2017年12月08日 (金)

今日のお題:桐原健真「会沢正志斎と「水戸学」の系譜:幕末から戦後まで」、近代茨城地域史研究会編『近世近代移行期の歴史意識・思想・由緒』岩田書院、2017年、147〜172頁

会沢正志斎はなんでこんなに偏った研究しかないんだろうという問いに答える論文。とは言え、そもそもそういう問いの立て方自体どうなんだろうと思わなくもないですが。
会沢正志斎は、尊攘派の鎮激分裂や鎖国論の放棄(「時務策」1862〈文久2〉)といった晩年の言動のために、尊攘激派を「正論派」と呼ぶような文脈においては語り難い存在となった。しかし水戸行幸啓(1890)での祭粢料下賜や翌年の贈位は、会沢に一定の名誉回復をもたらした。だが東湖や激派の精神的な継承者を自任する水戸人士の多くにとって、会沢は明らかに傍流であった。

しかしこうした評価は、1920年代に大きく変化することとなる。すなわち旧来の国民道徳論的な水戸学とは異なる「新水戸学」が模索されるなか、「時務策」に代表される積極的な国家改造論者として会沢が想起され、そのイメージは「新しい国体論」が唱えられる1930年代にも引き継がれた。そして1940年代には、『新論』の著者である会沢は、高度国防国家の建設のためのイデオローグとして描かれ、ついに「水戸学の大成者」と称されるに至る。

かくて確立した「維新の経典」の著者にして「水戸学の大成者」としての会沢像は、戦後の後期水戸学研究の方向性をも規定した。すなわち、敗戦を経て、天皇制国家の支配原理の分析が求められた結果、その一つの源泉と考えられた会沢思想の研究が進められたが、その際に中心となったのは『新論』であり、彼の思想全体が検討されることは少なかったのである。

会沢は、その時代で様々に想起されてきた。だがそれは多くの場合、明治国家という結果から歴史を遡及しようとするものであった。それゆえ、国民国家の形成を無条件に結論とせず、その生きた時代や環境をふまえて会沢を再検討することが、いま求められている。

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