来、別て御隠居御同様、賞罰の柄を御失ひに付、平民の怨み何方へ告訴とて、告訴る方なき様乱れ候に付、人々の怨気天に通じ、年々地震火災、山も崩れ水も溢れしより外、種々様々、天災流行、遂に五穀飢僅に相成、是皆天より深く御誡の難有御告に候得共、一向上たる人心も得す、猶小人奸那の輩、大切の政事を執行ひ、天下を悩め、金米を取立候手段計に相懸り、実に以小前百姓の難儀を、我等如き草の陰より察し悲み候得共、湯王武王の勢位もなく孔子孟子の道徳も無ければ、徒に塾居致し候処、此節は米価愈高直に相成、大坂之奉行、并諸役人共万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道を致し、江戸へは廻来之世話致し、天子御在所の京都へは、処米の世話いたさゞる而已ならず、五升壹升[ママ]位の米を買下候者共を召補抔致し、実に昔葛伯と云大名、其農人弁当を持参る小児を殺し候も同様、言語同断、何れの土地にても、人民は徳川家御支配の者に無相違処、如此隔を附候者、全く泰行等の不仁にして、其上勝手我侭の触書等を度々差出、大坂市中遊民計を大切に心得候は前にも申通、道徳仁義も不存拙き身故にて、甚以厚か間敷不届の到り、且三都の内、大坂の金持共、年来諸大名へ貸附け候利足金銀并扶持米等莫大に掠取、未曾有之有福に募り、町人の身を以、大名の家老用人之格に被取用、又自己の田畑新等を夥敷所持、何等之無不足暮し、此節の天災天罰を見ながら、畏もいたさず、餓死貧人乞食共、敢て不救共、身は膏梁の味とて、結構の物を食ひ、妾宅等へ入込、或は揚屋茶屋へ大名家来を誘引参り、高価の酒を湯水を飲も同様に致し、此難渋の時節に絹服を纏ひ、河原者と妓女共に迎ひ、平常同様の遊楽に耽り候者、何等の事に候哉、紂王長夜の酒盛も同事、其所の奉行諸役人、手に握り候政を以、右之者共を取扱、下民を救ひ候儀も難出来、日々堂島の米相場計を致し候事、実に禄盗人にて、決て天道聖人之御心に難叶御扱ひ無き事に候、於是塾居の我等、最早堪忍難成、湯の勢ひ、孔孟の徳はなけれども、無拠天下の為と存じ、血族の禍ひを侵し、此度有志の者と申合、下民を悩し苦しめ候、諸役人共を誅戮致し、引続き奢に長じ居候、大坂市中金持の町人共を誅戮可致候間、右之者共、穴蔵に貯置候、金銀銭並諸蔵屋敷内へ隠置候俵米、夫々分散配当致し遣し候間、摂河泉播之内、田畑所持不致者、縦令所持致候共、父母妻子家内の養方難出来候程の難渋者へは、右金米為取遣候間、何日にても、大坂市中に騒動起り候と聞得候はゞ、里数を厭ず、一刻も早く、大坂へ向け馳参り候面々へ、右米金遺可申候、鉅橋鹿台の粟財を、下民へ被興候御遺意にて、当時の饑饉難儀を相救遣し、若又其内器量才力等有之者には、其々取立不道の者共を、征伐致す軍役に使ひ可申候、必一攘峰起の企とは違ひ、追々年貢諸役に到迄軽致し、都て中興神武帝御政道の通り、寛仁大度の取扱ひ致し、年来蹣奢淫逸の風俗も、一洗に相改め、質素に立戻り四海天思を難有存じ候て、父母妻子を取養ひ、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を、眼前に為見遣し、堯舜天照皇太神の時代には復し難けれ共、中興の気象に恢復とて、立戻可申候、此書付、一々村々へ為知度候得共、夥敷事に付、最寄人家多き大村の神殷等へ張置候間、大坂より廻し有之番人共へ、不為知様心掛早々村々へ相触可申候、万一番人共見附、四ヶ所の奸人共へ、注進いたし候様子に候はゞ、無遠慮面々申合せ、番人を不残打殺し可申候、若又大騒動起り候と承りながら、疑惑致し馳参り不申、又は遅参に及候得者、皆金持之米金火中の灰と相成、天下の宝を取失ひ可申候間、跡にて必我等を恨み、宝を捨て候不道若と、陰言不致様、為其一同へ触為知候、尤是迄地頭村方にある、年貢等に拘り候諸記録帳面類は、都て引破り、焼捨可申候、是往々深慮り有事にて、人民を困窮為致不申積に候、乍去此度の一挙、当朝平将門、明智光秀、漢土劉裕、朱全忠の謀反に類し候と申ものも、是非有之道理に有之候得共、天下国家を纂盗致し候欲念より、おこり候ことには、更に無之候、日月星辰、神鑑有之事にて、詰る処は、湯武、漢高祖、明大祖、民を弔し、天罰を取行ひ候誠心而己にて、若疑敷相覚候得者、我等所業、終る所を爾等篤と限を開きて見よ、
 尚々、此書付小前之者へは、道場坊主或は医者等より、篤と読為聞可中候、若庄屋年寄眼前之禍を畏れ、一己に隠し候はゞ、追て急度其罪を可行候、


  奉天命致天罰候摂河泉播村々

 庄屋年寄小前百姓共え

    天保八丁酉年 月 日

2008年09月09日 (火)

今日のお題:治安維持法(『官報』3797号・大正14年4月22日)

第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
前項ノ未遂罪ハ之ノ罰ス

第二条 前条第一項ノ目的ノ以テ其ノ目的タル事項ノ実行二関シ協議ヲ為シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮二処ス

第三条 第一条第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ノ煽動シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮二処ス

第四条 第一条第一項ノ目的ノ以テ騒擾,暴行其他生命,身体又ハ財産二害ノ加フヘキ犯罪ヲ煽動シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁鋼二処ス

第五条 第一条第一項及前三条ノ罪ノ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財産上ノ利益ノ供与シ又ハ其ノ申込若クハ約束ノ為シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁鋼二処ス情ノ知リテ供与ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ノ為シタル者亦同シ

第六条 前三条ノ罪ノ犯シタル者自首シタルトキハ其ノ刑ヲ滅軽又ハ免除ス

第七条 本法ノ、何人ヲ問ハス本法施行区域外二於テ罪ヲ犯シタル者二亦之ノ適用ス

2008年09月09日 (火)

今日のお題:『国体の本義』「緒言」(1937年)

   現代日本と思想問題

我が国は、今や国運頗る盛んに、海外発展のいきほひ著しく、前途弥々多望な時に際会してゐる。産業は隆盛に、国防は威力を加へ、生活は豊富となり、文化の発展は諸方面に著しいものがある。夙に支那・印度に由来する東洋文化は、我が国に輸入せられて、惟神の国体に醇化せられ、更に明治・大正以来、欧米近代文化の輸入によつて諸種の文物は顕著な発達を遂げた。文物。制度の整備せる、学術の一大進歩をなせる、思想・文化の多彩を極むる、高葉歌人をして今日にあらしめば、再び「御民吾生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく念へば」と謳ふであらう。明治維新の鴻業により、旧来の陋習を破り、封建的束縛を去つて、国民はよくその志を遂げ、その分を竭くし、爾来七十年、以て今日の盛事を見るに至つた。

 併しながらこの盛事は、静かにこれを省みるに、実に安穏平静のそれに非ずして、内に外に波瀾万丈、発展の前途に幾多の困難を蔵し、隆盛の内面に混乱をつつんでゐる。即ら国体の本義は、動もすれば透徹せず、学問・教育・政治・経済その他国民生活の各方面に幾多の欠陥を存し、伸びんとする力と混乱の因とは錯綜表裏し、燦然たる文化は内に薫蕕を併せつゝみ、こゝに種々の困難な問題を生じてゐる。今や我が国は、 一大躍進をなさんとするに際して、生彩と陰影相共に現れた感がある。併しながら、これ飽くまで発展の機であり、進歩の時である。我等は、よく現下内外の真相を把握し、拠つて進むべき道を明らかにすると共に、奮起して難局の打開に任じ、弥々国運の伸展に貢献するところがなければならぬ。

 現今我が国の思想上・社会上の諸弊は、明治以降余りにも急激に多種多様な欧米の文物・制度・学術を輸入したために、動もすれば、本を忘れて末に趨り、厳正な批判を欠き、徹底した醇化をなし得なかつた結果である。抑々我が国に輸入せられた西洋思想は、主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て国家や民族を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。従つてそこには歴史的全体より孤立して、抽象化せられた個々独立の人間とその集合とが重視せられる。かゝる世界観・人生観を基とする政治学説・社会学説・道徳学説・教育学説等が、一方に於て我が国の諸種の改革に貢献すると共に、他方に於て深く広くその影響を我が国本来の思想・文化に与へた。

 我が国の啓蒙運動に於ては、先づ仏蘭西啓蒙期の政治哲学たる自由民権思想を始め、英来の議会政治思想や実利主義・功利主義、独逸の国権思想等が輸入せられ、固陋な慣習や制度の改廃にその力を発揮した。かゝる運動は、文明開化の名の下に広く時代の風潮をなし、政治・経済・思想・風習等を動かし、所謂欧化主義時代を現出した。然るにこれに対して伝統復帰の運動が起つた。それは国粋保存の名によつて行はれたもので、澎湃たる西洋文化の輸入の潮流に抗した国民的自覚の現れであつた。蓋し極端な欧化は、我が国の伝統を傷つけ、歴史の内面を流れる国民的精神を萎靡せしめる惧れがあつたからである。かくて欧化主義と国粋保存主義との対立を来し、思想は昏逃に陥り、国民は、内、伝統に従ふべきか、外、新思想に就くべきかに悩んだ。然るに、明治二十三年「教育二関スル勅語」の渙発せられるに至つて、国民は皇祖皇宗の肇国樹徳の聖業とその履践すべき大道とを覚り、こゝに進むべき確たる方向を見出した。然るに欧米文化輸入のいきほひの依然として盛んなために、この国体に基づく大道の明示せられたにも拘らず、未だ消化せられない西洋思想は、その後も依然として流行を極めた。即ち西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎へられ、又続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた。

 抑々社会主義・無政府主義・共差主義等の詭激なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その発現の種々相たるに過ぎない。個人主義を本とする欧米に於ても、共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの擡頭ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換との時期を持来してゐるといふことが出来る。久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、真に我が国独自の立場に遠り、万古不易の国体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々欧米文化の摂取醇化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すべきである。即ち今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。而してこのことは、独り我が国のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。こゝに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ら「国体の本義」を編纂して、肇国の由来を詳かにし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て国民の自覚と努力とを促す所以である。

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