2004年03月24日 (水)

今日のお題:【要旨】吉田松陰研究序説――幕末維新期における自他認識の転回(東北大学大学院文学研究科提出2004年3月博士号取得)

   目 次
  本稿執筆の目的
  第一部 幕末維新期における「国際社会」認識の転回
   第一章 はじめに
   第二章 「西洋」と「日本」の発見
   第三章 松陰と白旗
   第四章 「国際社会」への編入・参加と「華夷秩序」の読み替え
   第五章 吉田松陰とアジア――「雄略」論の展開
  第二部 吉田松陰における思想形成とその構造
   第一章 はじめに
   第二章 『新論』受容の諸相――その公刊以前を中心に
   第三章 吉田松陰における思想上の「転回」――水戸学から国学へ
   第四章 論争の書としての『講孟余話』――吉田松陰と山県太華、論争の一年有半
   第五章 吉田松陰の神勅観――「教」から「理」へ、そして「信」へ
   第六章 幕末における普遍と固有
  結 論
  補論 吉田松陰における「忠誠」の転回――幕末維新期における「家国」秩序の超克


   本稿執筆の目的

 本稿は、幕末維新期という近世から近代への転形期において、吉田松陰(一八三〇(天保元)?一八五九(安政六)年)が、この時代状況をいかに認識し、さらにはいかに思考したかを明らかにすることを目的としている。本稿が松陰を主題として選んだ理由は、後の明治維新を主導した長州藩における理論的先駆者であったからではない。彼の思想や行動が、この転形期を、彼自身の意図を越えて、極めて鮮明に表現しているからにほかならない。

 しばしば幕末維新は「復古」と「開化」の相克として描かれる。しかし、松陰が「自我作古」(我れより古を作す)を標榜したように、幕末における「復古」は、一面では決して過去の焼き直しではなかった。山鹿流兵学師範吉田家を封襲した松陰が、その家学の伝統の重圧を感じつつも、洋式兵学と和式兵学との間にある絶対的な較差を前にして、「旧に率はんと欲せば則ち時に随はざる能はず」(「漫筆一則」)と伝統兵学からの離脱を模索し始めるに至ったように、むしろみずからの持つ「伝統」や「古典」を最大限読み替え抜くことで、新しい時代を切り開こうとしたのである。一九世紀中葉における新たな世界史的状況に臨み、松陰がこれをいかに把握し、かつその中にみずからをいかに位置づけたかを明らかにすることが本稿の最終的な目標である。


   第一部 幕末維新期における「国際社会」認識の転回

   第一章 はじめに
第一部では、一九世紀中葉の世界史的状況の中で、吉田松陰における「国際社会」認識の転回を明らかにすることを目的とする。本来、この問題は「対外観」ないしは「対外認識」の問題として論ぜられるものであるが、本稿では一貫して「自他認識」ということばで表現する。第一部を始めるにあたり、この「対外観」の問題を、あえて耳慣れぬ「自他認識」ということばで分析する意味を述べたのが本章である。
 すなわち、それまで単に「夷狄」あるいは「異人」としか認識されなかったものが、みずからに対峙する具体的な「他者」として認識されるに至るとき、そこには対象としての「夷狄」の変化ではなく、むしろそれを認識する主体の意識の変質こそがある。本稿では、幕末維新期におけるこの自他双方に対する認識の転回を、同時に考察するために、他者認識の意味合いが強い「対外観」の語を避け、自他認識の語をもって考察するのである。

 第一部ではまず西洋という新たな他者の認識がいかに転回したかを、松陰の思想形成の展開とともに考察し(第二?三章)、つぎにアジアについて、松陰の「雄略論」に関わる個別問題として論じる(第五章)。


   第二章 「西洋」と「日本」の発見
本章では、安政期以前の吉田松陰における三つの側面での転回を、その思想展開とあわせて明らかにすることを目的とする。この三つの転回とは、

1 松陰の他者認識(「国際社会」認識)の転回
2 自己認識の転回(ネイションの自覚)
3 兵学における転回

である。前二者は松陰における自他認識に関する基本的な視座として位置づけられる。一方、第三は兵学者たる松陰自身の自己意識――自分がなにを・どのように守らねばならぬのか――に深くかかわるものであり、これこそが松陰における自己および他者に対する認識を架橋させるものにほかならなかった。以下、時系列的にこの転回を略説する。

一 長州藩兵学師範期 この時期の松陰は、アヘン戦争以後の「異賊共取囲」む「我が神州」という国際的状況を知識としては知りながらも、日本全体を防衛する意識を有することはなかった。松陰の意識はあくまで防長二国という部分を出ることはなく、「我が国砲術の精確なる事遠く西洋夷に勝り候」(「水陸戦略」)と言うように自らの兵学に絶大な信頼を寄せていた。だがこの信頼は崩壊の時を迎える。彼は「西夷銃砲」の威力を知るのである。

二 西遊期(平戸・長崎留学) この西遊行で松陰は、蘭船に乗ることでその大きさを知り、また多くの海外事情書を読んだ。その中で最も彼に影響を与えたのがアヘン戦争の実態――清国の徹底的な敗北――を赤裸々に描いた魏源『聖武記附録』であった。

 松陰は『聖武記附録』中の「徒に中華を侈張するを知り、未だ寰瀛の大なるを観ず」を「佳語」とし、「夫れ外夷を制馭する者は、必ず先ず夷情を洞ふ」べきだとする意見に賛同している。そこには、もはや「外夷」を単なる異物としてではなく、一箇の脅威として――自らに対峙する他者として――見做す態度が生まれていたのである。

 平戸において松陰は、明確な脅威としての「西洋」という他者を認識し始めたものの、脅かされる自己(=守るべき自己)について認識するには――ネイションとしての「日本」を自覚するには――まだ時間が必要であった。

三 水戸遊学期 水戸で会沢正志斎と交わった松陰は「身皇国に生まれて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地に立たん」(「来原良三に復する書」)という強い自負を得た。この「皇国の皇国たる所以」という観念こそ松陰に「ネイションとしての自己意識」(=「日本」の自覚)を与えたものである。そして「日本歴史」を耽読した松陰は、兵学者としての自らの存在意義を「長州藩」を越えた「皇国」を守る点に求めるに至ったのである。ここに封建的分邦に生まれ育った長州藩兵学師範吉田大次郎個人の自己意識の拡大(藩国家から日本国家へ)を見出すことが出来よう。

四 ペリー艦隊来航以後 ペリー艦隊の来航という現実の脅威に臨み、松陰は藩主に「将及私言」を上書している。そこでは西洋兵学の全面的な導入と挙国一致による国防体制の確立が高らかに謳われており、封建的分邦の意識はもはや姿を消している。松陰にとって西洋諸国家は、もはや排除されるべき異物ではなく、自らに対峙する他者として、対等に認識される存在となっていた。この諸国家との対等の観念こそ、松陰を当時の攘夷論の大勢から大きく異ならしめているものであった。松陰は、まず平戸において他者(=西洋)の存在を認識し、そして水戸において「ネイションとしての自己意識」をもたらす観念に触れた。この自己と他者とに対する認識が二つながら相俟って諸国家間の対等という観念へと松陰を導いたのであり、そこには「彼を知り己を知る」兵学的思考が、西洋に対する知識と日本に対する意識とを架橋するものとして強く作用していたと結論するものである。

   第三章 松陰と白旗
 前章では、松陰における「西洋」と「日本」の発見の過程を、彼の思想形成に沿って時系列的に明らかにした。本章は、松陰における国際社会認識の具体像を、非交戦の意志を表明する信号旗である「白旗」という「西洋の法」を松陰がどのように認識していたかを明らかにすることで、描き出そうとするものである。

 兵学師範時代には、白旗は「外夷の法」であり、これを「遵守する」ことを「人に致さるるに近」いと断じていた松陰は、この「外夷の法」をそれゆえに拒否するのではなく、むしろそれを「国際社会」において必要な限りで承認するに至ったのである。このような松陰の思想的転回は、貿易すらも許容する態度へとつながっていったのであった。

   第四章 「国際社会」への編入・参加と「華夷秩序」の読み替え
 本章は、「国際社会」の法を必要な限りで承認するに至った松陰における「国際社会」認識の論理について明らかにすることを目的とする。具体的には「万国公法」受容以前の幕末日本において、華夷意識に基づく自民族中心的な自他認識をいかに乗り越え、「国際社会」に対してみずからを開き、また同時にみずからの全体性を形成しようとする試みがなされたかを、安政期の松陰を中心として考察する。近藤重蔵編の外交文書集である『外蕃通書』を詳細に検討し、外交文書の正しい書式にを追究した松陰は、国際秩序を「帝国―王国―辺境」というヒエラルヒーでとらえるに至った。しかし、このヒエラルヒーにおける帝国は、かつての「中華」のように、唯一の存在ではなく、日本と同様に独立国である諸国家に対して与えられるステイタスにほかならなかった。

 松陰は、みずから有する既存の思想体系の中にあった「帝国―王国―辺境」という国際関係概念に加え、「敵体」・「敵国」(対等国)という儒学的概念を〈諸〉帝国間の「敵体」という形に読み替えることで、現前する「国際社会」を理解したのである。かくして日本型華夷意識は、このような「読み替え」を経ることによって変容せられ「国際社会」への編入に対する準備となった。また松陰の「帝国」概念は、対外的な独立を確保する論理であったのと同時に、天皇(=皇帝)を元首とした日本の新しい国家像を形成する出発点となったのである。


   第五章 吉田松陰とアジア――「雄略」論の展開
 本章は、日本という「自己」を包摂すると同時に、また一箇の「他者」でもあった、いわば矛盾した存在としてのアジアに対する認識が、松陰にとっていかなるものであったのかを論じるものである。

 松陰におけるアジア認識を論じるとき、必ず主題となる一つのことばが「侵略主義」であろう。松陰が「雄略」と呼ぶ、海外への領土拡張の主張が、日本帝国主義によるアジア侵略が国策であった敗戦前に、高い評価を受けていた事実は改めて繰り返すまでもない。戦前において、松陰の「雄略論」を排外的膨張主義と規定し、日本帝国主義に対する批判に代えた人物が、H・ノーマンであった。

 「四夷を懾服」する「雄略」を「皇国の皇国たる所以」と見做していた松陰は、アジアに対する軍事的侵略(「懾服雄略」)を積極的に肯定していた。その意味で、松陰を侵略主義者であると指摘することは正しい。しかし、その「侵略」の対象は、カムチャッカやオーストラリアのような、いまだ「無主の地」である「辺境」だったのであり、それは「承認されることのない主権」(Peter J. Taylor)を犯している限りで、みずからの主権の領域を画定する近代国家の当然の権利でもあった(ただしこのような解釈にはずれるのが朝鮮「王国」の問題であった)。

 だが、このような軍事的膨張論は、一八五八(安政五)年以降、より平和的な交易を中心とした「航海雄略」へと転回していく。そもそも松陰の「懾服雄略」という「皇国の皇国たる所以」とは「日本が日本として独立するである方法」であった。それゆえ、松陰はみずからの軍事的プレゼンスを積極的に確立する必要があったのだが、一八五六(安政三)年八月の「転回」(第二部第三章)により、天皇の存在そのものを「皇国の皇国たる所以」すなわち「日本が日本として独立している理由」と考えるに至って、そのような積極的軍事力の行使の傾向は消えていったのであった。ここにおいて、アジアは、貪欲に境界を画定すべき辺境としてではなく、諸国家が互いに関係し合うべき交易の場として認識されるようになったのである。

   第二部 吉田松陰における思想形成とその構造

   第一章 はじめに
 その最初期においては、「我が国砲術の精確なる事遠く西洋夷に勝り候」(「水陸戦略」)と、無批判にみずからの優越性を認める自民族中心主義的思考を示していた松陰が、自己―他者に対する認識の転回により、世界の中の日本というあらたな自己像を確立するに至ったことを、第一部で明らかにした。引き続き第二部では、このような松陰の自他認識を支えた思想的背景について、松陰の著作を、作品論的にではなく、その瞬間その瞬間における彼の思想的表明として把握し、彼の思想的転回の軌跡を追うことで明らかにしていくことを目的とするものである。

   第二章 『新論』受容の諸相――その公刊以前を中心に
 本章においては、幕末維新期における思想状況を、「志士のバイブル」ともいわれていた会沢正志斎の『新論』受容の諸相を通して確認していく。

 今日、われわれは、『新論』を、後期水戸学を代表する国体論の著作として理解しているが、その公刊以前においては、必ずしも国体論の書として受容されていたのではなかった。長州藩の天保改革を主導した村田清風が筆写した「国体篇」「長計篇」を含まない写本の存在は、『新論』が国体論としてではなく兵学書として受容されていたことを意味するものである。

 また『新論』の国体論を受容するものたちも、それを全面的に受容したわけではなかった。とりわけ、公刊以前の版本の一つである『雄飛論』(書下し)では、「神州」という儒学的な日本の自称を「本編に神州と有を、今改て皇国と為す」と、国学的なそれに改めているのである。このことからも、『新論』が全的に受容されたのではなかったことがわかる。

 また『新論』の古い地理認識は、『新論』支持者にとっても不満とするところであった。しかし会沢にとって、新興国アメリカの存在を認めることは、『新論』的世界観の破綻を意味するものであった。なぜなら、会沢が「神州は東方に位し、朝陽に向ふ」と日本の尊貴性を主張したのは、儒学経典である『易経』に基づくその東方性(「帝出乎震」)と、極西たるアメリカの未開性に求めていたからである。地球が丸い以上、本来的には極東・極西の区別はないはずであるが、会沢は文不文という事実を推して日本の東方性=「東方君子国」性を主張できたのであって、新興国アメリカの存在はその前提を否定するものであった。

 しかしこのことは一方で、万邦無比たる日本国体の理論的根拠を、万世一系や君臣一体といったみずからの論理にのみ求めざるを得なくなり、近世儒学とりわけ近世国体論においてなされていた原理としての儒学経典による自己検証という反省的契機すらも喪失させていくこととなった。しばしば指摘される近代国体論の「魔術的な力」(丸山真男氏)は、まさにこのみずからの論理によってみずからを、そして世界までも語るという自家撞着的な独善性に由来していたのであり、まさに『新論』の国体論は、その儒学性を喪失させることによって、近代国体論のイデオロギーとなりえたのである。

   第三章 吉田松陰における思想上の「転回」――水戸学から国学へ
 松陰は水戸で会沢正志斎に会い、統一国家(皇国)としての日本の観念を教えられたが、松陰がいつまで水戸学の影響下にあったについては、いまだ論議のあるところである。本章は、彼の思想が一八五六(安政三)年八月の「転回」を経たのち、水戸学から国学へ大きくシフトしたことを明らかにしたものである。これは次の二つの点から論証することができた。
松陰の読書ノートである『野山獄読書記』の分析から、松陰の読書傾向が水戸学の著作から国学の著作へ移行した点。

 「転回」後、松陰は会沢の下で学ぶために水戸に留学していた友人赤川淡水に宛てて、水戸学的な尊王敬幕を主張する淡水を真の尊王家ではないとして糾弾していた点。

 水戸学は日本の存在理由を儒学(とりわけ「君臣父子の大倫の正しき」こと)に基づいていた。しかしそれでは、より「大倫の正しき」国が現れたときは、日本の存在理由は相対化されてしまう。それゆえ「転回」を経た松陰は、日本固有の天皇の存在自体に基づいていた国学の主張を受け入れてみずからの活動を展開させていったのである。

   第四章 論争の書としての『講孟余話』――吉田松陰と山県太華、論争の一年有半
 前章では、松陰の尊王論の基盤が、水戸学から国学へとシフトしたことを明らかにした。日本独立の根拠をその固有性としての天皇に求めた松陰は、みずからの尊攘論を転回させ、あらたな日本の自己意識を獲得するに至った。松陰にとってこの自己は、「国際社会」における諸国家と対等な独立存在であり、天皇は内外における日本の主体性を表現する「元首」にほかならなかった。この「転回」以前にも見ることのできた固有性への傾向を、松陰はいかにして発見したのであろうか。それは、『講孟余話』をめぐる朱子学者山県太華との一年有半にわたる論争の過程において見出されたものであった。本章は、この『講孟余話』をめぐる論争の基礎的考察である。

 奈良本辰也氏を始めとした先行研究において、この太華の「講孟箚記評語」は、『講孟余話』完成後に著されたと考えられてきた。しかし、本章で明らかにしたように、松陰はまず『余話』の「滕文公篇」までを送り、それに対し太華が評語を返したことから、松陰と太華の論争が始まったのである。そしてその後の数次にわたる『余話』と「評語」の往復の結果、『余話』は完成したのであり、その意味で『余話』を完結した体系的著作と見做すことは適当ではない。

 『余話』を論争の過程として見たとき、松陰の思想の深化が、実に太華の評語による反駁の結果もたらされたことがわかる。たとえば、「天日の嗣永く天上と無窮なるもの」(「梁恵王下八」)などという、松陰の極めて水戸学的な天皇観の表明に対し、「天日とは太陽をいへるにや…極めて大怪事なり」と太華が論難したことで、松陰は「天子は誠の雲上人にて、人間の種にはあらぬ如く心得るは、古道曾て然るに非ず」(「万章篇下二」)というように、かつてみずから主張していた、現人神天皇観をみずから否定したのであった。このような太華の影響を考慮に入れなかったからこそ、先行研究は矛盾した『講孟余話』の叙述を解釈できなかったのである(ただしこのような天皇観は再び転回する。次章参照)。本稿が提示した視座は『余話』および松陰研究の新たな指標となろう。

   第五章 吉田松陰の神勅観――「教」から「理」へ、そして「信」へ
 松陰は、「皇国の道悉く神代に原づく。則ち此の巻〔『日本書紀』神代巻〕は臣子の宜しく信奉すべき所なり」(「講孟箚記評語の反評」)というように、日本神話――とりわけ「天壌無窮の神勅」への「信」を強く主張していた。しかし、このような「神勅」への「信」は、生来のものではなかった。むしろ、兵学師範時代の松陰は、宗教を人心掌握の手段=「教」としてとらえていた。そこには、治者意識から来る抜きがたい愚民観があった。この「教」としての宗教観は、「祭は以て政となり、政は以て教となる」ことを主張する水戸学と交わることで、一層強くなっていった。

 だが、脱藩・密航を経て萩野山獄に投ぜられるに至って、みずから「世の棄物」と呼ぶような存在になったとき、松陰の愚民観は後退していった。それは、ペリー艦隊密航の罪で江戸に送致された際の駕籠を舁く被差別民の青年たちとの実際の交わりなども影響していたであろう。かくして、「教」としての宗教は退き、代わりに宗教をきわめて合理的に理解する態度のみが松陰に残ることとなった。

 かくして「天壌無窮の神勅」を「異端怪誕」と見做し、超越的な存在を不可知なるものととらえることによって、合理的な神観念を主張するに至った松陰は、宗教をもはや「教」としてではなく、ただ「理」のうちにとらえるようになったのである。しかし、このような合理的態度とりわけ「神勅」に対する態度は、やがて本章冒頭で見たように、「論ずるは則ち可ならず。疑ふは尤も可ならず」という絶対的な「信」へと大きく転回していくのである。この、「転回」を導いたのが本居宣長の『直昆霊』であった。

 『直昆霊』は、「皇国」の存在理由を普遍的な「道」や「徳」に基づくことを拒否する。なぜならば、このような普遍的規準で「皇国」の存在理由を説いた場合、日本天皇が「不徳」な場合、あるいはそれよりも「有徳」な人間が登場した場合、「皇国」は「皇国」である根拠を失う可能性を有している。その意味で「万世一系」は、単にこれまでそうであったという単なる事実であって、これ以後もそうであることを何ら保証するものではなかった。まさに宣長はこの事態に危機感を抱いていたのであり、それゆえ「有徳者為君」説を否定し、絶対的でそれ以上因果を遡及できない「神勅」に、「皇国の皇国たる所以」を見出したのである。一八五六(安政三)年八月の「転回」により、みずからの尊王論の基盤を水戸学から国学へと大きく転回させた松陰が宣長に強く共感した点はここにあった。
 松陰にとって、「日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずある」(「堀江克之助宛」一八五九(安政六)年一〇月一一日)ことを保証する「神勅」が真実であると信じることは、みずからの尊攘運動の成就を信じることであった。すなわち「天壌無窮の神勅」は「皇国」たる日本が、未来永劫独立不羈でありつづける「神聖な約束」にほかならないと、松陰には考えられたのである。

 松陰にとって「皇国の皇国たる所以」の模索は、その生涯のテーマであった。かつてそれは「聖天子」による「四夷懾服」であり、さらには万世一系・君臣一体に求められていた。しかし「転回」を経た松陰は、「君臣の義、講ぜざること六百余年、近時に至りて、華夷の弁を合せて又之れを失ふ」(「松下村塾記」)と主張するに至った。それは松陰に、武家のレジーム(君臣の義)および西洋列強の存在(華夷の弁)という国内外の現実を強く認識させ、新たなる「皇国の皇国たる所以」を模索することを求めたのであった。そして、その彷徨の末に見出されたのが、「天壌無窮の神勅」への「信」だったのである。主体的な尊王主義者――それが、松陰が最終的にたどり着いた立場であった。

   第六章 幕末における普遍と固有
 松陰にとって、「天壌無窮の神勅」は、日本の独立とみずからの尊攘運動の成就を保証する「神聖な約束」であった。しかし松陰は、それがあくまでも「万国皆同じ」な「鴻荒の怪異」であることを忘れることはなかった。すなわち、「神勅」は「皇国」固有の「神聖な約束」であって、「万国」における普遍的な「約束」ではなかった。松陰にとってこの日本の固有性が、いかに位置づけられていたのかを、本章では松陰と太華との論争を中心に明らかにした。

 松陰は、日本の固有性(「皇国の体」)を主張するのと同時に、世界における普遍(「五大州公共の道」)の存在を認める点で、矛盾した思考様式を成している。この矛盾を含んだ松陰の固有主義に比べれば、確かに日本の固有性を特殊性に解消する太華の徹底した普遍主義(「天地間一理」)は、合理的な妥当性を有していたといえよう。しかし、はたして太華の普遍主義は、現前する諸国家の相違を乗り越えうるものであったかについては、疑問を呈せざるを得ない。太華の「天地間一理」とは、あくまで形而上学的な「理」に基づく抽象的普遍であって、「天下」における具体的問題に対応しうるものではなかったのではないだろうか。

 松陰は、日本の固有性(「皇国の体」)を主張する一方で、その固有性を単に日本のみだけではなく、世界万国相互に認め、その相互承認にもとづいて、世界における普遍(「五大州公共の道」)がかたちづくられると考えていたのであり、この点にこそ明治国家において喧伝された「金甌無欠」の「国体」とは異なった、松陰における日本の固有性の模索の意義があったのだと言えよう。

   結 論
 幕末維新期は、一九世紀中葉の世界の地球規模化という世界史的状況に臨んだ人々が、現前する西洋を他者として認識し、またそれとは位相の異なる他者としてアジアを認識し、さらには自己として日本を認識する自他認識の転回過程であった。この点で、吉田松陰のペリー艦隊密航とその投獄とは、当時の人々に「寸板海に下す」ことを知らしめた、「鎖国」の終焉を象徴する事件であった。

 「航海雄略」のような主張自体は、当時の知識人において必ずしもめずらしいものではない。しかし松陰においては、その「雄略」の主体が、天皇に求められたというところに特筆すべき点があった。松陰は、「皇国の皇国たる所以」を天皇の存在、さらには「天壌無窮の神勅」という固有性に求めることによって、日本が日本として独立することを根拠づけたのであり、また「敵体」・「敵国」という儒学的概念を読み替えることで、天皇を対内・対外双方の主権が収斂する「元首」と位置づけ、国内外における政治主体の問題を解消し、日本を名実ともに「帝国」=独立国たらしむることを目指したのだと結論するものである。

   補論 吉田松陰における「忠誠」の転回――幕末維新期における「家国」秩序の超克
 本稿は、藩主から天皇への「忠誠」の移行、あるいは封建的分邦としての藩国家から近代的統一態としての日本国家への「忠誠」の移行の軌跡が、直線的に近代的思考によって導かれたのではなく、まず藩と家臣団によって歴史的に構成されている「家国」秩序を、主君へに対する「忠誠」によってうち崩すことによる近世封建倫理の乗り越えによって初めてなされたことを、松陰の「忠誠」運動の転回から明らかにした。長州藩兵学師範であった松陰は、脱藩や投獄により社会外存在となり、「世の棄物」と自称するに至る。しかしその中にあって、主君へのひたすらな「忠」をもって、既存の社会関係を越えた新たな関係を構築したのであり、「藩主の上意の下における「有司」グループ」(井上勝生氏)の形成は、まさしく松陰の主張する藩主の絶対化路線の上にあったと言えよう。

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